【宦官、外戚、豪族が台頭した不安定な時代から三国志時代へ】 三国志というのは後漢から晋までの三国時代の興亡歴史をいう。時代は180-280年の約100年。幼き第12代・霊帝156-189を外戚が支配するところからこの時代は始まる。宮中には宦官(十常侍:トップ10)が置かれ、民衆に重税を課し、権力欲がうずまくことで民心は完全に離反して次第に腐敗していく。
184 黄巾の乱 → 三国時代に
┣医者・張角? -184(太平道教祖--自然を操る)を指導者として組織的な農民反乱をおこす
┣漢軍の大将軍は何進?-189(妹を霊帝の妻にした外戚)
┗農民側は漢軍に鎮圧されたが、この動乱は全国に広がり三国時代へと移り変わる。
何進?-189(妹を霊帝の妻にした外戚) ✖ ⇔ 〇 張譲135-189(宦官・十常侍の長)
官軍側 ┣曹操155-220(宦官)---魏の基礎を作った @189 ✖
┣劉備161-223(王家の末裔だという人徳の男) ↕ @189 霊帝の世継ぎ争いでもある
┃ ┣関羽?-220 --桃園の誓 〇
┃ ┗張飛?-221 --桃園の誓 袁紹?-202(三公というエリート一家)
┣孫堅155-192(孫権の父) ┗董卓139-192--張譲殺害@189 赤兎馬の持ち主
┗後漢の丞相・魏王 ┣呂布?-199(馬鹿な無敵)主君殺し董卓に就
関羽 〇 ⇔ ✖ ┣華雄?-191
陽人の戦い@191 ┗王允137-192
┗貂蝉:王允の養女 中国四大美人
189 霊帝崩御
190 袁紹は反董卓連合の盟主--孫堅--関羽 ⇔ 華雄 董卓
191 華雄戦死--陽人の戦い---董卓は洛陽焼き払い長安に撤退
孫堅は皇帝の玉璽を入手@燃えた洛陽
┗孫堅の子孫策は玉璽を世話になっていた袁術に渡す(孫術の幹部と交換)
192 董卓は呂布に殺害される
199 官渡の戦い : 曹操〇 VS ✖袁術155-199
199 曹操〇 VS ✖呂布?-199
曹操は当時、袁紹?-202(三公というエリート一家)と袁術の勢力争いに於いては袁紹側についていた。かくして袁紹の勝利となると、大勢は曹操に傾く(強さこそ正義) そして董卓によって軟禁されていた皇帝・献帝を匿う。当時宦官や外戚の横暴によって腐敗していたため、漢の皇帝の権威は落ちていた。その皇帝を曹操は利用すべく近づき、自分の領土に迎え入れた。そして袁紹(40万軍)と曹操(5万軍)が対立、曹操の奇襲攻撃によって袁紹は敗北、曹操は大陸の北半分を統治。
この時大陸の南を統治していたのが劉備。劉備は元々袁術に付いていたが、形勢が危なくなると曹操側に就いたり袁紹に付いたりとふらふらしていた。こんなとき劉備(40才)が目をつけたのが諸葛亮(20才)。劉備に対して天下三分の計を提案したのは諸葛亮。北は曹操、南西は劉備、南東は孫権(兄の孫策が領土を獲得し弟の孫権が統治 長江で戦う水軍を組織)
220 魏 : ~265 曹丕・初代皇帝(曹操の息子)
221 蜀 : ~263 劉備 → 魏に敗退@263
222 呉 : ~280 孫権・皇帝即位@229
265 晋 : ~420 曹家→司馬家(司馬炎) 首都:洛陽 → 宰相の司馬家が王の曹家を討った:下剋上
280 晋は呉を滅ぼして三国時代の終焉:人口は5500万から800万人に激減
291 西晋: ~306 八王の乱(皇族同士の内乱:他民族利用(五胡 : 匈奴、鮮卑、羯・氐・羌))
皇族に統治(封建制)させたことによって裏切られる
自分は死にたくないので五胡を使って皇族を潰そうとする
汝南王司馬亮(?~291) 陳寿233-297(歴史家:正史三国志 魏が主人公)
楚王司馬瑋 (271~291)
趙王司馬倫 (?~301)
斉王司馬冏 (?~302)
長沙王司馬乂(277~304)
成都王司馬穎(279~306)
河間王司馬顒(?~306)
東海王司馬越(?~311)
( 華北 / 華南 )
首都・洛陽 / 首都・建康
304 五胡十六国 / 東晋 :~403 首都:建康(今の南京:肥沃な土地)
晋に内戦を依頼された五胡が晋の国を乗っ取り、五胡十六国
五胡十六国から南の晋側へ移動してくることで南北の人口が同じになる(南側が開発)
