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義経の作戦

2006年05月31日 | 平家物語

 第26話 源氏義経の作戦

 平家は屋島から大軍を率いて福原から一の谷の3kにおよび、海上には数千の軍船を浮かべている。 源範頼、梶原景時は 平家の総勢3万、源氏洛中の兵は3千。 ここは時を待ち、鎌倉からの援軍と合流して平家追討を提案した。 ところが義経は今がその時と妙案を携えてでた。 源氏の武将を説得し、院の許しを得ると、さっそく3千騎は大江山に陣を構えて平家の動きの詳細をつかんでいた。

 一軍は範頼を大将として摂津の伊丹から西宮を抜けて生田川への平野を進む2千騎。 また義経率いる1千騎は、丹波路を篠山、小野と進み鵯越から敵地の真上へ襲いかかろうというのである。畠山次郎重忠、土肥実平などは、梶原景時を何故か嫌っていただけに、軍艦景時のいない二陣に嬉々としていた。

 このとき平家の若武者・敦盛(清盛の弟・経盛ツネモリの三男)は洛の暗がりにただ一人で忍び入っていた。右大弁宗親の姫君の舘へ近づき、尽きぬ名残を語り合い、つい二夜ともなった。 右大弁宗親はかねてより平家と源氏が共存できないものかと考えていたお方である。  その頃屋島の本拠地では平家総勢が生田、輪田をめざして船出陣をするさなかであった。 ところが教盛の三男・敦盛が失踪したという。 臣下には命を捨てて戦に望め、といっているだけに、身内の者が失踪し、教盛は激怒し敦盛を勘当し、船出したのであった。 しかし兄・経正は弟を信じていた。 

 かくして、敦盛は忠度に背を推されて、二の尼の後陣として船出したのである。 播磨の室津(姫路の西)には平家の軍船が無数にはいっていた。 時に、入道清盛の命日にあたるこの日は法要が営まれる巨大な船では、清盛が好んだ弦が奏でられた。 建礼門院は琴を、薩摩守忠度は笙(しょう)、門脇中納言教盛はひちりき、三位中将重衡は鼓、修理太夫経盛の嫡子・経正は琵琶、弟敦盛は笛という具合である。

 さて、平家側の守備・攻撃陣であるが、鵯越の先・丹波路は資盛を大将に有盛、師盛、忠房を副将として兵2千で柵を築き、生田川の口は知盛を大将、重衡を副将に6千の兵にて力を注いだ。 鵯越の道は越前三位通盛、越中前司盛俊、若狭守経俊が3千の兵で守るのである。 一の谷では薩摩の守忠度、忠光、景清、景経、敦盛らを有して控えさせ、海上には残る1千の兵が待機している。 これに対して源氏方は、さきの宇治川での義仲との戦いで傷つき、疲れた兵を含めてわずかに3千である。

 源氏の勝算は一の谷での背後からの奇襲攻撃もあるが、後白河法皇とのだまし討ちにあった。 この時院から平家方へ、入道清盛の命日をはさむことを理由に1週間は攻撃をせずに大江山で待機する旨の連絡があった。 また、和議も考慮にいれているとのことである。平家方の雑兵は和議の噂に喜び、鎧・兜を緩めがちに休憩するのである。 ところが実はすざまじい勢いで、義経軍は大江山から丹波路を突破し一の谷の間近まで迫り、範頼軍も生田の口から福原へ攻め入ろうと進んでいたのである。平家本陣が油断しているとき、丹波路に柵を築いていた資盛大将以下有盛、師盛、忠房副将は義経軍に破られ、からくも丹波路から高砂を経由して屋島へ逃げていた。義経の、奇襲を悟られまいとする追撃が屋島へ追いやったのである。かくして義経は400騎を従えて、鵯越を逆落としに駆け競った。

 この前夜、通盛の兵は鵯越の途中を教経は西国街道の辻を守っていた。義経がこの二陣を突破して駆け抜けたときには時遅く、和議が偽りであったことに気付くのであった。軍の数においては圧倒的に平家の有利であったが、地勢と時の心理においては源氏方が有利であることはゆうまでもない。 教経の薙刀「龍炎」もむなしく、兄・三位通盛卿のみしるしは、元三位の家臣である木村源吾俊綱に討ち取られていた。

 また、清盛の側近であった盛国の息子・越中前司盛俊も義経の騙まし討ちに驚き、東国の猪俣小平六則綱に落ちている。

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