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高知・筆山公園にある山内家の墓所

2018年03月31日 | 幕末

 土佐藩の山内家初代は山内一豊、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後に土佐の領地を家康から賜った。つまり徳川幕府の恩恵を一番受けた藩なのである。一豊の妻は千代。千代の詳細は不明な点が多く、近江国、浅井家の家臣若宮喜助友興の娘とも、美濃国の遠藤盛数の娘ともいわれている。若宮友興の死後、叔母を頼り義叔父の不破重則(不破市之丞)の元で育てられ、牧村政倫の媒酌で山内一豊の妻となったというが定かではない。千代の名を著名にしたのは山内一豊が名馬を買い求める逸話である。山内一豊は安土の城下で馬売りが売る駿馬を見かけた。黄金10両というのがその価格である。千代は嫁入りの際、母から授かった10両を用意し購入する。山内一豊はその駿馬を手に入れ馬揃に出て、信長の歓心をかったという。また、貧窮の最中、配下や職務上の諸々で下のものを食わせてやらねばならぬと、千代は髪を売り食事の工面したとも伝わる。山内一豊は本能寺の変後、羽柴秀吉・豊臣秀吉の家臣として転戦し、長浜城を与えられている。長浜城は羽柴秀吉の居城であった事を思えば信任の厚さも伺える。しかし、この時、震災により娘・与祢を失ってしまう。小田原の戦の後、山内一豊は掛川城主となる。豊臣秀吉没後、山内一豊は徳川家康寄りに身をおき、家康が会津の上杉討伐の軍を出したとき、これに従っている。関が原の戦いの後、土佐一国を拝領することで功の大きさを評価されているが、実際には大した戦功はなにもない。山内一豊が没すると、家督は山内一豊の弟・康豊の息子・忠義が養子となり継ぎ、千代は出家し見性院と号す。土佐には残らず(恐らく残ることはできなかった)伏見・京都桑原で余生を過ごし1617年に病死する

 幕末に台頭した土佐藩主・山内容堂はいうまでもなく山内一豊を祖とする15代土佐藩主である。関が原の戦いで東軍に就いた一豊は勝利した後、土佐24万石を与えられ統治しますが、これまで土佐を治めていた長宗我部盛親は西軍に就いていた為改易となる。普通新しく領地を治める場合、地元の家臣をある程度登用して新旧のバランスをとりますが、一豊は一切登用を行わずに長宗我部派重臣との身分差を作ったために、幕末においても上士と下士の身分差別が明確になり、住居も区画化されていました。これが幕末の容堂による人材登用制度を引き金となって土佐を雄藩に押し上げる力になります。 

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