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【絵画-21】スペイン内乱を描いたゲルニカ By パブロ・ピカソ1881-1973

2021年04月03日 | 絵画 音楽 映画

【日独伊の接近とスペイン内乱】   1931年アルフォンソ13世の退位後に共和制が誕生。1933年に日・独、1937年に伊が国際連盟を脱退した頃、1935年にコミンテルンが左翼の人民戦線戦術(ファシズムと対抗するためなら共産党員は誰と組んでも良い:国際旅団)を呼び掛ける。ここに小説家アーネスト・ヘミングウエイ1899-1961も参加。のちにアーネスト・ヘミングウエイは「誰がために鐘はなる」を発表する(1940年)。1943年には映画化され、ゲイリー・クーパーとイングリッド・バーグマンが主演した。1952年には「老人と海」、そして1954年にはノーベル賞受賞。

   これによって仏ではブルム人民戦線内閣、スペインではアサーニャ人民戦線内閣が誕生したことで、日独伊は共産主義への危機感を募らせる。そして1936年にスペイン内乱が起きる。アサーニャ人民戦線内閣の政策(ソ連が応援)に対してフランコ将軍1892-1975(独伊が応援する右翼)が反乱を起こすことで起きた内乱である。結果フランコ将軍側が勝利して、1936年にベルリン・ローマ枢軸が独伊の間で結ばれた。これに誘われた日本はアメリカの反発を恐れて、1936年日独防共協定に落ち着き、1937年には日独伊防共協定が成立する。この時英仏は不干渉の宥和政策をとった。スペイン内乱を描いたピカソ1881-1973のゲルニカは有名である。

ゲルニカとはスペイン・バスク地方の古都(人民戦線側)で、フランコ将軍口利きのドイツ軍によって史上初の無差別爆撃を受けた1937-4-26。これを受けてピカソはパリ万博出店用にゲルニカを1か月で制作(速乾性のペンキ使用)。

 

【ピカソという人】  ピカソ1881-1973の女性関係は伝説的。女性はピカソにとってはインスピレーション源であるから必要なときは崇め、不要になるとぼろ雑巾のように捨てる。誰一人として幸せにはしていない。37歳の時にロシア人ダンサー・オルガと結婚。45歳で17歳のマリーテレーズを愛人とし、ドラが新しい愛人に加わった。こんな62歳の時22歳のフランソワーズ・ジローと同居、すぐに新しい愛人ジャクリーヌを見つけ、79歳の時に再婚。ピカソの死後、テレーズもジャクリーヌの自殺。このように悲しい女性たちを描いたのが「泣く女」モデルはドラ。ゲルニカの完成直後である。ゲルニカ製作中に愛人ドラとテレーズが内輪もめ。その戦いをピカソは煽っていたからなんとも・・・。それを絵にするのだから恐ろしい男である。

1895 バルセロナへ

1897 王立美術アカデミーへ:1年のみ

1898 カフェレストラン「四匹の猫」

1900 パリへ

   親友カサヘマス自殺:青の時代が始まる

1903 モンマルトル:洗濯船 ヴァトーラボワール

          (モディリアーニ、ジョルジュ・ブラック1882-1963)         

1904 恋人No.1 フェルナンド・オリビエ:バラ色の時代

1906 セザンヌ死去 : 遠近法、質感無視

   セザンヌ回顧展 → ピカソ、ブラックは影響を受ける

   民族美術ブーム:アフリカ彫刻、ゴーギャン

   アフリカ彫刻の時代

1907 アヴィニオンの娘たち : スペインのアヴィニオンは売春街

   仲間からは不評・・・

   セザンヌ大回顧展

   ブラックの評価に初めてキュービズム登場

       女流画家マリー・ローランサン1883-1956(生誕地パリ)と知り合う(ジョルジュ・ブラックを介して洗濯船@パリで)

       【贅沢大好き!パリ生まれ】

       ピエール・ロシェ1879-1959が恋人

       詩人ギヨーム・アポリネール1880-1918と出会う@1907-1914--NY・ダダの先駆者

       魔性の女、浮気女

       「詩人に霊感を与えるミューズ」by アンリ・ルソー@1909

       ピカソの恋人フェルナンドとは不仲

       ジョルジュ・ルパプ :『Vogue』誌などで活躍したイラストレーターと知り合う---モード界に人脈

       ニコル・ポワレ(ポール・ポワレ:モード界の帝王)と仲良くなる

       1914:ドイツ人男爵オットー・フォン・ヴェッチェンと結婚:紹介したのはロシェ--ドイツ国籍になる

          第一次世界大戦勃発---夫婦でスペインに逃亡--藤田嗣治、堀口大学と出会う

       1917 フランソワ・ピカビア1879-1953と出会う@バルセロナ---「391:ダダイズム美術雑誌」創刊

          ローランサンは391に詩を投稿:翻訳は堀口大学

          マルセル・デュシャン1887-1968もNY・ダダ派

       1921 パリに帰国、離婚@1922して仏国籍

          「グールゴー男爵夫人の肖像」---社交界で大人気

          シャネル#5

          「シャネルの肖像」---シャネル本人には不評、不仲になる

          1920年代百合アピール(レズアピール)

