ビスケットのあれこれ

ビジュアル言語ビスケット(Viscuit)に関するあれこれを書いてゆきます.

教育のIT化,何をやったらいいか

2010-05-31 10:02:29 | 1
端末を子ども一人に1台ずつ配るのは慎重に.

端末は,単なるメディア再生装置だけでなく,コミュニケーション装置でもある.

メディア再生装置の性質なら,教室の本棚に図鑑が並んでいたように(もしかしたら図書館にしかない?)まずは共有で使えばよい.みんなで一緒に調べ物をする学習とか.特に個人でやらなきゃならない,個人でやるのが必須なものではないと思う.

コミュニケーション装置としては,社会人になるまでに,どこかでちゃんとネットコミュニケーションについて訓練しなければならない.適当にその世界に投げ出して,自動的に習得できるのならいいけれど,それにはある程度以上の年齢にならないと無理.小さい子には危険すぎる.

小さい子には,まずは対面のコミュニケーションからきちんと教えるべき.伝言ゲームのようなアナログの遊びで,記憶のあいまいさとか,伝播による情報の劣化,などは教えられる.音声から,文字の情報に変換したとき,どれだけ情報が不完全になるのか,という遊びもあるだろう.こんな訓練から徐々に,デジタルに移行すればよい.

デジタルのご利益は最初から活用した方がよい.たとえば,親が何度も授業を見学するのは,時間的に難しい.デジタルならば,毎晩可能である.これは密室の授業の可視化でもあるし,学校もひとつのサービス業である,という認識でもある.ある進んでいる幼稚園ではWebカメラでいつでも親が子どもの様子をみることができるそうである.

教育クラウドというのは何をやるのか.
まずは,前の記事でも書いたが,クラスに閉じたtwitterのようなコミュニケーションツール.先生,子ども,親の関係で子どもを訓練してゆく.先生一人では大変なので,他のクラスの親でデジタルが得意な人にサポートとして入ってもらおう.とにかく大事なのは,親子でITに強くなってもらうということ.どこかで子どもは親を抜いてゆくのだと思うけれど,一緒にやったということが子どもにとっての経験としても重要だし,親が近くにいるということだけでも,子どもは変な方向に行きづらい.
あと,先生もこのツールでメリットを感じてもらわないと.

クラスが慣れてきたら,授業の写真のアップやクラスを代表したつぶやきなどを子どもにやらせて,そのサイト自体が授業の記録となるようにする.

ここまでは,クラスに数台の端末さえあれば十分.大体3-4年生を想定してます.

小学校低学年は親も子どもに興味があるけど,学年があがるにしたがって,子どもへの興味がなくなる.

僕もデジタル教科書について考えてみた

2010-05-31 08:05:01 | 1
学習指導要領との関係はどうなるのか?ここを変えないで教科書だけデジタルって話に行くのだろうか.それとも,デジタル化を反対している人たち(毛嫌いしている人たち)まで話を広げると,決まるものも決まらなくなるので,とりあえず教える内容は変えませんよ,という戦略なのか.


僕が中学のときにLL教室というのがあって,英語の先生がそれを熱心に使われてらして,公開授業で,多くの先生方に見られてしまった.で,どうしていまやられていないんだろう.まあ英語は自分の発音がどうこう,なんて実は重要じゃないから,つまりLL教室自体が幻想だったのだと思うけど.

デジタル教科書も,なんか幻想になってしまわないかどうか.僕は派手な変革よりも,確実な1歩を積み重ねてゆくのがいいと思う.


それから教育について思うのは,親の存在.

結局,子どもがどんな大人になるのか,ということの全責任は親にある.学校の先生も数年は一緒に考えてくれるかもしれないけど,あれだけ大勢の子どもをいっせいに見るのだから,限界もある.どんなにぐれても,出来がわるくても,親は最後まで子どもの面倒を見る.

