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関が原の合戦

2008年02月02日 | 戦国時代

関が原の合戦

 豊臣秀吉が1598年に亡くなると、その死後の政権を巡って徳川家康派と石田三成派が戦い、勝利した家康は政権を完全に掌握し、徳川氏の覇権を確立します。 日本全国のほとんどの大名が徳川派(東軍)と石田派(西軍)に二分したことから 『天下分け目の戦い』 とも呼ばれています。 

 天下統一を達成した豊臣政権の内部においては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して朝鮮出兵でも前線で戦った武断派と呼ばれるグループと、行政・経済兵站・宗教管理など戦場以外の分野で活躍していた吏僚派の対立抗争が存在したが、秀吉本人や実弟の豊臣秀長などの存在により表面化は避けられていた。 1591年の秀長の死、朝鮮出兵や撤退における対立により深刻な状況となっていた。 一方、秀吉の姉・日秀の子・秀次を養子とし関白の職に就かせていたが、茶々との間に第二子・秀頼が誕生すると、次第に秀次を排除するようになっていった。 秀次は正親町上皇の崩御後の服喪期間に殺生禁断の比叡山で狩をしたということも拍車がかかったのか、秀吉から謀反の罪をかけられ高野山に追放となり切腹させられている。 尾張出身の秀次(おね派)一族が三条河原の処刑場にて惨殺されたときの立会人は石田三成、増田長盛といった近江派(茶々の出身)であった。 かくして尾張派と近江派の対立が表面的になってきたのである。

 秀吉は晩年には五大老(徳川家康 前田利家 毛利輝元 上杉景勝 宇喜多秀家)・五奉行(石田三成 前田玄以 浅野長政 増田長盛 長束正家)の制度を整え、諸大名に実子の豊臣秀頼に対する臣従を誓わせて1598年8月に伏見城で死去する。 ここで両派の対立は表面化し、また、五大老の徳川家康は禁止されている大名同士の婚儀や加増を取り仕切るなど影響力を強め、これに対して同じく五大老の前田利家は家康を厳しく糾弾。 一時は伏見(徳川側)と大坂(前田側)が武力衝突する寸前まで行った。だが最終的には誓書を交換するなどして対立は避けられたが、この際に武断派諸大名や婚儀の相手となった大名がこぞって徳川邸に参集し、豊臣家内部は早くも分裂の様相を呈し始めていた。

 徳川邸に参集した大名:福島正則(1561-1624)、黒田孝高・黒田長政父子、池田輝政、蜂須賀家政、藤堂高虎、山内一豊、有馬則頼・有馬豊氏父子、京極高次・京極高知兄弟、脇坂安治、伊達政宗、新庄直頼、大谷吉継など。

 前田邸に参集した大名:毛利輝元(1553-1625)、上杉景勝、宇喜多秀家、加藤清正、石田三成(1560-1600)、増田長盛、細川幽斎・細川忠興父子、加藤嘉明、浅野長政・浅野幸長父子、長束正家、前田玄以、佐竹義宣、小西行長、長宗我部盛親など。

 1599年の閏3月に前田利家が死去すると、武断派の加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長の7名により、吏僚派の筆頭である五奉行の石田三成に対する襲撃が実行された。 彼等は朝鮮出兵のときに最前線で活躍したが秀吉に評価されなかった。 治部少輔である石田三成の讒言によるものであると考えていたからである。  三成は家康の仲介で事件の責任をとらされることになり、奉行職を解任され居城の佐和山城に蟄居となる。 この時石田三成は家康の屋敷に逃げ込み保護を求め、家康は三成の隠居により七武将の矛を収めさせた。 

 豊臣政権の象徴である大阪城は秀頼に与えられたが、長束正家・前田玄以らが城番をしていた伏見城に徳川家康は入城して居座ったのである。 その後徳川家を強めるための婚姻、勝手な領地の加増等々を行い、ついには大阪城へ入った。 その頃大阪城西の丸にいた北の政所が京都へ去ってしまう。 家康はこの西の丸に入ると天守閣を造らせた。(本来本丸にしか許されない) 石田三成が徳川打倒を密かに狙うなか、家康は前田家の本拠地加賀征伐を策した。 前田家は利家亡き後、利長が継ぎ、姻戚関係にあった細川忠興、浅野長政らと結託して家康を狙っているという増田長盛からの情報がはいったからである。 前田家はすぐに家康に屈し、利家の妻・まつ(芳春院)は江戸に人質としていき、前田利常の娘が家康の三男・秀忠の妻となることとなる。 もともと徳川家と同格であった前田家を勢力内に取り込んだことは関ヶ原戦の勝利に大きく貢献している。 1600年上杉景勝は会津で反乱を画策しているという知らせに石田三成が呼応した。 三成とは盟友であった大谷吉継も三成の佐和山城で味方になる決意をしたが、五奉行の増田長盛により徳川側へ報告された。

