ビスケットのあれこれ

ビジュアル言語ビスケット(Viscuit)に関するあれこれを書いてゆきます.

シミュレーション教材への疑問

2011-02-06 23:26:36 | 1
昨年末に,アニメーション作家の布山タルトさんとのコラボレーションのワークショップを行った.
http://www.cdc.jp/cdcblog/yuzukosho/2010.php

ビスケットは簡単にアニメーションを作ることができるけれども,もっと簡単にアニメーションを作る装置を作ってワークショップをやっていらっしゃる布山さんのノウハウなどを教えてもらって,ビスケットのワークショップの幅が少しでも広がればいいなと思って.そのワークショップの前に布山さんとの打ち合わせの話で印象に残ったことがあるので,それを書く(メディアセブンの皆さんに感謝).

布山さんと,トリガーデバイスの佐藤さんとでやられているアニメーションワークショップ.何をこだわってらっしゃるかというと,「動かないはずの物が動き出したときの驚き」なのだそうだ.なので,コンピュータの中に描いた絵が動くというのは,いまどきのコンピュータなんだから動いて当たり前じゃないかと.動いたところで,大した感動はないんじゃないか.鉛筆で描いた手書きの絵,積み木とか折り紙とか,こういったものをカメラで一コマずつ撮影していって,その写真を連続して見せたときに,動いて見える.そのときの驚きといったら...(ということで,ビスケットとのコラボは別の視点に進むことになったのだが).

この話,コンピュータが持っている偽者感をうまく説明している.

デジタル教材の中で,シミュレーション型の教材,触ると動くというタイプのものがある.本当なら実物で実験をして理解しなきゃならないものをインタラクティブ化したやつだ.コストの問題,実験の難しさの問題,個人でやれるという利点などから,デジタル化するのがすばらしいという流れになっている.

たとえば,平行四辺形の面積の求め方を教える際に,普通に紙を切ってやればいいことを,わざわざコンピュータの画面の中で,不便なインタフェースを使って,画面上の形を切ったり,並べ替えたりする.僕はこんな実験は到底信じられない.切ったり,並べ替えたりする操作の間に,我々に気がつかないようにコンピュータが形や面積を変化させているかもしれない.そういう疑問は持たないのだろうか.算数を教える理由は,数だけはうそをつかない,ってことを知ることだ.いろんなことを数に変換して計算すれば,そこにはうそが入り込む余地はない.コンピュータを使っちゃったら,そこにうそが入ってても分からなくなる.最終的にこういう教材を疑う能力を身に着けるのが算数・数学を学ぶ理由なのだよ.

乾電池の直列,並列と豆電球の明るさの実験をコンピュータ画面の中でやってしまう.これはいったい何をやっているんだろう.だいたい,本当に明るさが2倍になるのか?電熱線は熱くなると抵抗が高まるから,2倍よりは暗くなるんじゃないか.その2倍というのがコンピュータの画面でどう表現したらいいんだ?RGB値で2倍になったからといって,画面でそれが2倍の明るさなのか?ディスプレイは,くっきり見えるようにとか,いろんな調整がしてあって,そんな単純じゃない.こういう繊細なことは,学習指導要領でやれといわれていないから,うそを見せてもいいんだってことか?理科を教える理由は,自然を科学という視点で誠実に見ましょうという態度を学ぶことだ.いま習っていることは,自然の理解へのほんの入り口で,この先にまだずっといろんな面白いこと不思議なことが続くんだということを,ちらっと見せなければならない.たしかに,乾電池の実験をやるには実験準備が大変だし,お金もかかるし,がんばって実験をやっても,なかなか教科書通りの結果にはならないだろうし(測定結果がばらつくのはそれも自然科学だと思うのだが,なぜ教科書どおりのぴったりとした結果が出ないとだめなんだろう).コンピュータ上の実験ゴッコは,かならずきれいな結果がでて,すばらしいように見えるが,自然への誠実な態度を失ってしまっている.

月の満ち欠けの問題.これを画面のなかで見せてわかったことになるのか?これは3次元と2次元の変換の問題であるが,ちゃんとボールと光を使って,手を抜かないで説明すればいいだけだろう.一生に一度は立体の影がどう見えるのか真剣に観察して,納得する経験が必要なんじゃないか.大人にとっては当たり前かもしれないが,子どもにはこうった経験を手を抜いて説明しちゃいけないのだ.

