六条御息所のモデル徽子女王(929-985年) 通称:斎宮女御・承香殿女御 と規子内親王
醍醐天皇第四皇子・重明親王の子で、母は太政大臣藤原忠平女、寛子。 938年、斎宮として伊勢に下り、母の喪により退下する。948年、叔父にあたる村上天皇に入内、翌年女御となり、規子内親王を生んでいます。 962年に皇子を生むが、その日の内に夭折した。 以後長く病に悩み、里第に逗留する。 967年、村上天皇が崩御の後、円融天皇即位後の975年、娘の規子内親王が斎宮に卜定され、977年、徽子は娘に同行して伊勢に下っています。
娘に同行して伊勢にいっていることから、徽子女王は六条御息所のモデルとされています。源氏物語 「賢木」で、六条御息所が娘の斎王(=後の秋好中宮)に同行して伊勢へ下向する際、「源氏のことが、これで忘れられるかも・・・」との記載があります。 円融天皇が「前例のないこと」とお止めになるのも聞かず、娘に付き添って伊勢へ下向してしまいました。
その後、2人は10年近い歳月を斎宮で過ごしますが、永観二年(984年)に、円融天皇が花山天皇にご譲位されたことにともなって斎宮を退下し、帰京しました。そしてその翌年の寛和元年(985年)に、微子女王は57才の生涯を閉じているとも、 その後出家したとも言うが、晩年の消息は定かではないようです。 また、娘の規子内親王は母の死の1年後に追うようにして亡くなっています。
伊勢から帰京後の956年三月には 『斎宮女御徽子女王歌合』、959年八月には 『斎宮女御徽子女王前栽合』を主催し、 徽子のサロンには源順・大中臣能宣・源為憲・橘正通ら文人が出入りするほどで、三十六歌仙の一人でもあります。 中でも徽子女王の歌の幽韻なしらべは格別であります。
琴の音に峰の松風かよふらしいづれのをより調べそめけん
なげくらむ心を空に見てしがな立つ朝霧に身をやなさまし
幼くして伊勢斎宮に卜定され、母の喪により退下してのち、二十歳で村上天皇に入内した女王は、斎宮女御と呼ばれた。天皇との仲は睦まじかったが、源氏物語の世界の原型とも言われる村上後宮には、中宮藤原安子(師輔女)・女御芳子(実頼女)をはじめ美女才媛が揃い、寵愛は他に向かいがちであったらしい。
因みに、紫式部が彰子に仕えていた頃が1000年くらいですので、徽子のサロンでの話しはいつも出ていたのではないかと想像します。