主の祈り(しゅのいのり、ギリシア語: Κυριακή προσευχή、ラテン語: Oratio Dominica または冒頭句を取って Pater Noster、英語: Lord's Prayer)は、キリスト教の最も代表的な祈祷文である。「主祷文」(しゅとうぶん)とも。日本ハリストス正教会では「天主經」(てんしゅけい、天主経)と呼ばれる。
イエス・キリスト自身が弟子たちに教えたと新約聖書に記されている祈祷文であり、キリスト教のほぼすべての教派で唱えられている。
概説
キリスト教は、神への祈りを捧げる時に唱える様々な定型文(祈祷文)を持っているが、どの文を正統な祈祷文と認めるかは教派によって異なり、またプロテスタントの一部には定型文としての祈祷をほとんど持たない教派もある。その中で、主の祈りは唯一、イエス・キリストその人が「祈るときは…(中略)…こう祈りなさい」と言って弟子たちに与えたとされる祈祷文であり、教派によって文章や訳文の違いはあるものの、キリスト教のほとんどの教派で正統な祈祷文として認められている。新約聖書(福音書)には、イエスがこの祈祷文を弟子たちに教える場面が書かれている。(マタイによる福音書6章9-13、ルカによる福音書11章2-4)
構成と異稿の問題
祈祷文として用いられている文章は、おおよそ『マタイによる福音書』6章9-13に則っている。最初の3つの祈り(2 - 5行目)は神と天上に関する祈り、次の3つの祈り(6 - 10行目)は人間と地上に関する祈りである。また、最後の部分(11 - 13行目)は、一種の頌栄である。
イエスはおもにアラム語で話したといわれているが、出典である福音書の原文はギリシア語であり、その後西方教会では古くからラテン語で唱えられてきたが、英語など各国語に訳される際、教派や時代によって訳語が少しずつ違ってきた。
「主の祈り」の最後の頌栄部分は、伝統的なラテン語訳聖書(ヴルガータ)には書かれておらず、ヒエロニムスがヴルガータを訳した時代よりも後の時代においてギリシア語聖書の『マタイによる福音書』6章13に付け加えられたものと考えられる。このため現代一般的に読まれている聖書では、福音書にこの部分は書かれていないが、宗教改革期に続々と各国語に訳され出版されたルター訳ドイツ語聖書や欽定訳英語聖書などでは、参照されたギリシア語聖書「テクストゥス・レセプトゥス」が中世のビザンチン写本を底本とした編纂であったため、頌栄部分が含まれた訳文が西方にも広まった[1][2]。
ローマ・カトリック以外の多くの教派では、この頌栄部分を「主の祈り」に含めて唱えているが、カトリック教会では原則的に、この頌栄を「主の祈り」に含めない。ただし、現行のミサ典礼文では、この頌栄に相当する文が副文として唱えられる(後述)。なお、ミサ聖祭(聖体拝領を含む典礼)中の「主の祈り」では最後の「アーメン」を唱えないが、聖務日課やロザリオの祈りなどミサ以外の祈祷においては、頌栄を除いた本文の末尾に「アーメン」を付す。
主の祈り・・ギリシャ語朗読
マタイ福音書6章~11節
9 10 11 12 13 13(続き)
The Lord's Prayer in Greek (Classical) - Πάτερ ἡμῶν... 主の祈り ギリシャ語 古典式発音で朗読
The Lord's Prayer in Modern Greek (Revised 2014) 同上 現代式発音で朗読
英語訳
The Lord's Prayer (modern version)
Our Father in heaven,
hallowed be your name.
Your Kingdom come,
your will be done,
on earth as in heaven.
Give us today our daily bread.
Forgive us our sins
as we forgive those who sin against us.
Lead us not into temptation
and deliver us from evil.
For the kingdom,
the power and the glory are yours
now and forever.
Amen.
Our Father, which art in heaven,
hallowed be thy name;
thy kingdom come;
thy will be done,
in earth as it is in heaven.
Give us this day our daily bread.
And forgive us our trespasses,
as we forgive them that trespass against us.
And lead us not into temptation;
but deliver us from evil.
[For thine is the kingdom,
the power, and the glory,
for ever and ever.]
Amen.