評判の悪い子ども手当てだけれど,その全責任がある親にゆだねる,という点で非常にいい制度だと思っている.そんなにiPadを子どもに使わせたければ,子ども手当て数か月分で買えるのだから買ってあげればいい.その先も,毎月コンテンツを増やせられる.他人の子どものことは,大きなお世話かもしれない.

制度として上から押し付けるってのは,やる方からするとやりやすいのかもしれないけど.やっぱり一人一人の親を説得して,きちんと納得してもらって導入ってのが本来の方向なんじゃないかなぁ.一人一人の親を説得できないようなものはいらんよ.親をどう説得するか,という問題から逃げるべきではない.

あと,学年の問題.どの学年から必要なのか.
確実な一歩というのだったら,上から考えるのがいいかもしれない.

自明なのは大学.いまどきの大学,どんな専攻であろうとも,ノートPCは一人1台持っているべきだと思う.大学側では最低スペックを指定する.iPadがここに含まれるかどうかは,大学が決めればいい.

高校.ここが一番難しいのかも.いろんな高校でレベル差がありすぎる.センター試験がPC持込可の科目がでてきたりしたら(調べる能力のテストとか)すぐに採用されるかもしれない.逆に職業高校だったらもっとバリバリPCを教えているだろうね.じゃあ,やっぱり簡単か.高校も必須.

中学.うーん.個人のPCがいるかどうか疑問.この話は,完全に個人の家庭の問題になってしまうので,僕の家の子育てのことしか話せないけど.うちの子には小さいうちから親のPCは比較的自由に触らせていたし,自分のメールアドレスも小5くらいからあたえていたけど.PCは親のいるところじゃないと触ってはいけなかった.携帯は持たせていない.携帯と個人PCは高校に入ってから与えた.アルバイトも高校に入ってから自由にやらせている.

いろんな考えの家庭があると思う.これは情報交換はするけど,議論をするべきことではない.どういう子どもに育てるのかの最終的な責任は親にあるのだから.
個人がPCを持つことがどういうことになるのか,ということを各親がきちんと理解した上で,各家庭の考え方でルールを決めればいい.

逆に学校は,ルールが厳しめの家庭にあわせてやってほしい.学校の勝手で,家庭のルールが緩ませられるのはまずい.

たとえば,子どものメールは親がどこまで監視するべきなのか.これは,子ども部屋に鍵をかけられるようにするかどうか,ということと似ていると思う.鍵はかけないけど,部屋に勝手に入ったりしないよ.みたいな距離感というか.子どもが小さいうちは,部屋を勝手に掃除されてもなんとも思わないし.

そもそもメールのインタフェースが,隠し事を推奨するようなものだから,親に見られる,見るのが悪い,ということになる.いま,大人が使っているメールではなくて,子どもがやりとりするためにきちんとデザインされたツールにすべき.

たとえば,twitterは個人的なやり取りでさえも,みんなに見られてしまう.見られるのが前提のインフラだ.こういうものを小さな単位から使わせて,徐々に広げてゆけばよい.

小学校低学年は,家族とのやりとり.
中学年は,クラスとのやりとり.
高学年は,同じ学年や,姉妹校とのやりとり.こんな感じで広げてゆく.
しかし,その範囲に属している人たちの会話は,twitterのように全員に筒抜けになっている.これだと,子どものコミュニケーション能力の発達と一緒にリテラシーもあげられる.

話がずれるが,コンピュータはエンピツを削るナイフのようなものだ,という議論がある.危険だから触らせないというのではなくて,きちんと使い方を教えれば安全,という説.僕はこれには賛成できなくて.というのは,今のコンピュータはエンピツを削るナイフのようなちょっと危険なものなんかではなくて,柄のないナイフだから.まずは柄のあるナイフから使わせようよ.それもペーパーナイフくらいのやつ.今のメールって,大昔に使われてたメールからまったく進歩していないんだよ.だからスパムもいっぱいくるし.mixiのメッセージとかtwitterのようにもうちょっと安全なものがいい.