南側は中国本来の国:六朝--中国風、貴族
351 前秦 / 東晋 :~394 五胡十六国が統一 → 前秦
383 淝水の戦い :東晋(数万人)〇 vs ✖前秦(百万人弱)
386 北魏 / 宋 :~534 鮮卑族が華北を統一、道教、石窟寺院、均田制、三長制
【移民族北魏・鮮卑族の功績】
・華北統一
・道教
・石窟寺院 :雲崗石窟@大同 竜門石窟@洛陽 莫高窟--千仏洞@敦煌
・均田制
・三長制
535 西魏+東魏 / 斉→梁 :~556 鮮卑族が華北で分裂 華南梁の重臣・陳霸先
556 北周+北斉 / 陳 :~577 鮮卑族が華北(宇文泰) 華南梁の重臣・陳霸先が建国
577 北周 / 陳 :~581 鮮卑族が華北を統一 陳道談--宣帝
鮮卑族の北周で内乱・クーデターが起こって隋となる@581
鮮卑族北周の実力者--宇文泰
581 隋 / 陳 :~589 魏晋南北朝時代の混乱を鎮める 陳叔宝:暗愚
鮮卑族の隋が陳を制圧@589
【隋】 589-618 魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、中国をおよそ300年ぶりに再統一 By鮮卑族
【以下の制度確立】
・律(刑法)令(民法)制
・均田制(土地平等制)
・租庸調制
・徴兵制
・科挙
・運河建設:京杭大運河---元々は高句麗侵攻目的 by 煬帝 →南北流通
589 初代楊堅541-604
604 2代目は楊広569-618(小野妹子と対立) 租庸調、科挙、大運河建設で反感かって滅亡 北には突厥部族
楊広は兄の皇太子を謀反の罪で追いやり、先帝・楊堅を殺害すると、煬帝として即位。都を長安から洛陽に移した。洛陽を拠点に、黄河、淮水、揚子江を結ぶ運河を建設605年。食料が豊かな揚子江周辺から、運河を利用して長安、洛陽に運ぶことによって益々都は栄えた。また、北は北京、南は杭州まで運河を延長、総距離は2500kmに及んだ(現在運河クルーズ可能)。また、607年には聖徳太子は小野妹子を長とする遣隋使を煬帝に派遣。煬帝は倭の国を調べ、高句麗(隋との国交を拒絶)をけん制するために返礼の使者を送っている。
かくして高句麗への遠征を3度繰り返したが家臣、国民の反乱もあって高句麗制圧に失敗。反乱軍の長はのちに唐王朝を開く李淵。李淵は大群で長安を占領。煬帝は618年に斬首となった。2013年揚州から煬帝の墓が見つかった。墓の建造者は唐の二代皇帝・太宗だという。
【唐】 618-907 @長安:隋をそのまま引き継ぐ
618 初代:李淵
626 2代:李世民
玄武門の変
627 貞観の治 三省六部制、均田制、租庸調制、府兵制、律令格式、羈縻政策
690 高宗の妃・則天武后が高宗亡き後に人材登用制を敷く。
周建国
武韋の禍---武則天亡き後同じようにしたいと願った中宗の妃・韋は皇后中宗の死を待てずに中宗を殺す。
結果うまくいかずに終わる。
712 6代玄宗の開元の治で評判を高めた
後半は楊貴妃に溺れていく。
世界ではフランク王国、ビザンツ帝国、ウマイヤ朝、ヴァルダナ朝の時代である。751年の対アッバース朝とのタラス河畔の戦いで蔡倫の製紙法がヨーロッパへ流入。
755 安史の乱
均田制などの政策がうまくいかない中で、軍人によるクーデター
安禄山(玄宗、楊貴妃に取り入る:白居易の長恨歌は二人の話)と史思明が起こした反乱。
以降安禄山も史思明も息子に殺されてウイグルに鎮圧され、華北・長安は荒廃していく。
これを歌ったのが杜甫の春望「国破れて山河有り・・・」。
780 両税法 By徳宗
875 黄巣の乱 : 塩の密売商人による反乱 首謀は黄巣(科挙落第)
生活必需品を国が専売する
失敗原因は黄巣の部下朱温の唐への寝返り
唐に忠誠を誓うという意味で朱全忠の名を賜ったが、、、唐を滅ぼす@907
907 唐滅亡~960迄 : 五代十国時代 950年までの間に軍人による支配が繰り返される
宇文泰505-556(北周:鮮卑族の実力者)
┣2代明帝@557(北周)
┃ ┣
┃ ┏長女:独孤皇后
┃ ┃
┃ 独孤信(西魏に仕える匈奴軍人)
┃ ┃
