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金戒光明寺と熊谷直実

2009年07月19日 | 平安時代

  義経に仕えた武将 熊谷直実は一の谷の合戦で須磨の沖の平家軍のもとへ逃げる途中の敦盛を呼び止めた。「源氏に背を向け、逃げるとは卑怯なり!」 平家の若大将・敦盛は直実と馬上で交えることになる。個人戦に勝機を見つけた直実は敦盛の顔を見て、我が子と同じ年の頃と想い、逃がそうとするが、「ためらうに非ず」という敦盛の首をはねる。 当時敦盛は17歳であった平敦盛を討ったその後どうなったのであろうか。敦盛との関連では、敦盛の首と遺品、それと書状を添えて父の経盛に送り経盛も直実の厚意に謝して返状を送ったり、敦盛のために高野山に熊谷寺を建立したりとの逸話が残っている。 一方、一生の美談だけではなく、その昔、直実は生まれてすぐ父(直貞という)を亡くしている。 そこで叔父の久下直光に養われて育っていくが、この叔父こそがくせものであったようだ。 1192年、頼朝が鎌倉に幕府を開いた年のこと、直実は熊谷郷と久下郷の境界について久下直光と争い、頼朝の前で対決を行うことになった。 しかし直実は弁明できず、かえって頼朝の不審をかってしまい、結局、裁決は直実に不利なものになる。 直実は証拠の調度・文書を簾中に投げ込み、幕府の西侍で髻を切り、出家してしまう。 それから15年後の1207年、東山山麓で高声念仏して往生したという。 実はその東山山麓が現在「黒谷さん」で親しまれている金戒光明寺なのである。

 

一の谷の戦い以降の熊谷直実 新・平家物語より

 頼朝軍は洛近くまで迫っていた。 義経率いる武蔵坊弁慶、伊勢三郎、佐藤兄弟また、畠山次郎重忠、川越太郎重頼・重房、熊谷次郎直実、佐々木盛綱・高綱、梶原影時・源太影季などがそれぞれ駿馬を走らせ宇治川の瀬に陣を取り、お互いに功を競って洛を狙っている。 義経は「薄墨」という愛馬に乗り、乗り換え場として頼朝より贈られた「青海波」を用意していた。 和田義盛の「白波」  畠山次郎重忠の「秩父鹿毛」 熊谷直実の「権太栗毛」 蒲冠者範頼の「月輪」 などいずれも駿足の名馬であるが特に駿足であったのは、佐々木高綱の「生食・いけずき」、梶原源太影季の「するすみ・磨墨」は共に頼朝から贈られた有名な駿馬である。 当時馬の馬の背丈は脚の先から肩までの高さではかり、四尺(約120cm)が標準であった。 「いけずき」は標準に対して丈八寸高く、約150cm。である。 現存する木曽馬は体高約120cmから140cm。 現在の競走馬サラブレッドは150cmから160cmであることを考えると「いけずき」がいかに来馬として最高の大きさであったがかわかる。 戦記物でもなかなか八寸の馬は登場しない。 一方梶原の影季の「する墨」は、毛色は黒色、黒光りする青毛とは違い、艶のない黒色の毛色の馬を言う。「する墨」も名馬であるが、「いけずき」ほど大きくはなかった。  この身体の大きさと気性の差が、宇治河の急流を横切るときの差に出てしまったようである。  かくして、宇治川先陣の初名乗りは「いけずき」の佐々木高綱が挙げた。 一方木曾義仲軍は、宇治川・瀬田へ分散していたため、身辺にはわずか200騎足らずしか残されておらず、なにやら落莫の影を湛えている。 このときには義仲は、敵軍の動きを捉える策を欠き、 自分の軍勢に的確な指示を与える余裕もなくなっていた。 義経軍は宇治川の本陣、近江から瀬田の街道を抜ける蒲冠者範頼軍の二軍にわかれていたが、義経は本陣を離れて木曾義仲軍の偵察に弁慶・伊勢三郎に300騎を授けていた。 ところが義仲は単なる弁慶・三郎偵察隊にまどわされる結果となったのである。 倶梨伽羅峠ではいたるところに源氏の白旗を掲げ平家に自軍の数を見誤らせたが、今度は自分が見誤っている。

