ホムンクルス・ラスト。
ホークアイの、見開き含む3ページにわたる連射を正面で受け、「終わり?」と平然と問う女。
ホークアイが、涙を流し膝をつく。
あのホークアイを「小娘」として描く、その演出に、私は心底唸った。
すごい。
兄弟に道を示したマスタングと並び立つ、大人の女性ホークアイ。
彼女でさえ、まだほんの小娘なのだと。
けれど今。
私は考える。
では、ラストは「大人の女」だったか?
いいや。
なぜなら。
彼女にとって「お父様」は、絶対の存在だったから。
心から父を尊敬し、その目的のために使役されることを喜びとした。自らの存在を、1ミリたりとも疑わなかった。
彼女は、「娘」だ。
だから彼女は、大人の女ではない。
少年が大人になるとき。
少女が大人になるとき。
それは、今まで絶対の存在だった親や教師が、実はただの人間だったと気付くときだ。
平凡で、卑小で、愚かでつまらない、1人の人間だと。
なんだ、自分と同じじゃないかと。
そして、自分と同じ者から、どれほどの愛を注がれてきたのかを。
エドは、今、まだその手前にいる。
けれどもうすぐに、その境界を越える。
ラストは、そのずっとずっと手前で、その存在を終えてしまった。
ラストは大人にならなかった。
ホムンクルスらの長女ラスト。けれど彼女は、お子様エンヴィーや幼児グラトニー、同じく幼児のスロウスと同じに、親を絶対の存在として疑うことさえしないで。
その意味で、グリードの方が、ラストよりは数段、大人だった。
プライドは、どうだろう。
彼が、己は完璧な存在で、そして父を絶対だと思っているなら。
彼はエドに勝てないだろう。
ラストが、マスタングに勝てなかったように。
ホークアイの、見開き含む3ページにわたる連射を正面で受け、「終わり?」と平然と問う女。
ホークアイが、涙を流し膝をつく。
あのホークアイを「小娘」として描く、その演出に、私は心底唸った。
すごい。
兄弟に道を示したマスタングと並び立つ、大人の女性ホークアイ。
彼女でさえ、まだほんの小娘なのだと。
けれど今。
私は考える。
では、ラストは「大人の女」だったか?
いいや。
なぜなら。
彼女にとって「お父様」は、絶対の存在だったから。
心から父を尊敬し、その目的のために使役されることを喜びとした。自らの存在を、1ミリたりとも疑わなかった。
彼女は、「娘」だ。
だから彼女は、大人の女ではない。
少年が大人になるとき。
少女が大人になるとき。
それは、今まで絶対の存在だった親や教師が、実はただの人間だったと気付くときだ。
平凡で、卑小で、愚かでつまらない、1人の人間だと。
なんだ、自分と同じじゃないかと。
そして、自分と同じ者から、どれほどの愛を注がれてきたのかを。
エドは、今、まだその手前にいる。
けれどもうすぐに、その境界を越える。
ラストは、そのずっとずっと手前で、その存在を終えてしまった。
ラストは大人にならなかった。
ホムンクルスらの長女ラスト。けれど彼女は、お子様エンヴィーや幼児グラトニー、同じく幼児のスロウスと同じに、親を絶対の存在として疑うことさえしないで。
その意味で、グリードの方が、ラストよりは数段、大人だった。
プライドは、どうだろう。
彼が、己は完璧な存在で、そして父を絶対だと思っているなら。
彼はエドに勝てないだろう。
ラストが、マスタングに勝てなかったように。
「海の底」の小説群、お言葉通りありがたく頂きました。読み返してみますと、もう、そのカレイドスコープみたいな視点の変化と人物設定への深い洞察が楽しいです。これからもしっかり読み直させて頂きますね。私も『真珠』のつき抜けたような、何が何でもハッピーエンド!のパワフルな展開大好きです! 「針穴」も今回改めて読み直しましたが、このエドの自己犠牲とやせ我慢の切なさは、確かに彼が基本として持っている要素ですよね。