小学生にコンピュータ.
僕は個人のものは要らないと思う.リコーダーは衛生的な問題で個人で購入するけれど,太鼓とか,跳び箱とかはみんなで使っているし.コンピュータ教室というのはすでに導入されているから,しいて進めるとすれば,教室に数台ある,ってところかなぁ.まずはそれを授業で活用できるかどうか.

いらないという強い理由のひとつは,親の問題もある.子どもがコンピュータ内でなにをやっているのか,親がきちんと監視できない.それは怖い.まだまだ,家庭でPCを自由に使えている親は少ない.

親と一緒に使い方を覚える的な普及のさせ方をするべき.だから,子どもに1台というよりは,親子で1台というのがいいんじゃないかな.所有権はまずは親に与えて,そこから徐々に子どもが使う時間を増やしてゆく.

そういえば,母子手帳ってそんな感じだよね.妊娠したら,母親教室父親教室に行って,母子手帳もらって.生まれてからは,母子手帳が重要な情報集約ツールとなって,医者やいろんな人たちがそれを中心に子育てする.

子どもが小学校に入ったら,親子PCというのが各家庭に配られる.すべての親がPCの使い方を学ぶ必要があって,それを通じて,先生とやりとりが行われる.その連携の上で子どもを徐々にPCに浸らせる.

あ,PCって書いたけど,もちろんiPadでもいいです.でも親子PCというのは別にデザインした方がいいかも.

その他は,いろんな人たちがしゃべっているので.僕も大体同じような意見です.

「教えない」というスタイル

2010-05-29 19:09:32 | 1
研究所のオープンハウスでビスケットの近況を報告するために,京阪奈まで行ってきました.

この1年くらいのさまざまな子ども向けのワークショップの実践が非常に説得力がでたなぁ,という印象です.

4月くらいから,「教えない」というのをテーマにワークショップをやってきました.それまでは,ビスケットの機能を手順どおりすべて教えていました.どの順番にで教えると,スムーズに頭の中に入ってゆくのか.そのあたりをいろいろと工夫してました.

「教えない」というスタイルは,基本的なヒントだけを与えて,その先を自分たちで考えさせるというものです.すぐれた推理小説のなかに,探偵と読者とがまったく同じ証拠からスタートして,読者にはわかりにくい犯人を探偵が鮮やかに当てる,というスタイルのものがあります.読者には知られていない証拠を探偵だけがこっそりつかうのは違反です.読者は懸命に推理して,探偵と同じ土俵で競います.
「教えない」はそれに近いかもしれません.こちらが与える知識,規則はまったく同じだけど,答えをすぐに教えるのではなくて,自分たちで考えて正解にたどり着いてもらう.

このやり方には,ひとつの思いがあります.

世の中の教育の大半が,誰かが考えた知識を得るというものです.なかなか自分で考えて結論にたどりつけるという経験は,そんなにできることではありません.たとえば,朝顔の水のやりかたはどうするのがよいのか,これを調べようと思ったら,いろんなやり方で朝顔を育てて,成長をみなければなりません.結論が出るには何年もかかるでしょう.上手な先生なら,うまく授業の合間に組み込めるかもしれませんが,犠牲になるのは,ちゃんと育たなかった朝顔など,時間だけじゃないですね.効率を考えて,経験はそこそこにして本に書いてある知識を自分の経験として当てはめる,ということで人類が発展してきたと言ってもいいでしょう.

ビスケットは,非常に安全に短時間でいろんな実験ができる環境です.ちょっと試すと,すぐに結果を得ることができます.これほど実験として恵まれた環境は,実は珍しいのかもしれません.

ですから,そんな貴重な恵まれた実験環境で,答えを簡単に教えてしまう,というのはもったいない.知ってしまったら,もう,知らなかったところには戻ることができないので,知らないときに,いろんな実験をして,その世界を探求する.実はなかなか贅沢な時間なのです.