          この頃ココ・シャネル1883-1971は単なる帽子デザイナー

       ココ・シャネル1883-1971とともに1920年代に大活躍(二人とも特に日本で人気)

       当時のカメラマン:ホルスト・P・ホルスト セシル・ビートン:20世紀前半のファッション写真界に大きな足跡を残す

       高野将弘氏が最大のコレクター(マリー・ローランサン美術館理事長)

       再評価@2013 

       マリー・ローランサンとモード展」 2023-4-16~6-11開催予定@京セラ美術館     

       1937 パリ万博出品

       1940 独が仏に侵攻 ---ナチスは現代アート迫害

 

1908 キュービズムブーム 

   カーン・ワイラー1884-1979(独ユダヤ人でフランスの画商)画廊でジョルジュ・ブラックの個展開催

   「レスタックの高架橋」

1910 肘掛け椅子に座る女性 : 分析的キュビズムの時代      

1911 キュービズムが世界的なブーム@ New York Times

   恋人No.2 エヴァ・グエル  早世:総合的キュービズムの時代

1912 セクシオン・ドールというグループ結成 : モンパルナス・キュビスト

   キュビストの家

   サロン・ドートンヌ 

1913 ジョルジュ・ブラック「果物皿とトランプ」 

1914 第一次世界大戦

   パトロン画商カーン・ワーラの出資凍結

   相棒ブラックは出兵  

   ピカソ、ブラックのキュービズムの終焉(但しそれ以外の画家がキュビズムに邁進)

1917 ロシア革命 共産主義風潮

1918 ロシアバレーの舞台美術

   恋人No.3 オルガ・コクローヴァ(ロシアバレー団上級踊り子)と結婚:古典主義の時代へ 

        ---上流階級の人脈:絵が大ヒットして金持ちに

   モンパルナス派のキュービズム画家(サロン派--ピュトー派):ロベール・ドローネー1885-1941

        →セクシオンドール発行→WW1後もキュービズム展開

        →エコール・ド・パリ(パリ派 : 藤田嗣二、モディリアーニ、シャガール)

        →集合アトリエ兼住宅 : ラ・リューシュ

        →サロンに出品

   この中から建築設計家ル・コルビジェ1887-1965(モンパルナス派の画家であった) --- 東京西洋美術館設計

   マルセル・デュシャン1887-1968

 

   1906 ファン・グリス1887-1927 スペインからパリ-モンマルトル-洗濯船へ

      マティスをキュビズムにした男

      ピカソと同郷だが・・・

      モンパルナス派とサロンに出品

   1913 カーン・ワイラーと契約 フェルナン・レジェ1881-1955も契約

   1915 「朝の食卓」

 

 

1927 恋人No.4 マリーテレーズ17才 街でナンパ 同棲-出産 自殺

   「夢」:56億@1997 165億@2006

1931 スペイン-アルフォンソ13世退位-第二共和政

1936 人民戦線内閣:世界中の文化人が応援--左翼系 ⇔ 右翼系:フランコ将軍--独伊が応援

          ヘミングウエイ:誰がために鐘は鳴る--義勇軍に参戦したアメリカ青年 

1937 スペイン内戦 無差別爆撃Byドイツ@4/26 ゲルニカ スペイン北部バスク地方の古都

                       牛:残忍性 馬:人民 --- ピカソのモチーフ

          ゲルニカ空爆の直接表現は修正の途中で消している---普遍的表現にしている

1937 恋人No.5 ドラ・マール1907-1997:テオドラ・マルコビッチ 画家、写真家 精神病で病死  

         ゲルニカ製作に密着して制作途中を記録に残している

         恋人No.4との戦争勃発

         「はっきりかたをつけてよ!」Byマリーテレーズ

         「お前ら喧嘩して決めれば?」Byピカソ   フランソワーズ・ジローの伝記より 

               

1937 パリ万博 :壁画として描いたゲルニカ--一か月で完成3.5x8m 速乾性ペンキ

1939 ゲルニカ展@アメリカNY--反ファシズム展覧会--NY近代美術館で保管--ゲルニカの評価が高まる

1940 ナチスによるパリ占領--ピカソは逮捕されていない

1943 恋人No.6 フランソワーズ・ジロー22才 画学生 現在103歳@2023

1944 パリ解放--パリ共産党にはいる

1952 恋人No.6 ジャクリーヌ・ロック27歳 自殺@1986

1960 ベトナム戦争--ゲルニカはLove&pieceの象徴

1975 フランコ独裁政権終焉--王国に戻る

1981 プラド美術館でゲルニカ公開

1992 ソフィア王妃芸術センター

   

大塚国際美術館で撮影 :ゲルニカ

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