全部実物でやれとはいえ,たとえば,量子力学の実験みたいに,中で起きていることを絶対に直接見れない場合もあるのだから,測定の結果の数値だけを使って,中身を想像できる能力にも,どこかで切り替えてゆかなければならない.学年が上になれば,実際に手を触れなくても,実験の映像だけで十分理解できる場合もあるだろう.そこは,抽象的に考えられる能力に応じて効率化してもいいかもしれない.こういう,どうしても実物じゃなきゃ駄目,とデリケートなのは小さい子どものときだけなのかもしれない.

教育も,コスト削減だったり,効率化だったり,いろいろと大変だと思うが,なぜそれを学ぶ必要があるのかを台無しにしてしまうようなデジタル化だけはさけたいものである.

(ここで述べさせてもらったシミュレーション教材の例は,特定の何かをさしているのではなく,僕の脳内で想像しただけのものです.その想像に対して,こういう考えもあるのだということで受け流してください.なぜ学ぶべきかの理由も僕が勝手にでっち上げたものです.文科省は日本最大の教育組織かもしれませんが,それにこだわる理由も僕にはないです)

教育をワークショップ的にデジタル化する

2011-02-03 22:19:46 | 1
教育のデジタル化を考えたとき,コンピュータは教育のどの部分を支援すべきか.はっきりいって未開の地なので,僕が理想だと思っている方向に支援すれば,世の中はそうなるんじゃないか.

先生が黒板に問題を書く.「はい,これわかる人」「はーい」「じゃあ,前に出てきて,やって」.クラスの代表がその問題をすんなりと解いて授業は先に進む.授業が終わるちょっと前に,先生は今日の授業で教えた内容のミニテストを配る.あらかじめ切り貼りして作ったものをコピーしたやつだ.もしかしたら,授業中のトラブルで,そのテストのレベルまで進んでいないかもしれないリスクがあるが,しかし事前に準備しなくちゃならない.で,テストが終わって,採点はその日の夜に行われ,翌日に返される.そこでわかるのは,クラスの大半は全然理解していなかったってことだったりする.教えられてから,相当な時間がたたないと,授業での子どもたちの理解度が先生や本人にわからないのである.....これは,僕が子どもの頃の授業の風景だが,今もこんな感じなんだろうか.子どもにタブレット端末が一人一台配られたとき,これががらっと変わる.

先生は,電子黒板に問題を書く.それを子どもたちの端末に一斉に送る.子どもたちは,それを解く.元気のいい代表だけが解くのではなく,全員が解く.解いた答えは先生にすぐに集められる.先生は,送られてきた答えから順に,正解,不正解を判別し,典型的な間違いを見つける.匿名のまま,その間違いを電子黒板で見せる.みんなで,どうしてこれが間違えなのかを考える.最初に問題が解けた子どもも,偶然にできたのかもしれない.よくある間違いをみんなで考えることで,全員がより深い,しっかりとした理解につながる.そして,みんなで,この勉強を一緒に理解しようという連帯感が生まれる.

全員の理解度が授業時間中にわかることで,先生は,自分の教え方の欠点も修正できる.あそこの説明をはしょりすぎたといった.もしかしたら,わざと半数くらい間違えるような教え方をしたほうが面白いのかもしれない.

この授業で重要なのは,よくある間違えをみんなで考えるという部分なのである.ということは一番最初の教え方はへたくそでもいい.教え方が上手いか下手かということよりも,子どもたちと対話ができるスキルが重要なのだ.

これが,デジタル化により教室はワークショップ化するということなのである.

ちなみに,いわゆるデジタル教材を子どもたちが個別に操作して,そこになんのコミュニケーションも引き出せなければ,昔ながらの教育のデジタル化ってことなので,僕はまったく興味ないです.

必要なのは,教科書の単元にそった便利なデジタル教材なのではなくて,先生と児童が円滑にコミュニケーションできるデジタルツールなんだ,ってこと.

そんで,私はビスケットを作ったときと同じくらいの情熱でもって,それに取り掛かっている.