清少納言966?-1025?
平安時代の女流作家、歌人で、本名不詳。当時女性の名前は系図に載ることはなく、著名な女性であっても、ほとんどが本名不詳です。
清原元輔(908-990年)の娘。母は『後撰集』に見る「檜垣嫗(ひがきのおうな)」とするが、説に過ぎない。曽祖父は古今和歌集の代表的歌人である清原深養父。「清少納言」は女房名で、「清」は清原の姓から、「少納言」は親族の役職名から採ったとされている。実名は不明、「諾子(なぎこ)」という説(『枕草子抄』)もあるが謎。
981年頃、陸奥守・橘則光(965-1028)と結婚し、翌年一子則長(982-1034)を生むが、やがて離婚するが、998年まで交流があり、宮中公認だったという。のち、摂津守・藤原棟世との間に娘小馬命婦を儲けた。娘は後に一条天皇の宮中彰子に仕えている。
一条天皇の時代、993年頃から、女房として中宮定子に仕え、博学で才気煥発な彼女は、主君定子の恩寵を被ったばかりでなく、公卿や殿上人との贈答や機知を賭けた応酬をうまく交わし、宮廷社会に令名を残した。また数多くの恋愛関係があったとも伝えられている。
清少納言の名が今日まで普く知られているのは、彼女の主要な作品、『枕草子』によってである。『枕草子』には、ものはづくし(歌枕などの類聚)、詩歌秀句、日常の観察、個人のことや人々の噂、記録の性質を持つ回想など、彼女が平安の宮廷ですごした間に興味を持ったものすべてがまとめられている。
1000年、中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞めた。その後の彼女の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、一旦再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったと思われ、晩年は東山月輪の辺りに住み、和泉式部や赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を交わしていたらしい。