┃ ┣四女:元貞独孤皇后
┃ ┃ ┣李淵(唐の初代皇帝@618 太宗が幽閉)
┃ ┃ ┃ ┣李建成(太宗が殺害:玄武門の変)
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣李世民 太宗(唐の2代皇帝@626)
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 李世民 貞観政要は勝てば官軍の本也
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 玄武門の変
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 父を幽閉
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 兄を殺害
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 弟をを殺害
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 歴史家・呉競兄を殺害
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 貞観の治
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 評判良いのは書物の影響 貞観政要(著者:太宗の部下 呉兢670-749歴史家)
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ →従って全てを鵜呑みにはできない
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┗ 高宗(唐の3代皇帝@650 最大領土:貞観の治)
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┣中宗(唐の4代皇帝@684 7代皇帝@705 韋皇后が毒殺)
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣永泰公主685-701 : 墓の壁画が「高松塚古墳の壁画と酷似」
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ (7世紀末→時代も同じ)
┃ ┃ ┃ ┃ ┃韋皇后(夫に毒 玄宗に討たれる)
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┣睿宗(唐の5代皇帝@684 8代皇帝@710)
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣玄宗(唐の9代皇帝@712-756 韋皇后を討つ 唐安定時代:開元の治)
┃ ┃ ┃ ┃ ┃竇徳妃 ┃┣
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃武恵妃690-738
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 楊貴妃 719-756 @29歳(元々は玄宗の息子の恋人)
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ (白居易772-846が詩を作る)
┃ ┃ ┃ ┃ 則天武后(唐の6代皇帝@690)
┃ ┃ ┃ ┃ 低い身分を重用 他宗教も採用
┃ ┃ ┃ ┃ 反対派による伝聞→悪女印象
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣李元吉(太宗が殺害)
┃ ┃ ┃太穆竇皇后?-?
┃ ┃ ┃
┃ ┃李昞_(北周)
┃ ┗七女:独孤伽羅
┃ ┃
┃ ┣ 楊勇?-604:廃太子(煬帝が殺害)
┃ ┃
┃ ┣ 煬帝:隋2代皇帝@604 第2回遣隋使(607年) 京杭大運河建設
┃ ┃ ┃ 兄、親を殺害? : 風評悪い →捏造?
