大田皇女は鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の姉にあたり、鸕野讃良皇女が草壁皇子を生んだのに対して、大田皇女は大津皇子を産んでいます。 草壁皇子と同じ年の大津皇子は人望溢れ、将来有望視されていましたが、早くに母をなくし、その人生は暗転します。 草壁皇子を溺愛する持統天皇は後に、謀反の罪で大津皇子を排除し、自害に追い込むます。 前々から是非訪れたいと思っていただけに、標高約520mの二上山雄岳山頂までの登山は一苦労しましたが達成感はひとしおです。
壬申の乱の戦後処理が終わった676年、朴井連雄君が遣新羅大使に任ぜられた。時の新羅王は文武王である。ところが、朴井連雄君は脳卒中で倒れ、後任に物部連麻呂を指名した。 この頃、壬申の乱の功績者が続々と亡くなっている。朴井連雄君の死に際しては、天武は内大紫という26階級中5位という高位を与えている。 それに比べると物部連麻呂は19位の大乙上であり、朴井連雄君に代わって 遣新羅大使となるにはあまりにも位が低かったが、元大友派としては仕方がない。 しかし、物部連麻呂の遣新羅大使としての仕事ぶりは群を抜いており天武に好評を得たようである。 これにより物部連麻呂は貴族達に一目を置かれる存在になていくのである。 天武は能力主義を貫いている。 たとえ壬申の乱時に大友皇子側であったとしてもである。 中臣連大嶋は中臣連金の甥であったが、博学であったがゆえに神祇次官に任じて重用している。 物部連麻呂が大山中に昇進したのは679年、40歳の頃である。 大山中は26階級中14位で、貴族の最下位・小錦下のすぐ下にあたるから貴族になるのもすぐに迫っていた。 落ちぶれた物部の末裔が、壬申の乱に敗れた後に、ここまで上がるのは並大抵ではない。しかも物部連麻呂は娘を藤原朝臣不比等に入れている。 679年、天武は吉野で盟会を行った。 異母兄弟である草壁、大津、高市、川島、忍壁、施基皇子を集め、天皇の命に従い助け合うように誓約させている。 長子は高市皇子であるが、母が筑紫の宗像氏で有力豪族でもなんでもない。 従って皇后が生んだ草壁皇子が皇太子となった。 しかしこの頃から皇子達の間にお互いに競争相手視する意識が強まったともいえるのである。というよりも草壁皇子を溺愛する皇后の他の皇子に対する牽制が目に余ったためか・・・。皇后が人望のある大津皇子を恨み、それが表面化したとも考えられる。 草壁皇子は病弱であり凡庸である。次の天皇になる器ではなかった。皇后が苛立つのも無理はないが、天武天皇が亡くなれば皇太子草壁が天皇になるであろうが、皇后が亡くなれば、天皇は草壁から皇太子の位を剥奪し、大津皇子に与えるであろう。反発するものもほとんどいないであろう。 天武と皇后の間には間違いなく亀裂がはいっていると物部連麻呂は感じていた。 亀裂は草壁皇子の問題だけではなく後宮の女人に次々と手をつける天武に対する皇后の気持ちを推し量れば容易に理解できる。 なにしろ壬申の乱の際に吉野を脱出して夫とともに桑名までいった皇后はまだ28歳であったからである。 この頃、物部連麻呂は石上神社の巫女であった振姫という女性を後宮にいれている。思ったとおり彼女は侍女となり皇后に仕えると、定期的に物部連麻呂に皇后の心境などを報告している。それによると朝廷が分裂ぎみであるというのである。 天皇の大津皇子への寵愛ぶりにより官人が迷い始めているという。 これに対して皇后は草壁皇子の補佐役として無位の大舎人・中臣連史をつけた。 大織冠・藤原鎌足の子で後の藤原朝臣不比等である。鎌足は先の天皇・天智の片腕として蘇我入鹿を倒し蘇我本宗家を滅ぼした。 この大化の改新という革命は彼がいなければなし得なかった。そして天智は鎌足に安見児と鏡女王の二人の女人を与えた。 当時安見児は天智の子を身篭っており、それが不比等であると考えられている。生まれた史は天智に似ており、壬申の乱の前に史は山科の田辺史大隈の家に移されたことも噂を広げた原因である。 物部連麻呂は振姫を通じて皇后が史の出生の秘密を知っているのを掴んだ。このとき物部連麻呂は天武と皇后のどちらにつくかが自分の将来を大きく左右されるのを知った。 681年、物部連麻呂の努力が報われる。とうとう貴族である小錦下に任ぜられたのである。同時期に貴族になったのは柿本臣猿、粟田臣真人、中臣連大嶋、高向臣麻呂といった蒼々たる連中がいた。