ビスケットのあれこれ

ビジュアル言語ビスケット(Viscuit)に関するあれこれを書いてゆきます.

なぜプログラミング教育を必須にすべきか

2010-06-07 23:33:03 | 1
ビスケットを子どもや大人に教えてて,面白いのは,反応がほとんど同じだということ.この点を少し考察してみよう.

ビスケットをやっていて最初の壁は,相対座標の理解である.これは,ラジコンカーを操縦することと同じなのだが,絵が上に動くというプログラムがあったとき,その絵を逆さまに画面に置いたら下に動く.絵にとっての上,ということなのだが,これが一つの壁である.ここは理系の大人ならまあすんなり理解できるところだ.

ところが,2コマのアニメーションは理系であっても難しいようだ.

まず,A->Bというプログラムをつくって,画面上のAの絵がすべてBに書き換わるのを見せる.ここで「Bの絵をAに書き換えるにはどうしたらよいか」とたずねる.すると,多くの人は,いまのプログラムを壊して,AとBの位置を入れ替えたものを作る.B->Aが出来たので,画面上のBはすべてAに変わる.しかし,先ほどのA->Bを壊してしまっているので,Aのまま動かない.で,またAをBに変えるように言うと,いま作ったB->Aを壊して,A->Bを作るので,AはBに変わるけれど,Bのままだ.

つぎに,「くり返しA,B,A,B,A,Bと動かすようにするにはどうしたらよいか」をたずねる.ここでかなり頭をひねるみたいだ.いろんな試行錯誤をした後で,もう一つプログラムを作る,ということに気付く.つまり,A->Bを壊さずに,新たにB->Aを追加するという,ただこれだけである.

おもしろいことに,この一連の反応は子どもも大人もそんなに変わらない.

大人でもすぐに答えが出せる人がいるが,その人はコンピュータプログラムの本質を理解している人である.理系であっても単にプログラムを書けるだけでは見つけられない人がいる.

彼らは,どのように考えているのだろう.

最初のA->Bから,Aが全部Bに変わったことは,ビデオのリモコンのような遠隔操作という解釈をしているのだと思う.A->Bはリモコンのボタンを押したことに相当する.なので,A,B,A,B,..と続けて動かすには,リモコンのボタンを順番に押し続けなければならない.

ところが,A->B,B->Aという2つになったとき,これはボタンを押すのではなく,動作の規則を記述した,ということに変わる.これがプログラミングである.AのときにはBに変わる,BのときにはAに変わる,という規則があり,それにしたがってA,B,A,Bと連続して動き続けるのである.

実は記述によって動作の規則を決めている,というものは結構多い.
身近なものとしては,電子機器などの取扱説明書である.箱から出して,どのようにケーブルをつないで,どのスイッチを押して,XXしたいときにはこれをして.

記述によって動作の規則を決めることは,現代を普通に生きて行くためには非常に重要な能力なのである.

一方で,この一番基本の部分である理解が,子どもと大人とそれほど変わらないということは,人間が普通に生きていても,自動的に獲得できない能力である,ということを示している.

マニュアルが読めない人がいるから,分かりやすいマニュアルを作るべきだ,という議論がある.もちろん分かりやすいマニュアルを作るべきだけれど,その基礎能力である「プログラミング」を全員が身につけられるようにするという改革も重要であると考える.

ビスケットでいうと,最低でも30分あればそこは何とか伝えられる.ただし,さくっと答えを教えてしまうのではなくて,すこし頭をひねってもらって,自分で考える,ということをやって欲しい.その方がより深く頭の中に刻み込まれる.マニュアルの読み方だけじゃなく,いろんな装置たちともう少しうまく付き合えるような人生を送れるのではないか,と思ったりする.

そんなわけで,小学生だけじゃなくて,中高大学生はもちろん,大人もみんなビスケットをやるのがよいと思う.

携帯電話を学校に持ち込むな,の議論

2010-06-01 05:49:02 | 1
昨晩は,広島でワークショップ関係者との宴会.そこで偉そうなことをまた言ってしまったのだが.

広島県は,高校でも携帯電話は学校へ持ち込み禁止なのだそうだ.高校でも禁止というのは,やりすぎだと思うが.

議論をしてて,自分がどういう立場なのかということにはっきりと気づいた.僕は,技術が大好きで,すべての人がその技術を安心して使えるようになって欲しいと思っている.いまのように,「学校で禁止すべき」「禁止すべきでない」という真っ二つに意見が割れるような状況では,なぜ「禁止すべき」という意見がでてくるのか,の方に興味がある.そして,最終的にはみんなが合意できるところはどこなのかを,技術で解決したい.

僕が理想とする携帯電話は.

幼稚園児は,自分の親にしかかけられないし,かかってこない.

小学校低学年は,クラスの友達や先生にはかけられるけど,いつどのような内容の会話が行われたのかは,親や先生が見守れるようなもの.これは監視のように感じるかもしれないけど,そうではなくて,子ども部屋にこもって遊ぶのじゃなくて,大人が見ている範囲で遊びなさいといっているようなもの.

小学校中学年では,何か問題があったら,大人が内容を知ることができるけれど,積極的には見ない.子ども部屋で遊んでもいいけど,鍵はかけるなってこと.

学年があがるにしたがって,子どものプライバシーを尊重しつつ,いざというときは,大人が助けられる体制はつくる.鍵はかかるけど,万一のときは鍵をこじ開けられることだけはできるようにしておく.

上の議論で,メールなのか電話なのかというのをあいまいにしていたが,文字のコミュニケーションの難しさ,というのは,これとは別に,それぞれの学年できちっと教える必要がある.感情を込めて読んだ文が,文字だけを伝えた場合,その感情がどれだけ違って解釈されるのか,ということ.学年があがるにしたがって,どうすれば誤解されにくい文が書けるようになるのか,ということをきちっと教える必要がある.

高校生くらいの子達には,メールを何分以内に返事を書かなければいけない,という怖いルールがあると聞いたことがあるが,これも,正しいコミュニケーションを手順を追って教育してこなかったせいだと思う.大人だと,それはやばいと思って,どこかで制止することができるが,高校生のような中途半端な能力しかないから,止めることができない.破綻するルールとはどういうものかを教える必要がある.

話を戻して,子どもの発達に応じて,能力が増す電話であるが,この能力を変更するのは親の仕事である.親が設定して制約を解除する.機械おんちの親であっても,この設定解除がどんな結果につながるのかをちゃんと理解して操作できるようにする必要がある.これは技術側の問題と,親も含めたリテラシー教育の問題でもある.