数年前にもブログで書いてきたが、ここでは先日の山口の本村さんの裁判に触れる。山口市光市母子殺害事件のことである。わたしはその日の午後、仕事先であったが特にテレビをつけて見ていた。
この間、最高裁でこの事件の最終判決がでた。これは広島高裁からの差し戻しに継ぐ二度目の控訴審であり、被告は死刑が確定した。13年の年月がかかったが、この判決内容にわたし自身も同感である。今後、被告側がたとえ裁判の再審請求を起こしても、事実認定を争う事案ではないので冤罪による判決内容の変更はあり得ない。万が一あっても、情状酌量による減刑のみだ。
わたしには、広島高裁における公判での弁護側の、いぎたない屁理屈をこねくりまわした‘人権派’による冒頭の口頭弁論の内容の奇天烈さを、いまだに忘れることができない。まるで、下品なアニメやマンガの原作の如しであった。
今回ははじめて本名が公開されているが、改姓の事由はどういことか、今後の再審請求にそなえて、面会権を得るために弁護側、支援者とのあいだに獄中での養子縁組が結ばれたのか。
被告は中学生の時に母親が自殺した。では、実の父親は現在どうしているのだろう。ひっそりとしてはいるだろうが、どんな心境でいることだろうか。
このことについては、報道では触れていないように思う。かつて、大阪で多数の小学生無差別殺人を犯して、既に死刑執行になった男性の父親のように無関係と思っているのだろうか。実の親としては無責任を通りこして野放図な印象であったが、そう思わざる得ない環境で生活をしているのだろうか。
家庭での教育の難しさは、現代の風潮でうかがえることに、親子間の猫っ可愛いがりに見られる核家族の友達ふうな関係や、親自身が楽をする怯堕な放任主義でも子供をまちがえた方向に育ててしまうのだ。要は、子供自身の将来に向けての自覚の持たせ方だろう。責任の持たせ方だろう。いやおうもなく成長すれば親子間といえども距離感は出てくるし、そのスタート時点で、愛情をもった端緒のつけかたが重要である。そのうえで、峻烈で厳しい言い方をすれば、そこでは親は子を突き放せるほどの無関係が理想であるべきだ。
それはともあれ、いつもテレビで見る本村さんのまっとうで懸命な態度を見ると感心する。なんだか、ホッとする。わたし自身が物事を教えられている気がする。
わたしは、「本村さん、再婚おめでとう。とりあえず、終わって良かったね。」 と言いたい。