
義経は、幼名を牛若丸と言い、源氏の総領である源義朝(よしとも)の九男として生まれました。同腹の兄弟は3人。母は、義朝の愛妾で九条院の雑仕(ぞうし)であった常盤御前(ときわごぜん)です。
常盤御前は有名ですよね。世渡り上手ともいうが、これも生き方です。絶世の美女ということなので、義経も違わず美男子だったと思われます。(謎;;)
父義朝が平治の乱(1159年12月)で平清盛に敗れた際、母常磐は、今若、乙若、牛若の三人の子を連れ吉野に逃れました。ところが、清盛に母親を質に取られてしまい、母親と子供の命乞いのため清盛の妾の一人となるのです。
今若、乙若は義経のお兄さんになります。あまり知られていませんが、乙若は天王寺に預けられます。法名を義円とした乙若は、頼朝の蜂起に呼応して、墨俣の戦いに臨んだのですが、空しくここに、25歳の若さで散ったのです。
牛若丸は京の鞍馬寺に預けられますが、継父の大蔵卿藤原長成が義経の鞍馬での扶持(ふじ)を負担します。
母常磐と継父長成、鞍馬の阿闍梨(あじゃり)も牛若に僧になることをすすめますが自分が源氏の嫡流(ちゃくりゅう)と知り、兵法書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」を読み剣術の修行に励むのでした。壇ノ浦で、戦った平知盛とともに励んだといいます。
承安(じょうあん)4年3月3日(1174)の暁(あかつき)のこと、京の鞍馬寺で「遮那(しゃな)王」と名乗っておりました牛若は、金売り商人吉次(きちじ)と下総(しもうさ)の深栖(ふかす)の三郎光重が子、陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)を同伴して奥州の藤原秀衡(ひでひら)の元へ出発しました。
なぜ奥州か、継父藤原長成の従兄弟の藤原基成は後白河法皇の重臣で、奥州藤原秀衡の妻に自分の娘を嫁がせておりました。この縁で義経は奥州藤原氏と関係を持ったのではないかと考えられています。
「平治物語へいじものがたり」(鎌倉初期の作)では、義経は吉次に「この身を、いかようにせんとも奥州のゆゆしき人(藤原秀衡)のもとに、連れ行かんことを望む」と頼み込んだとあります。
一方「義経記ぎけいき」(室町初期の作)によると、吉次に、遮那王がひそかにわが身分を明かしたところ、吉次から「御曹司が今のままでは、まこと危うし。奥州に下向なさるべし」と熱心に薦められ、鞍馬寺から下ったとあります。
その夜、近江の「鏡の宿」に入り、時の長者「沢弥傳(さわやでん)」の屋敷に泊まります。長者は駅長(うまやのおさ)とも呼ばれ、弥傳屋敷は宿名を「白木屋」(しらきや)と称しました。居酒屋の「白木屋」はここから??謎。
1161年 武蔵坊弁慶との出会い
弁慶は熊野神社の別当・弁昌がさらってきた二位大納言の、お姫様が生んだ子で比叡山、延暦寺に入れたものの、学問や仏道修行より武芸が好きで毎日、夜になると山を下って洛中で乱暴を働いていた。後に京に出て千本の刀を襲う悲願をたてた。あと一振りで千になるというとき五条天神〔のちに五条の橋で出会った話になる〕
義経に出会って太刀を奪おうとして逆に負けてしまい、忠誠を誓う。(別格扱い)
きわめて忠実な家来となる佐藤継信、忠信、常陸坊海尊、伊勢三郎の兄貴分である。
やがて義経一行は裏切った藤原泰衡の軍勢に攻められるが弁慶は全身に矢を受けながら「立往生」した。
牛若丸と弁慶が五条の橋の上で戦い、弁慶が長い薙刀を打ち落された話は有名であるが二人が五条の橋で戦ったという話は、実は『平治物語』にも『義経記』にも一言も触れてはいない。二人が清水寺の縁日に出会い、本堂の舞台の上ではげしく切り合いをしたということが『義経記』にみえる。清水寺が二人の戦いの舞台であったかもしれない。
写真は京都 清水寺
【義経の兄弟】
義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼、全成(幼名:今若)、義円(幼名:乙若)、義経、廊の御方(平清盛・常盤の八女 本名は不明 兼雅の妾となって一女を生む。和琴と書の名手。平家一門として都落ちから壇ノ浦の戦いに至るまで行動をともにし、建礼門院らとともに源氏の捕虜になる。)、能成
【義経の奥様】
正妻郷御前(本名は志乃)1184年9月に結婚、静御前
【義経の子】
亀鶴御前