貴族になると邸宅の敷地はこれまでの10倍になり、10人以上の従者が国からの給料付で与えられる。 この頃、天武と皇后の亀裂はさらに広がりを見せた。 天武が大津皇子に政治の一端をまかせるようになったからである。天武は草壁皇子の位を浄広壱、大津皇子を浄大弐とし、一位の差をつけることにより皇后の気持ちを和らげようとしたが、天武の大津皇子に対する期待感溢れる様子に嫉妬は和らぐはずもなかった。 この年草壁皇子と后の阿閉皇女(後の元明天皇)は軽皇子(後の文武天皇)を産んでいる。 阿閉皇女は天智の娘で母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘で、その母も石川麻呂の娘・遠智姫である。 天武と皇后の間に溝が深まるに連れて天武はやせ細り、太り始めた皇后は政治に対する発言も増し、本格的な都の地として藤原の地を押し始めた。 そして視察に史や物部連麻呂も従った。緊張感が高まる中で一人自由奔放に山中で狩を楽しみ、漢詩を詠むのは大津皇子である。大津皇子と行動を共にするのは天智の子・川島皇子、天武の子・御方皇子、八口朝臣音樫、巨勢朝臣多益須、中臣朝臣臣麻呂など数え切れない。 狩場は大和周辺であるが吉野に通じる竜門岳まで及んだ。 物部連麻呂は振姫を通じて調べたことを皇后に報告する。 668年、天武の容態は悪化し、陰陽師に占わせた結果、草薙剣の祟りであるという。早速飛鳥浄御原宮の宮殿に祀っていた剣は熱田神宮に戻されたが効果は薄く、胃の痛みに喘ぐ天武の声が宮中に響き、侍女も官人も耳をそばだてる。 物部連麻呂は久しぶりに天武を見たがあまりのやつれように叩頭で視線を逸らせた。大津皇子の妃は天智の娘・山辺皇女で20歳になったばかりであるが、ある噂が流れた。 草壁皇子が惚れている若い女人に大津皇子が言い寄っているという。 草壁が大名児と呼ぶその女人・石川郎女は美貌と歌才で有名で、草壁が後宮に入れた蘇我系の女人である。大津皇子は、微妙な立場にあるにもかかわらず大胆な行動にでたことに物部連麻呂は呆れた。 しかも酒宴の席で堂々と詠んだのである。 「大船の津守の占に告らむとはまさしに知りてわが二人宿し」 そしてこの直後大津皇子は一人伊勢神宮の斎宮に行き、姉の大伯皇女に会っている。皇后がなみなみならぬ決意を感じ取った頃、天武は正殿で亡くなり、宮の南に殯宮が建てられた。 物部連麻呂は法官の長として誄に加わったが、これは物部連麻呂が皇后に認められたことを意味する。 そして川島皇子から大津皇子が謀反を企てているとの密告に対して、物部連麻呂は物部氏を率いて大津の屋形を取り囲む。壬申の乱で大将であった高市皇子も皇后側についている。大津皇子の謀反事件はあっというまに終わった。 大津は逮捕されると翌日には死を賜った。 それを知った妃・山辺皇女は大津の死体にすがって殉死したという。大津の狩に従った多くの者も逮捕され、物部連麻呂は彼等の名を皇后に報告している。事件を知らなかった草壁皇子は大津の刑死に衝撃を受けて鬱々とした日々を過ごすのである。気の強い女帝は草壁の回復を信じたが、鬱は続き、天武の長い殯の儀式が終わり遺体が大内陵に葬られた直後に草壁は病床の身となり、半年後に亡くなったのである。
大津皇子は葛城山の北端にある雄岳、雌岳が並ぶ二上山に、持統女帝の意思により埋葬された。二上山は西方浄土の入り口のようなところで、無実の大津を罠にはめた女帝が祟りに怯えて鎮魂の目的で決めたと考えられる。 大津皇子は死の直前、たとえ姉弟といえども男子禁制の伊勢の斎宮に、姉・大伯皇女に会いにいっています。 目的については諸説があるようです。 伊勢の神の神意を問うためとする説、謀逆の成功を神に祈るためとする説、不成功を予見して姉に別れを告げるためとする説などです。
わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて暁露にわが立ち濡れし
ただひとりの同母姉である大伯皇女は、すべてを覚悟の上で大和へ還らなければならない弟・大津皇子の身を案じながら、明けゆく空にも気がつかずただ朝露に身を濡らしながら立ち尽くす・・・・。
二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ
