現在本殿と向かい合う仮殿は、元和四年(1618)の建立当初は楼門を入った正面にあった。現在地に移築されたのは昭和二十六年(1951)であり、軸線上にあったのは戦前まで仮殿であった(田中淡著「茨城県指定文化財鹿島神宮仮殿修理工事報告書」鹿島神宮社務所 1975)。
楼門
仮殿
本殿は軸線に直交するように北面し、軸線は森深く奥宮まで続く。本殿また奥宮が北面するのは、祭神が軍神、蝦夷征討が背景にあると云われているが、軸線を避ける理由にはならない。神に対する畏避なのか畏敬なのか、自然崇拝と異なる、当初よりの人格神への崇拝の在り方なのかもしれない。
本殿
奥宮
(注)2015年3月撮影
奥宮は元和五年(1619)建立の現本殿の前の、徳川家康による慶長九年(1604)造替、京大工による本殿である。ともに三間社流造であるが、現本殿は外陣一間を付け加えており、平面が異なる。更に、木原方幕府御大工鈴木長次としては始めての石の間造であろうか、石の間を介して拝幣殿と連結する。同形を維持するといった造替ではなかった(文化財建造物保存技術協会編「重要文化財鹿島神宮本殿・石の間保存修理工事報告書」鹿島神宮 1989)。



本殿は軸線に直交するように北面し、軸線は森深く奥宮まで続く。本殿また奥宮が北面するのは、祭神が軍神、蝦夷征討が背景にあると云われているが、軸線を避ける理由にはならない。神に対する畏避なのか畏敬なのか、自然崇拝と異なる、当初よりの人格神への崇拝の在り方なのかもしれない。






(注)2015年3月撮影
奥宮は元和五年(1619)建立の現本殿の前の、徳川家康による慶長九年(1604)造替、京大工による本殿である。ともに三間社流造であるが、現本殿は外陣一間を付け加えており、平面が異なる。更に、木原方幕府御大工鈴木長次としては始めての石の間造であろうか、石の間を介して拝幣殿と連結する。同形を維持するといった造替ではなかった(文化財建造物保存技術協会編「重要文化財鹿島神宮本殿・石の間保存修理工事報告書」鹿島神宮 1989)。