 三河守・範頼が西国で苦戦をしている理由は明らかである。 早速義経は、弁慶と鎌田正近を呼びつけると、紀州熊野海峡の一家、鵜殿党の鵜殿隼人介との同盟を説明した。 また伊豆有綱と伊勢三郎には堅田へ使わしたのである。 紀州熊野は海族、近江堅田は湖族が名を馳せている。 義経は奥州平泉から一人抜け出し、この熊野の三山で修行を積み、伊勢街道から近江堅田を経由して上洛するまでに、彼らとの知己を深めていたのである。 武蔵坊弁慶と鎌田正近はほどなく、紀州熊野は海族・鵜殿党の鵜殿隼人介に会い、義経から預かった書状をわたすと、状況を説明した。 ところが驚いたことに平家方は奥州の金売吉次を通じて船軍を買い占めていたのである。 残る船も半数ほどはあるが、て熊野全土を取り仕切る別当・湛増の許可がなくては通ることができないとの話である。 田辺別当・湛増は昔から平家の息がかかった有力者である。 まして湛増の側室といえば、桜町中納言の娘である。 桜町中納言というのは後白河の側近・藤原通兼、後の信西入道の三男で藤原成範のことである。 つまり桜町の局は高倉天皇が愛した小督とは姉妹にあたるのである。 ところが別当湛増は源氏方の意向を汲み入れてくれた。 かくして、紀州熊野の海族・鵜殿党の船軍は、先に出立していた義経軍と、摂津で合流することとなった。 合流場所は摂津の「ながらの別所」というところで、その昔、左大臣源融が閑居していた場所である。 その融(とおる)の子孫・渡辺党も結集して摂津に集まった。 また、しばらくして梶原景時も船軍を率いて集まった。 このなかに、那須与一がいたという。 那須与一は那須太郎資高の子で、12人兄弟の11番目である。 そして12番目の末子が、義経と鎌倉から共に友軍し、静から義経へ宛てた恋文を受け取った那須大八郎である。 そして義経が極秘に淡路を探らせていた深栖陵助一向が合流する。 淡路は昔から平家と極めて関係が古い。 由良港から洲本は池の大納言頼盛の所領であり、福良には参議経盛の家人がいる。 熊谷直実が討ち取った敦盛の首は、その後経盛に返され福良港に浮かぶ小島・煙島で弔われている。 ところが、平家の武者は淡路にはいない、というのである。 そこで深栖陵助の一向は淡路から四国へ渡り、阿波から四国の西・伊予まで行っていた。 伊予はたえず平家に反抗してきた強力な豪族・河野一族がおり、 道前、道後にまたがる高縄城主の河野通信は範頼に味方し、平家の糧道の遮断に貢献していたのである。こうして四国の様子を探った義経は、次の作戦を練るのである。

 一方、平家軍は屋島を落ち延び、赤間ヶ関を右に、文字ヶ関を左にみながら長門を通り、彦島へ続々と船を寄せてきた。 ここは昨年より平知盛が九州の松浦党、山賀党とともに城砦を構えていたところである。 知盛は一の谷では平家の大将として立ったが息子・知章を失い敗北したが、ここ彦島では平家の威勢を取り戻している。 そして周防、長門、豊前、豊後の武将を平家になびかせ、三河守、範頼を窮地に立たせる戦ぶりを見せていた。 しかし知盛はうすうす平家の最期を予感している。 なにしろ屋島は鉄壁の砦であった。 屋島あってこそ彦島が映えるのである。 しかしその屋島が一日にして義経に崩されてしまったことは知盛にとっては予想外のことである。 清盛が好んだ厳島の神職にあった安芸の佐伯景広さえも一族を従えて平家のこれまでの恩に報いようと参戦している。 武将でもなんでもない神職にある佐伯景広さえも戦に参加させなくてはならない状況が平家の行く末を物語っている。 いよいよ義経軍は陸路と海路に分かれて平家の砦である彦島に近づいている。 彦島は長門と豊前にはさまれた壇ノ浦の水路の奥に位置し、その壇ノ浦の正面には干珠・満珠という二つの小島が浮かんでいる。 源氏の水軍はこの二つの小島が浮かぶ串崎まで接近しているのである。 また金子十郎家忠、和田義盛、鎌田正近、畠山重忠そして熊谷直実が率いる東国武者の陸路の精鋭は周防から長門の陸路を経て赤間関を突破し、平家方へ訃報を遣わしていた。 平家方は平宗盛を総大将として、お座船、大将船、その他の全水軍は知盛を中心に壇ノ浦の正面にある干珠・満珠という二つの小島を目指してゆっくりと動き、 明日には平家か源氏か決着が付くことを全員が感じている。 最後の夜は、平経盛、教盛、資盛、行盛が一首づつ和歌を書きのこす。そしてそのあとは、管弦の座となるのである。 教経は琵琶、資盛は笛、経盛は笙、門脇殿は鼓、そして琴は知盛の妻の妹・治部卿の局となった。 翌、いよいよ義経軍の出陣が始まった。 先陣は梶原景時親子率いる百余船。二陣は田代冠者信綱。 次に中軍の大将軍船、これには義経が乗っている。 そのあとには田辺の水軍、鵜殿隼人助の熊野水軍が続いている。 平家の強みは壇ノ浦の急変する潮にある。 義経もこのことは熟知し、知盛の采配には一目を置いている。 ところが、義経の綿密な戦法を無視して、しびれを切らした一軍が潮の流れに背いて平家方へ攻撃を開始したのである。 梶原景時の船軍である。 危険極まりない脊潮にはまって苦戦したのは云うまでもない。 かくして海路の初戦は平家の勝利するところとなった。

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