二人で行っても寂しくて越えがたい秋山を今頃どの様にしてあなたは一人で越えているのであろうか・・・。 大伯皇女は政治・世間の事もわからないあまりに小さく隔離された世界に住み、彼女の視点は低く視野はとても狭かった。その限定された思考の中で、大津が皇太子になるのだと当然のように信じていたのです。 大津皇子が死を賜わった時、その妃山辺皇女は狂乱して髪をふり乱し、素足のままで駆けつけ、夫の遺骸の傍らで自害します。 大津が刑死した後、姉大伯は解任されて伊勢から都へ戻ります。 その後十五年、大伯皇女は “自分はなぜ命を捨てても弟を逃がさなかったのだろう”という悔恨、 “山辺は命を捨てて弟を私から奪い取ってしまった”という絶望、にさいなまれ続けたといいます。
うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟世(いろせ)とわが見む
あとに生き残った私は明日からあの二上山をわが弟と思って眺めよう・・・と詠んだ悲痛の歌です。
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言はなくに
磯のあたりに咲いている馬酔木を手折ろうと思いますけれども、手折ったとて、お見せする皇子は、もはやこの世には、おれらませんのに・・・・。
阿部倉梯麻呂
仏教賛成派 ┏ 吉備姫王 ┗ 小足媛624-
蘇蘇我稲目-579? ┃ ┣ 軽大郎女 ┣ 有間皇子639- ┓
┣ 蘇我堅塩媛?-? ┃ ┣ 36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
┃ ┃ ┏━━━━━━━━━┛ ┃ 飛鳥宮 ┏漢皇子 ┃
┃ ┣ 桜井皇子 ┣ 35皇極天皇(宝皇女)594-661 ┃
┃ ┣ 炊屋姫(33推古天皇) -628 ┃ ┃板葺宮 (37斉明) ┃
┃ ┃ ┣ 菟道貝鮹皇女573-599大俣女王┃ ┣ 間人ハシヒト皇女628-665 ┛ ┓
┃ ┃ ┣ 鸕鶿守皇女 574- ┣ 茅渟王 ┣ 40天武(大海人皇子)630-686┃
┃ ┃ ┣ 竹田皇子571- ┃ ┃ ┣ 十市皇女648-678 ┃┓
┃ ┃ ┃ ┗志紀皇女(馬子娘) ┃ ┃ 額田王631- ┃┃
┃ ┃ ┣ 小墾田皇女 ━━┓ ┃ ┣ 38天智(中大兄皇子)626-671┛┃
┃ ┃ ┃ 息長真手王 ┃ ┃ ┃乳母は蘇我,葛城で育つ ┃┃ ┃
┃ ┃ ┣田眼皇女┗広姫 ┃ ┃ ┃ ┣ 大友皇子648- ┃┃ ┛
┃ ┃ ┣尾張皇子 ┣押坂彦人皇子 ┃ 宅子娘┗葛野王669-705┃┃
┃ ┃ ┗━━━━┓┃ ┃ ┃ ┃┃
┃ ┃広子 ┃┃小熊子女?┣ 34舒明天皇(田村皇子)593-641 ┃┃
┃ ┃ ┣麻呂子 ┃┃┣ 太姫 ┃ ┃ ┣ 古人大兄皇子 622- ┃┃
┃ ┃ ┣酢香手姫┃┃┣ 糠手姫皇女-664 ┃法提郎女 ┗ 倭姫王┃
┃ ┣ 31用明天皇┃┃┃ ━━┓ ┣ 蚊屋皇子 ┃
┃ ┃ ┗田目皇子┃┃┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃宣化 ┃┃┃ ┃ 蚊屋采女 ┃
┃ ┃ ┗┓ ┃┃┃ ┣ 来目皇子578- ┃
┃ ┃石姫皇后 ┃┃┃ ┣ 殖栗皇子┏━━━━━━━━━━━━┛
┃ ┃ ┣ 30敏達天皇538-585 ┣ 茨田皇子┣ 大田皇女644-667
┃ ┃ ┃ ┣難波皇子 ┃ ┃ ┣ 大伯皇女661-701
┃29欽明天皇509-571┗春日皇子 ┣ 厩戸皇子┃ ┣ 大津皇子662-686
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣ -
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 山辺皇女
┃ ┣穴穂部間人皇女-621 ━━┛ ┃ ┃尼子娘(胸形君徳善娘)
┃ ┣穴穂部皇子 -587 ┃ ┃ ┣ 高市皇子654-696
┃ ┣宅部皇子 -587 ┃ ┣ 草壁皇子662-689
┃ ┣泊瀬部皇子558-(32代崇峻天皇) ┃ ┃ ┣ 吉備皇女683-707
┃ ┃ 河上娘 ┣錦代皇女 ┃ ┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武)
┃ ┃ ┏大伴連糠手━小手子 ┃ ┃阿閉皇女661-721(43元明)
┗ 小姉君 ┗大伴連囓 ┗ 41持統天皇645-703