日本語訳
主の祈り (現代語訳)
天のお父さん
あなたの名を礼賛します。
あなたの世界が来ますように。
天国がそうであるように地上においても
あなたの思いが果たされますように。
私たちに今日の食料を与えてください。
あやまちある人を私たちがゆるすように
私たちのあやまちをゆるしてください。
私たちを誘惑におちいらせず
悪事から救い出してください。
世界と力と栄光は永遠に
あなたのものだからです。
アーメン
プロテスタント訳(1880年)
下記の訳文は、プロテスタント系の讃美歌集の多くに掲載されている文語訳のもので、現在でも多く用いられている。
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
カトリック教会の文語訳
カトリック教会が、2000年2月15日まで使用していた主の祈り(主祷文)。現在は、公式には使用されていない。
天にましますわれらの父よ、
願わくは御名の尊まれんことを、
御国の来たらんことを、
御旨〔みむね〕の天に行わるる如く
地にも行われんことを。
われらの日用の糧を
今日〔こんにち〕われらに与え給え。
われらが人に赦す如く、
われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ、
われらを悪より救い給え。
[アーメン]
カトリック教会と日本聖公会の共通口語訳
2000年に、日本のカトリック教会と日本聖公会では、独自の文語訳ないし口語訳から以下に紹介する共通口語訳を制定し、以降正式に用いている。
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
[アーメン]
斜字部分は、前述のとおりラテン語訳文になかったためカトリック教会では伝統的に「主の祈り」と見なさなかった部分で、カトリックの祈祷書などでは、エキュメニカル(超教派的)な集いなどで頌栄を続けて唱える場合の祈りとして紹介されている[5]。
なお、1990年版の現行『日本聖公会祈祷書』の聖餐式の項においては、冒頭部分にルブリック(小さい文字で書かれる注釈)で「主の祈りを歌いまたは唱える」と書かれ、また斜線部分(頌栄)の直前にルブリックで「続けて次の祈りを歌いまた唱える」と書かれてあり、「主の祈り」の正文と頌栄部分を区別する意図が見られる。それ以前の文語版祈祷書では頌栄部分は含まれておらず、正文の末尾に「アーメン」を付す。[6]。
外部リンク
- グレゴリオ聖歌によるラテン語「主の祈り」動画、ネウマ譜付き。
- 英語による多声アンセム「主の祈り」動画。ジョン・シェパード作曲。
- カトリック南山教会の現行口語訳版「主の祈り」動画。
- 横浜正教会(日本ハリストス正教会)の「天主経」(部分)動画。「天にいます我らの父よ……地にも行われん」までを収録。
イエスが使った言語
イエスが使った言語はヘブライ語ではなく、おもにアラム語であったというのが今日の定説になっている。
概要
イエス・キリストが弟子たちを教え、民衆に語りかけた言葉は、ヘブライ語ではなく、同じ北西セム語派に属するアラム語であったというのが今日の定説になっている。イエスの言葉は後にギリシャ語で『七十人訳聖書』の新約聖書部分としてまとめられ、さらにラテン語に『ヴルガダ聖書』として翻訳されて長い間伝えられてきたが、プロテスタント運動の時期に各国語に翻訳された。
イエスが活躍したローマ帝国時代のユダヤ属州ではヘブライ語はすでに口語として使われる機会は少なくなっていて、アラム語が普遍的に話されており、イエスもアラム語(のガリラヤ地方方言)を話していた可能性が大きい。 [1] ただし、イエスはおもにヘブライ語を話したと主張する人々もいる。 [2]
聖書に現れるアラム語
もともとギリシャ語で編纂された新約聖書には、イエスが語った言葉としていくつかのアラム語が直接使われている。
- (イエスは)「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う、起きなさい」という意味である。(マルコによる福音書第5章41節: Talitha kum = Little girl, I say to you, get up! )
- そして、(イエスは)天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは「開け」という意味である。(マルコによる福音書第7章34節:Ephphatha = Be opened)
- イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイによる福音書第27章46節: Eli Eli lema sabachthani = My God, my God, why have you forsaken me?、同様な表現がマルコによる福音書第15章34節にも)
また、「主の祈り」もさまざまな研究(特にアラム語から派生したシリア語への再構築や「私たちの負い目/罪」の部分など)から、これがもともとはアラム語であったろうと推測もされている。 [3]
ただし、当時ヘブライ語は口語として死語となっていたからではなく、イエスの死後にもパウロは神殿の境内でアジア州から来たユダヤ人たちへは「ヘブライ語で話し始めた。」ことが記録されている。(使徒言行録第21章40節)それでも他の場所では、彼の手紙のしめくくりとして、アラム語で「マラナ・タ(主よ、おいでください)。」という祈りの言葉を残している。(コリントの信徒への手紙一第16章21節)
アラム語
アラム語は、かつてシリア地方、メソポタミアで紀元前500年から紀元600年頃に話され、現在もレバノンなどで話されるアフロ・アジア語族セム語派の言語で、系統的にはフェニキア語やヘブライ語、ウガリト語、モアブ語などと同じ北西セム語族に属す。
アラム人によって話されて各地に広まり、アラム文字で書かれた。
紀元前1000年前後にアラビア半島から出現したアラム人は、メソポタミア、シリア全域に浸透し、話者人口とその活動範囲を一挙に拡大した。続くアッシリア帝国、新バビロニア、アケメネス朝ペルシア帝国などの大帝国でもアラム語が使われ、国際共通語としての地位を確立し、アッシリア学の基礎となってる。近隣のセム語話者たちはその文章語、口語のアラム語化といった直接的な影響を受ける。
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