薩摩藩の三事策、つまり将軍上洛、五大老設置、一橋慶喜を後見職、松平慶永を大老職とする策が実現し、京都には守護職がおかれて会津藩主の松平容保が任じられた。文久の幕政改革が行われ、幕府は大名たちの協調を求める主張に譲歩した。島津久光は江戸からの帰路、神奈川の生麦村で騎馬のイギリス人4人とすれ違った。薩摩藩士は大名行列に対して無礼として商人・リチャードソンを斬首した。これにより翌年薩英戦争を引き起こすこととなる。1863年6月、薩摩藩が生麦事件の犯人引渡しを断ったためにイギリス艦隊7隻が鹿児島湾に入り、薩摩藩は発砲したため薩英戦争に突入した。この戦争によりイギリス側の戦死者13人に対して、薩摩藩の死者は少なかったが、アームストロング砲の砲撃により市街の消失など被害は甚大であった。しかし鹿児島遠征と居留地防衛を両立できるだけの軍事力はないと判断してイギリス軍は早期に退去した。この頃京都では、攘夷親征の方針が公表され尊王攘夷の過激派・真木和泉らは攘夷・倒幕を主張していた。薩英戦争が講和へと動く頃、京都の攘夷運動は最大の盛り上がりを迎えた。薩英戦争で戦った薩摩藩は講和へ向けてイギリス軍艦の購入申し込みを行い、島津斉彬依頼開国論を唱えていた薩摩藩は薩英戦争でイギリスの軍事力を目の当たりにし軍政改革をめざす開国路線を確立した。こうして攘夷論の長州藩と公武合体開国論の薩摩藩は真っ向から対立することとなる。
西南の役官軍戦没者慰霊塔
薩英戦争砲台跡