ビスケットのあれこれ

ビジュアル言語ビスケット(Viscuit)に関するあれこれを書いてゆきます.

自分でプログラムを作るということの意味

2012-07-02 01:17:25 | 1

プログラミングがわかることと,コンピュータが使えることは違うという話.

ビスケットで2コマのアニメーションはこうするというのはちゃんと説明する.

 

これで,1と2が交互に表示されるアニメーションになる(時間に余裕がある時には,説明せずに,これを自分たちで発見させるということをやらせても面白いのだが).で,これができた後で,3コマのアニメーション(1,2,3,1,2,3...と数字が変わる)を作ろうと思ったとき,3コマアニメ用の

こんなような3連のメガネが無いか探す人がいる.2つのメガネを組み合わせて作ったりできるはずだ,みたいな.これは,いかにも今のコンピュータのアプリがやりそうな解である.4コマなら4連.10コマは10連.横に長くなるので,横にスクロールする機能なんか導入するかもしれない.単機能(だけどわかりやすい)がゴチャッと用意されているのが,今のアプリ.

しかし,3コマのアニメーションの正解は,ご承知の通り

である.新しく機能などを追加する必要はなく,すでに知っているメガネを組み合わせればよいだけなのだった.

なぜ,何人かの人が間違えたのだろうか.3コマのアニメーションのための機能がきっと存在してて,こうすれば動くに違いない,というコンピュータに対する信頼があったのかもしれない.でもそれはコンピュータにではなく,その人がこれまで触ってきたすごく出来の良いアプリへの信頼なのだ.

ビスケットのデザインが,ユーザの体験を第一に考えて,ユーザがコンピュータに向かう気持ちにできるだけ逆らわないように設計されているなら,これも一つの解なのかもしれない.実際に,アドビとかのすごいアプリは機能がてんこ盛り.そうなるはず.

しかし,ユーザに媚びる気などない.僕は,素のコンピュータとは何かを伝えたくてビスケットを作っているわけで,すごいオーサリングツールを作っているわけではないのだ.だから,ビスケットの発展の歴史は機能がどんどん削られる歴史でもあった.

最近のゴージャスなアプリたちは,素のコンピュータをどんどん見えにくくしている.なんでも親切にやってくれる.その延長線上にあるものはなんだろうか.制作に関与しているつもりが,人間の割合はすごく小さく,ほとんどはコンピュータが自動的にやってくれる.これって,コンピュータに支配される世界に近づいていないか?

友人のチクリンが(彼は勝手に僕の弟子だと言っているが),ビスケットに対してこんなことを言ってくれた.

「ビスケットで作った作品って,自分のもの感が半端ないんですよね」

その通り.自分で作れるということがいかに素晴らしいか.この感じを残すのには,あえて不親切なインタフェースにしているのだけれど.