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新撰組にとっての幕末1863年

2010年01月23日 | 幕末

 1863年5月10日、まさか幕府がこの日に攘夷を決行するなどとは誰も思っていないなかで、攘夷決行という天皇との約束を守った藩があった。 それが長州藩であり、尊王攘夷家・久坂玄瑞がその中心人物である。 まず、下関海峡近くの田野浦に停泊中のアメリカ商船に砲撃します。 沈めるには至らなかったが、逃げるアメリカ船を見て長州藩は皆絶叫して喜んだという。 その後もフランス艦、オランダ艦にダメージを与えることに成功する。 一方で、同じ長州藩の桂小五郎は、「攘夷」と叫ぶ過激な倒幕尊王攘夷運動を危険視し、藩の強化策に努めようとしていた。 ちょうどこの月、桂小五郎と村田蔵六は、伊藤博文を含め、長州藩士15名をイギリスに留学させ、真の開国をめざしていたのです。

 この頃、壬生浪士組は芹沢鴨・平山五郎を粛清の名のもとに斬殺します。 壬生浪士組は、公務の他、活動資金にも精を出し、悪どく稼いでいると悪評がたつ生糸商・大和屋が倒幕を志す過激尊王攘夷派に資金を調達しているということを耳にし、「自分たちにも資金を調達しろ」と強談に訪れますが、主人が留守であることを理由に拒絶されます。 芹沢率いる壬生浪士は「今晩、大和屋の蔵を焼き討ちするので、町内の者は外出しないように」と予告した上で、午前零時、蔵に火を放ちます。 名目は、「生糸の値段が高騰したのは、大和屋が輸出品としての生糸を買い占めたのが原因であり、攘夷の一環として、このような外国と手を結び市民の生活を脅かす不届き者を退治する」ということでした。 蔵の中はすっかり燃え尽き、店舗と家屋の打ち壊しには市民たちまで参加し始め、市民たちの拍手喝采の中、芹沢鴨は大変満足していたといいます。 大和屋焼き討ち事件を引き起こした芹沢鴨は、かなりの人物ではあったが、酒乱という欠点を持ち、新撰組の統率にいきづまっており、ある日近藤は会津藩に呼び出され、朝廷筋から芹沢鴨を召し捕るようにとの報告を受けます。 しかし、壬生浪士創設の張本人、筆頭局長の芹沢鴨を召し捕って差し出してはまずかろうということになり「暗殺」を選びます。 ちなみに近藤がこの計画実行に選んだのは、天然理心流門人で運命共同体とも言える山南、土方、沖田、井上の4人でした。

 京都では、真木和泉(久留米藩)と彼を厚遇する長州藩士たちの倒幕運動が活発になる一方で、 土佐藩を脱藩した吉村寅太郎が中心となって結成された天誅組は、倒幕は時期尚早と考える真木和泉の説得を振り切り挙兵、京都五条の代官所を襲撃します。 これを天誅組の乱といい、幕末史において初の倒幕を意識した挙兵となり、さらに長州系尊王攘夷倒幕派を一式、京都から締め出そうという計画が持ち上がります。 攘夷親征を不審に思うと同時に長州藩に政局を乗っ取られるのではないかと危機感をもった薩摩藩は会津藩に接近すると、 会津藩、薩摩藩、淀藩によって御所の全ての門を封鎖し、長州系の者が中に入れないようにします。 異変に気づいた長州藩は、激突も辞さない意気込みでいましたが、ここはひとまず長州に下がって体制を整えるべきと結論をだした桂小五郎ら首脳部が必死に押し止め、戦闘は回避されます。そして、翌19日、長州兵は長州系七公卿を護衛しながら京都を去り、長州へ落ちます。七卿落ちです。 八月十八日の政変に出動した壬生浪士に対し、朝廷から一人につき一両の褒美が下され、さらに朝廷から「新撰組」という隊名も下されます。 約90年前、会津藩の軍編成の組織名 「新撰組」がその由来です。

京都・壬生にある新撰組屯所跡

 

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