ビスケットのあれこれ

ビジュアル言語ビスケット(Viscuit)に関するあれこれを書いてゆきます.

掛け算の順序について

2011-07-27 20:08:26 | 1
とうとう我慢ができなくなったので,掛け算の順序について一言言わせてくれ.

掛け算には順序があるという教え方に僕は反対である.

1)九九を暗記させられている時点で,記憶しなければならないことを最少にしたいという工夫が生まれる.こういった工夫ができることは人生を生きる上ですばらしいことで,逆にこういう工夫をしてはならないと教える積極的な理由はない.工夫が大好きな子どもが,九九というのは入れ替えても答えは同じだと発見するのは,まったく自然なことである.そこに罪悪感を持たせてはいけない.

脱線するけど,世の中工夫できない人間だらけだと,
「九九は半分の暗記でよい」
とかいう本を書いたら,売れちゃうのだろうか.掛け算を計算する前に,×の前に必ず小さい数がくるように入れ替えてから計算する,という方法を教える.こうすれば,九九は半分だけ暗記すればよい.とわざわざ言わなくても,こんなの自明だし,少なくとも僕はこうやって暗記していたから,8の段あたりは全然覚えていなくて,「はちし」は必ず「しわさんじゅうに」にして解いていた.

2)掛ける数,掛けられる数の違いをきっちりと理解させるべき.という考え方にはある賛成できる.問題は,1)のような背景の上でそれを強いることにどれほどの意味があるのかということである.一方では,入れ替えても同じ答えになるなんて,みんな知っているのに,わざわざ決まりごととして順序を付けさせる.ここでいろんな立場の人たちで大きく意見が異なる.しかし,子どもを人質にとられちゃっているから,教育界にはかなわない.
僕は,これを教えるには×という記号を拡大解釈までして使うべきではなく,交換が不可能な書き方を新たに導入して,この上で教えるべきだと思う.こうすることで,それぞれの立場の人の接点が見出せる.
たとえば,「~の~倍」という書き方をする.

問題例,3人のこどもに,えんぴつを2本ずつあげようと思います.えんぴつがなん本いるでしょう.

単純に数が出てきた順に3×2と書くのは間違えで,2×3としなければならないそうだ.そんな,式に勝手に新たな意味を導入するのではなくて,式を書かせる前にまず
2本の3倍
という言葉を書かせる.ここで,逆に「3人の2倍」と書くのは間違えである.これはこどもが6人いるという意味になるからである.順序にこだわる人たちはここの違いを教えたいだけでしょ.困るのは,×の記号の式にその意味も持たせちゃったこと.だから,「~の~倍」という書き方をさせるのがよい.

文章題 → 文字による式 → 記号による式 → 計算(九九の表をひく,筆算,電卓) → 答え

という順序で考える.ちゃんと理解できたら,ある段階をパスしてもよい.

順序をどうこう言っていいのは,文字による式の上だけである.ここで,かける数,掛けられる数の概念をしっかりと理解させる.記号による式を書いたときには,前後が入れ替わってもよい.そんなの議論するまでもなく,当たり前である.九九の暗記の直感とも一致する.

3)算数と数学の違いがあるのかどうかは良くわからないけれども,世の中に大量に数学コンプレックスを持った人が生まれているという事実を,算数,数学教育者はよく認識すべきである.自分たちの一方的な「でなければならない」という押し付けはやめて欲しい.どこかに思考のギャップがなかったのか,無理な教え方がなかったのか,真摯に考えて欲しい.

数学のすばらしさは,具体的なものからスタートするけれども,抽象的な概念に昇華させたときに,何事にもとらわれずに自由に考えられるというところにある.具体的に考えるときには掛ける数,掛けられる数を混同してはいけないのだとしても,抽象的な乗算という計算の世界に移ってからは,掛ける,掛けられるということにとらわれないで自由に考えることができる.それがすばらしい.

これまでまったく関係のないことだと思われていたことが,式の世界では同じ形になる場合があるんだという驚きがある.3本の木にそれぞれ4つずつリンゴが成っている場合と,3つのリンゴが成っている木が4本ある場合とで,リンゴの数は式の上では(乗算だから入れ替えてよいから)まったく同じである.これが,どれほど面白いことなのか.こういう面白さをどんどん教えてゆこうよ.

で,3×2と書いた子に対して,それを不正解とする先生がいるようだが,これがどれほどひどいことなのか.この子は,これから数学のすばらしい扉を開こうとしているのかもしれないのに,それを禁止させられてしまったのだ.ここで不正解をくらったら,自分が否定されてしまったことになる.ささやかな工夫はするなという.数学で工夫できない人を育てて,何の得があるのか.そういう犠牲を生んでまで,式の世界で掛ける数,掛けられる数の概念を理解させることが重要なのであろうか.


僕は,ビスケットを設計したり,ビスケットの教え方を工夫したりで,非常に細かいところをこだわっている.そのこだわりは,誰一人としてコンピュータを嫌いになって欲しくないということからくる.習う側から見てギャップの激しい理不尽なことはできるだけ排除しようと日々工夫している.そういった苦労から見ると,これまでの算数の掛け算の順序の教え方には無理を感じる.式の上で二つの混同してはいけないこと(具体的な対象のことと,抽象的なすばらしい計算の世界)をごっちゃに教えてしまっている.ここは明確に区別して,文字の式という段階をもう一段導入して教えたほうが,ストレスが少ないだろう.そうすれば,少なくともここで算数を嫌いになる人は出ないと思う.

算数の教育者たちは,算数を好きなんだろうか.