歌猫Blog跡地

漫画「鋼の錬金術師」と荒川弘について語るブログ。更新終了しました。

ごっちゃにして忘れる話とか

2010年12月27日 | ◆小ネタとか突っ込みとかつぶやきとか
雑誌ダ・ヴィンチでね。
人はいかにイイカゲンに話を覚えているか、という話があって。
走れメロスのあらすじを書いたら三人が三人ともバラバラで、同時に読んでみた檸檬でもやっぱりばらばら、という面白い実験。
それで、人は本を読んでる最中から忘れている。自分が重要だと思うところを選択し、不要な部分は忘れてゆくから、結局は誰も同じ話を読んでいない、というような話で。(←歌猫解釈ね) わー、なるほどなあ!って思った。

今までも鋼を読んで友達としゃべったら、同じガンガンを今日読んで今日話してるのに違う話じゃん!(笑)ってのはずーっとあって。
だから「物語」というものは、自分のレンズを通して自分の内面に焦点を結んだ像のことを指すんだ、と。
もっと言うと、私たちは自分の内面の像のことしか語れない。
作品は、自分の外にある。私が見て、他の人も見て、大勢の人が見ているけれども、その作品について語っているつもりで実は、それぞれが自分の内面の像について語っているんだ。
という考えは、ずっと鋼を語ってきて、確固たるものになっていたんだけども。
ダ・ヴィンチで改めて、誰も同じ話を読んでやしない、ということを、書かれていて、いやあその通りだなあ!と思ったのでした。

そして、混同する例として、同じ作家の別の作品や、同じ時期に読んだ似たテイストの作品が混ざりこむ、というのが示されててね。私もシャーロックホームズの赤毛連盟とか、ほんっと混ざってて(笑)すっごい納得したんだけども。
つまり、鋼の錬金術師という作品は、漫画もアニメ2作も、ともに、同じ時期に同じキャラと名前でインプットされたわけだから、混同して当たり前なんだな、って思ったの。
アニメ1期のときは、漫画というメディアそのものを贔屓してる私としては、アニメという何倍もパワーのあるメディアでもって鋼の錬金術師という作品のイメージを伝播されちゃったもんだから、かーなり悔しがっていたのね(笑)
でも、今は、例えば「それは水島版に影響を受けすぎだ!」みたいな論調のを目にすると、いやいや、と首を振る。水島・會川版は荒川鋼のエッセンスの一部をちゃんと汲み取っていたし、荒川版が水島版の後に、そこから離れる方向へ比重をかけたのも確かだ・・・えーと、確かだと思う。ずっと鋼を見てきた論客において、ここんとこは、だいたい意見が一致してると思う。
それでね、水島版も含めて「鋼の錬金術師」という作品であることは、もう、鋼の錬金術師という作品の運命っつか規定路線つかもーどーしよーもない事実なのだ、なあ、と。
鋼の錬金術師という作品とともに生きてきた人にとっては、混同するなっつーのが無理なんだよねえ。

もちろん、その上で、自分の中の像を、ここは1期アニメ、ここは2期アニメ、ここは原作・・・と切り分けていくこともできる。
でもそれは、その像を抱えるその人自身の問題で、作品の問題ではない・・・んだと思うんだ。

鋼の錬金術師、という作品は、原作とアニメとぜんぶ含んで鋼の錬金術師という、作品だ。

荒川マンセーの私だけども、原作が終わって、それぞれに決着がついたから、晴れ晴れとした気持ちでそういう風に思うことができる。
うん、よし!

それからね。
二次創作とか、ファンフィクションとか言われる、コミケとかああいう世界。
実は、あれもまた、私が思っている以上に、鋼の錬金術師と言う世界の一部だったの。
最終回についてあーだこーだしゃべってるとき、「あれはAさんの描く兄弟に似てるよね」と誰かが言って、皆がうんうん、と頷いた。
私はほんっとにびっくりしたよ!
私もその同人作家さん大っ好き。すっごい荒川先生の描く兄弟に近くて、そこに彼女ならではの解釈を添えてくれてて。もーすげー好き~v
でも同人界にいない私は、Aさん「が」原作に似ている、としか考えたことがなかった。
原作が、Aさんに似てる。
そうか、私が絶対と思う原作は、受け取り手によっては、そこまで相対的なものなんだ・・・!

キャラとキャラクターの話、伊藤剛氏のテヅカ・イズ・デッドで語られてたことの何がしか、とか、荒川弘がどう変遷しようと私のロイはこのロイなの、と断言した友人の言葉とか(すげーって思った。で、その通りだと思った)、いろいろ混ざって、今の私は、作品と作家は別物であるトークに凝っております。

であるからして。
二次創作と原作を混同するのは、原作第一主義者の歌猫的には憤懣モノであったのだけども、それもまた、アニメと原作を混同するのが当然のように、当然のことであったのだなあ、と。
それでもなお、二次創作のイメージを原作に乗せて、私のイメージではない、というニュアンスで原作を語られるのには、どうにも納得がいかないのだけども…でも、納得できなくても、そのような視点でもって作品が評価されることもある、ということを、私は認めなきゃならんのだ!うし!

もちろん、原作は絶対だ。
荒川弘の原作が生まれなければどの二次創作も(公式アニメも二次創作だ、原作から見ればね)生まれることは無かった。
でも、そんなことを仮面ライダーなんちゃらに夢中の小学生に言ったところでナニソレ?だ。ルパン三世グッズを買ってるお父さんに言ったところで同様に。
彼らはたぶん、石森やモンキーパンチの絵は知らないし、知らないからといってどうということも無い。

そんでね。
どうだろう?これから先、鋼の錬金術師という作品に初めて出会うひとたちが、一番身近な接点ってどこかなあ?
動画サイトか漫画喫茶か古本屋か・・・友達との貸し借りとか?
5年後とか、10年後とかの話。
私は、7年前は、漫画こそ残るものだ、アニメは流れて消えていく、だから漫画のが絶対に鋼なんだ、と思ってたけど、本より動画になっていくなら、この先はもう違うのかも?
鋼と一緒に歩んできたファンたちが、原作のあらすじを忘れて、原作とアニメと二次創作とスタッフトークとをごっちゃにして、それでも、ああ面白かった、という感情だけで年寄りトークをしてる頃。
10年後の15歳が鋼を知ることがあったら、それをどんな風に見るんだろうな。
その時の鋼は、アニメなのかな漫画なのかな小説なのかなゲームなのかな。

荒川先生がさ。
息子が15になったら鋼を読ませて面白いと言わせちゃる、みたいなことおっしゃっててさ。私、それは楽しみだなあ、でもきっと、息子さん、まあそれなりに面白いかな、くらいしか言わないんじゃないかなあ、って思った。
少し前にね、今の小学生にスラムダンクと黒子のバスケと両方読ませたら黒子のが面白いというのだ、というブログ記事を読んでね。さもありなん、って思ったよ。
名作は時代を超える。
でも、今この時だからこそ面白い、という面も、すっごい大きいと思う。

鋼は時代の後押しが消えても、ずっと面白い作品だろうか?私たちの思い出としてではなく、未来のその時に、切実に面白い作品を欲している中学生くらいの子たちにとって。
こればっかりは、予想もつかないや。

あらすじはごっちゃになって忘れてしまう。
ってことはですよ。
忘れるたびにまた鋼を読んで、ああ面白い!って楽しめるってことなのよね♪
忘れるってお得だなあ~(笑)


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