さて、今回も気になるお題を提示されました。
「ホムンクルスの大人度」(笑)
子供が大人になる時の最初の超えるべき壁は確かに「親」でしょう。絶対だった自分の世界が、また別な見方が出来ると知るには、精神的な成長が必要になります。「親」は子供の全世界を支配する絶対のもの。それが、弱さももろさも悩みもずるさも切なさも自分と同じように持つ一人の同じ人間なのだという認識は、親と対等な「大人」としての目線がないと出来ません。
原作のホムンクルス達にとっては、「お父様」は絶対者です。どんなホムンクルス達も彼への絶対の信頼は揺るぎません。一見逆らったかに見えるグリードすらも私には、単なるワガママ息子に見えます。強欲という性質をもらった彼は、単に利害関係において、「お父様」の目的と対立し、その元を飛び出しましたが、だからといって、別に他の兄弟達や「お父様」には刃向かおうとか邪魔しようとか否定しようとか、思っているわけではなさそうです。アルにちょっかい出さなければ、お気に入りの仲間達と、おもしろおかしく人生(?)を楽しんで過ごしたように思います。そこに複雑な葛藤や揺らぎは存在しません。
ラストも、「お父様」への絶対の信頼のもと、自分の消滅の際さえも何の揺らぎもなく、その生を終えました。彼女が最後の最後まで口にしたのは、「お父様」の目的成就への絶対の信頼です。そこには自分の消滅への痛みも悲しみも見えません。性悪エンヴィーですら、「お父様」の目的達成のための自分の使命には全くの疑いがありません。やり方が雑過ぎて、プライドに怒られてむっとしても、それが「お父様」否定にはならないのです。
原作のホムンクルス達は、だから確かに「人間」ではありません。そしてそう言う意味では、創造主への全くの疑いのない絶対の信頼を抱いている「子供」です。彼らは「お父様」を超えることも否定することもない、「成長しない永遠の子供」なのです。この位置関係は不変です。
対して、大佐もリザもそしてエドも様々な経験や状況の中でその精神は変わり続けます。
おそらくエドには、この後ホーエンハイムという一人の人間の全体像を理解する展開が待ち受けているのでしょうが、その時にまた一歩彼は大きく成長するのでしょうね。
そういった意味では、アニメ版ホムンクルスは「揺らぎっぱなし」なラスト始め、ラースもスロウスもエンヴィーすらも自分の存在そのものに大きな疑いと不信を抱いていました。ある意味、人形から人間へ、と極めて「人間的に」描かれていたのかも知れませんね。その分彼らは、人間になりきれない悲しみも強く抱くようになっていったのは、皮肉でもあり悲劇でもありました。
アニメ比較ができるほどアニメを深く観ていないので(その割にアニメについても喋ってるけど(苦笑))、ここでは原作だけ。
ラストはまるで中学生の学級委員の女の子だなあ、って思います。グリードはおっしゃるとおり悪ガキ。
ホムンクルスは完全な存在だから、それ以上の成長は無い。人間は不完全だから変わることができる。その辺り、作者の哲学というか、人間の弱さへの温かい視線が感じられて好きv
それにしても、ラストにしろグリードにしろ、硬派だなあって思います。根っこが堅くて潔くて清廉。欲望のくせに(笑)
エンヴィーが一番(あるいは唯一?)「嫉妬」の醜さや苦しさや情無さを持ってるなあって思います。賢者の石ベースホムンクルスで彼が一番人間らしいような気も。それとも彼もまた純粋な賢者の石ベースでは無いのかな?
エドの成長は必ず描かれるし、ホーエンハイムの成長もまた描かれると思うので、私は今は、じゃあ「お父様」は、変われるのか?を楽しみにしていたり。彼が変われるなら面白い。そしてその場合はプライドが変われない存在として哀れになる。ふふふー大人読みに堪える少年漫画。楽しみですv
コメントありがとうございました!