 1600年7月19日、関ヶ原の前哨戦とも云える西軍による伏見城攻撃が始まった。 城攻めの大将は宇喜多秀家、副大将は小早川秀秋である。 宇喜多秀家は備前の大名・宇喜多直家の子で、豊臣秀吉から「秀」の字が与えられ元服する。 関ヶ原では最後まで勇敢に戦った武将として知られている。 また、小早川秀秋は北の政所の兄・木下家定の五男にあたり、一時秀吉の養子となったが後に毛利家に養子にだした。毛利元就の三男・小早川隆景の小早川家である。 小早川隆景が亡くなった後は秀秋が小早川家を掌握していた。 朝鮮出兵のときに総大将になったこともあったが失敗が続き領地も減らされていたのであるが、秀秋はこれを三成の讒言によるものであると考えていた。 ところが家康は減らされた領地を秀秋の下に返還したために、家康は秀秋にとっては恩人とも云える存在になった。 しかし秀秋は西軍に参加したのは、毛利輝元が西軍の総大将となったからである。 石田三成が小早川秀秋に伏見城の攻撃を依頼したのは、秀秋の態度を明確に確認するためのものであったとも云える。 ところが困ったことに、伏見城には秀秋の兄・木下勝俊が篭城しており北の政所に相談したという。

 7月25日、伏見城攻撃を受けた徳川勢は小山に集結して軍議を開いた。 徳川家康は福島正則の攻略も行った。 福島正則は賤ヶ岳七本槍のひとりとして有名な名将であり、その説得には黒田如水の子・長政があたった。おかげで長政は異例ともいえる52万石の大名となっている。 本来秀吉の手中にあり、秀頼を守る立場にあった福島正則、加藤清正が石田三成とは朝鮮出兵以来反りが合わなかったことを巧に利用して調略したと考えられる。 これまでの豊臣秀吉の調略を家康が取り入れた効果が関ヶ原の戦い以前から始まっていたのである。 こうして小山軍議では福島正則は東軍の名乗りを上げた。 そして福島正則とともに先鋒となった武将に池田輝政がいる。 池田輝政は小牧・長久手の戦(秀吉と家康が戦い家康が勝利する)で討死した池田恒興の子であるから、本来家康は輝政にとって父の仇である。 戦後、輝政は秀吉の計らいで家康とも和解したが、そのときに家康の次女・督姫を妻としていために家康側についたのである。 

 小山軍議が開かれた一週間後の8月1日に伏見城は落城し前哨戦は西軍の勝利となる。 いよいよこれから本戦に突入していくのであるが、その戦場として選ばれたのは関ヶ原であるから、美濃領主の岐阜城が重要となってくるが、このときの岐阜城主は織田信長の孫・三法師、つまり織田秀信である。 秀吉に操られ13万石の領地しか与えられなかった秀信は秀吉に恨みがあるはずで、家康側についてもよさそうであるが、西軍に味方したことで東軍家康の攻撃目標は岐阜城と定まったのである。かくして先鋒福島正則と池田輝政は岐阜城を攻略して織田秀信を出家させた。  秀信は出家すると高野山に登るとすぐに病死した。

 9月15日関ヶ原の本戦は始まろうとしていたが、家康本陣に加勢するはずの三男秀忠軍が到着しない。 実は信州城主真田昌幸が秀忠軍を信州で10日に渡って釘付けにしていたのである。 かつて北条氏と手を組んだ家康が真田家の上州沼田城を奪おうとしたとき真田昌幸はわずかな手勢で徳川軍を撃退したことがあった。 その後秀吉の仲介で徳川、真田は和解し、昌幸の長男・信幸は徳川重臣の本多忠勝の娘を娶っていたので長男は家康側、次男・信繁は石田側を推していたが結局三成を応援したのである。 約三万の軍勢を率いた秀忠軍を待たずして、先鋒・福島正則は宇喜多秀家・小西行長軍に襲い掛かった。 宇喜多秀家ゆうする三成側は終始優勢に戦をすすめており、充分な勝算はあった。 しかし小早川秀秋の裏切りにより1万6千の勢力が徳川に加わり、これが引き金になって裏切る部隊も現れ、西軍は総崩れのかたちとなった。 この戦いで毛利輝元は大阪城に篭り参戦しなかったのであるが、実は合戦の前日、毛利の吉川広家は家臣を東軍におくりこみ、密約を交わしていたのである。 参戦しないかわりに毛利の本領安堵を約束させるというものであり、書面はかわされ戦争不参加は守られた。 ところが合戦が終わり毛利輝元が大阪城を撤退し家康に明け渡すが、毛利輝元の領土は百二十万から三十六万石に減らされ、輝元は隠居させられた。 毛利家は完全に騙されたのである。 こうして徳川家康は政権確立の基礎を固めたのである。

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