┃ ┃ ┃ 評判は唐時代のものだから悪いのは当然
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗楊昭:584-606
┃ ┃ ┗恭帝:隋3代皇帝@617 →李淵へ(唐の初代皇帝@618
┃ ┃
┃ ┣ 楊麗華
┃ 楊堅 →┃→北周の大将軍・楊忠の子(煬帝が殺害)
┃(隋初代皇帝)┣✖
┃ @581 ┃
┃ ┃
┗3代武帝@560 ┃
┃(北周) ┃
┗4代 宣帝@578(北周)
┣5代静帝@580(北周)(楊堅が殺害 →北周滅亡して隋誕生)
朱満月547-586
羅貫中?-?(明時代の小説家:三国志演義 蜀の劉備(漢民族)が主人公物語)
蜀(成都)の初代皇帝となるのは劉備161-223、前漢の景皇帝の第9子。黄巾の乱では鎮圧功績をあげ、各地を転戦。三国志演義では中心人物として登場する。次は呉(建業)の初代皇帝となる孫権182-252。黄巾の乱では、父の孫堅が反乱鎮圧を行い、孫権は母、兄とともに疎開している。
まず魏(洛陽)が後漢を滅ぼし、魏の曹操155-220が呉の孫権182-252と蜀の劉備161-223との間で赤壁の戦い208で曹操は敗れてそれぞれが三国を建てる。劉備は豪族の中でも出身が貧しく、国を制覇するために諸葛孔明(当時強い豪族)に目を付けて三顧の礼を以って味方につけたというもの。
【魏を発展させた曹操の墓発見】 2009年、曹操(魏を強国とし他国を圧倒した英雄)の墓が発見されたと中国は公表。曹操の副葬品が数多く発見されたのは洛陽(魏の都)から北側へ300km離れた河南省・安陽。西高穴村である。墓室は副葬品が納められた前室の左右に側室、後室の左右に側室があり全部で6室。前室にあった石碑に魏武王と刻まれていることから曹操の墓であるという。そして曹操の頭蓋骨も見つかったが、後室の棺ではなく前室からであり、欠損していた。儒教を教えとする漢貴族の習慣では金で縫い付けた玉衣で遺体を飾るなど、見事な装飾品が残されてしかるべき(厚葬)であるが、そのような痕跡は全くない。正史三国志では英傑との記載があるが不思議である。金玉珍寶を以って収めることはしてはいけないと言い残していたのかもしれない(曹操は儒教に反発し、漢王朝からの脱皮をすべく、薄葬令をだしている)。
【弱小の蜀を発展させた諸葛孔明】 曹操は赤壁の戦いで諸葛孔明に敗れることで一端は後退する。諸葛孔明が活躍した蜀は最も国力の低い国であった。蜀の南、四川省の雷波には少数民族のイ族が4000年以上の昔から住み着いている。この民族に諸葛孔明の伝説が残っている。雷波にある馬湖には諸葛孔明に関係する孟獲の廟がある。孟獲は孔明と同じ時代に活躍したイ族の英雄である。この伝説の中に諸葛孔明の話があるという。225年ごろ、孟獲が納める蜀の南に反乱が起こり、これを鎮圧するために諸葛孔明は南征する。その圧倒的な軍力で孟獲を捉える。しかし生け捕りにした孟獲を釈放、再び反乱を起こした孟獲を再び釈放したという。こんなことを7回繰り返した末に孟獲は屈服したという伝説である。孟獲を許し以って服すということのようだ。これにより南方は印度迄の交易を行うようになり蜀は大いに栄えたという。諸葛孔明はこの軍を率いて何度も魏を攻めるが、魏は強大で打撃を与えることはできず、やがて諸葛孔明は戦場で倒れて病死した。狭西省の武侯墓に孔明は眠っている。やがて蜀は魏に滅ぼされ、魏の後を継いだ清によって三国は統一された。
【中国虐殺の歴史】
黄巾の乱184から三国設立230迄 : 4400万人虐殺(90%死亡)
大躍進政策、文化大革命1966 : 4000万人餓死・虐殺 By毛沢東
太平天国の乱1851 : 2000万人虐殺
王朝が80回変わり : その都度虐殺
騎馬民族である遊牧民の脅威(地政学的)、独裁国家により反乱分子は虐殺、他民族を侵略・虐殺、不満分子は皇帝を暗殺し次の皇帝争いで虐殺、天安門事件後の天皇訪中は世界から非難された、1978年鄧小平は松下幸之助に中国近代化を請うた、中国は経済成長して軍事大国になった、2010年に中国のGDPは日本を追い抜き、軍事費は日本の5.5倍、尖閣諸島を奪おうとしている、恩を仇で返す中国、2000年の歴史から一帯一路政策を推進、国家の繁栄方法の歴史を知る中国、