日本書紀で蘇我と記される木満致の子孫・蘇我は7世紀にはいっても確たるものではなかった。木満致の母は新羅人、父は百済の王に仕え、高句麗長寿王のスパイ・道琳の策略にかかって、子の文周とともに高句麗軍を撃退したあと、新羅まで王と同行するが、その後の足取りは不明である。この頃満致は大和に渡来したものと思われる。雄略朝廷に向かいいれられた満致は葛城の曽我の地に定着する。宗我都比古神社がある場所であり、滅亡した葛城の円大臣の遺領の内部である。つまり玉田宿禰系の亡んだ後の曽我である。また曽我から河内にでた磯長谷から石川につづく地域を抑えていたのは堅塩媛(欽明天皇の妃で用明天皇、推古天皇の母)系の人々であった。本宗家のおさえた大和飛鳥を中心に桜井から東方は小姉君(欽明天皇の妃で、穴穂部間人皇女、穴穂部皇子、泊瀬部皇子(崇峻天皇)の母)系や山田石川臣家が、南方の巨勢・紀伊は東漢氏が、竜田川周辺は斑鳩の上宮王家を配した蘇我一族の政策があったと思われる。堅塩媛は厩戸皇子の祖母であり、蘇我氏の繁栄に大きな影響力を与えた人物であり、欽明天皇とともに檜隈坂合陵に眠っている。
奈良・明日香村にある檜隈坂合陵は明日香村最大の梅山古墳
一方、見瀬丸山古墳という県下最大の前方後円墳が、欽明天皇と堅塩媛の墓であるとの説が近年有力になったという。6世紀後半に築かれたこの古墳はあまりにも大きいため、円墳と考えられていたようで、五条野丸山古墳と呼ばれていた。この名で親しまれてきたため、前方後円墳であるにもかかわらず今も丸山古墳と呼ばれいる。しかし、今日では見瀬町は周濠の一部にかかるにすぎない事実から、この呼称は正しくなく、地名を用いた名称とすれば五条野丸山古墳、あるいは、大軽丸山古墳と呼ぶのが適切と考えられる。全長約320m、後円部径150m、前方部幅約210m、周濠を含めると約460mと超大型の前方後円墳であることが判明したのは最近のことである。候補がいずれも天皇(実は蘇我稲目の墓という説もあるらしい)であるように埋葬施設もそれに恥じない、日本最大の横穴式石室として知られ、石棺には加古川の竜山石が使用され、出土品の多くは大英博物館に保存されている。
橿原市見瀬町・五条野町にある巨大古墳 見瀬丸山古墳