【超概要】 1565年5月足利義輝が三好一族によって暗殺された。翌年3月謙信の元に書状が届いた。差出人は義輝の弟・義昭、上洛して幕府再興の手助けをしてほしいとう。だか謙信には余力はなく、上洛したのは尾張の新興勢力 織田信長であった。信長は都から三好の勢力を一掃すると義昭を将軍につけ室町幕府再興を果たした。信玄の死によって足利義昭は京を追放され西国の毛利家に亡命し(1573年)、上杉謙信に書状を送ってきた。それは信長を討って京を奪回せよ、というものである。織田信長は一向一揆と対立したため、一向宗の総本山本願寺は信長を最大の敵とし他の勢力とは和解の姿勢をとった。これにより上杉謙信上洛の可能性が高まり、信長は岐阜から安土に拠点を移し謙信上洛の阻止をはかった。こうしたなか、これまで信長方であった能登国の畠山氏が上杉方になりたいとの申し入れをしてきた。能登国の主城である七尾城争奪で上杉謙信と織田方の柴田勝家が戦い、上杉謙信が勝利を収め、引き上げる途中の織田軍を急襲して撃破した。信長許すまじとして1577年謙信は手取川の戦いで激突し上杉軍は大勝利を挙げたのである。しかし1578年3月9日春日山城で謙信は突如倒れ、四日後に死去したことで天下統一はならなかった。
【概略】
1574年 能登の七尾城:守護畠山義隆が死去し、幼児畠山春王丸が城主となる
1576年 上杉謙信は能登国を支配すべく侵攻 領主能登畠山氏(重臣・長続連・長綱連父子が実権掌握)は七尾城に籠城
1577年 謙信は、春日山城に一時撤退 長綱連が穴水城を攻め、乙ヶ崎合戦で大勝
一方の織田信長は、上杉謙信を討つことを計画 長続連に援軍の派遣
この援軍 : 柴田勝家を総大将 滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・斎藤利治・前田利家・佐々成政など4万の軍勢
ところが、親上杉派が内応して謀反、長続連一族は皆殺し、七尾城は落城
柴田勝家率いる織田軍の進軍途中で勝家と不仲だった羽柴秀吉が離陣 信長の逆鱗に触れる
一方、織田軍接近を知った謙信は、手取川付近の柴田勝家軍に侵攻追撃 柴田軍は大敗 上杉謙信は能登をほぼ平定
現在手取川は鮭釣りでにぎわっている