後崇光太上天皇 伏見松林院陵
足利義満が頂点の地位に就き、天皇にとって代わろうとした時、あっけなく亡くなったが、この時朝廷側が義満に「上皇」を追贈しようとした。 異例の出来事に幕府側の4代将軍義持と斯波義将は断ったが、義満が尊号宣下をうける理由として考えられることは、その資格であるが、義満が後小松天皇の父であった、ということである。 後小松の妃・三条厳子と義満はかつて密通しており後小松がそのときの子であるということである。 後小松天皇の皇子・称光天皇には子がなく28歳の若さで亡くなった。そのとき遠縁の伏見宮彦仁親王を即位させて後花園天皇とした。 称光天皇には異母兄・宗純親王がいたにもかかわらずである。義満は宮中を我が物顔で歩き回っていたから、この宗純親王も義満の子であるとすれば、それを次期天皇に担ぎ上げるのに躊躇った朝廷は遠縁から選んだ可能性がある。 実はこの宗純親王こそ出家して一休と名乗ったあの一休さんである。
さて、この遠縁から選ばれた後花園天皇の父が伏見宮貞成親王といって、1447年に太上天皇の尊号を贈られ、後崇光院と呼ばれたのである。 幼少時から今出川家で養育され、左大臣公直・左大臣公行父子が養親となり音楽や和歌に親しみ、40歳でやっと伏見御所にて元服し貞成と名乗り、父・栄仁親王のもとに迎えられる。 1416年栄仁親王没、翌1417年に兄・治仁王も急死し、貞成が後継となったときに、兄を毒殺した嫌疑がかけられるが、後小松上皇や四代将軍足利義持から安堵を受けた。 伏見宮は北朝の正統であったために天皇家からは猜疑心をもって見られることが何かと多く、1418年に称光天皇の仕女である新内侍が懐妊した際にも密通の嫌疑がかけられたが、義持のとりなしにより虎口を免れている。
称光天皇が一時期危篤状態へ陥ると次期天皇の候補にもなり、1425年に親王宣下を受けるが、回復した称光天皇がこの報を聞くと激怒したため、わずか3ヶ月後に出家に追い込まれた。 1428年に再び称光天皇が重態に陥ると、六代将軍の足利義教は貞成の実子である彦仁王を庇護し、後小松上皇に新帝の指名により後小松は彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させる。
伏見松林院陵
三条治子(西御方)
足利尊氏 ┣治仁王(伏見宮2代目)
┣足利頼子 源資子 ┣貞成親王(伏見宮3代目) ━┓
赤橋登子┃ ┣栄仁親王(伏見宮)1351-1416 ┃
三条秀子┃ ┣興信法親王 藤原資子 ┃
藤原公子1232-1304 ┣興仁親王( 3崇光天皇 ) 三条厳子┣101称光天皇┃
┣貴子内親王 西園寺寧子 ┣弥仁親王( 4後光厳天皇 ) ┣6後小松天皇 ┃
┣姈子内親王 ┣量仁親王(1光厳天皇)1313-1364 ┣緒仁親王(5後円融)┣宗純王┃
┃ 藤原経子┣豊仁親王(2光明天皇)1321-1380 ┣熈永親王 宮人 ┃
89後深草天皇┣胤仁親王(93後伏見天皇)1288-1336 ┣尭仁法親王 ┃
┣熈仁親王(92伏見天皇)1265-1317 藤原仲子1339-1427崇賢門院 ┃
藤原愔子1246-1329 ┣富仁親王(95花園天皇)1297-1348 ┃
藤原(洞院)季子 ┣直仁親王1335-1398 ┃
藤原(正親町)実子 ┃
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┗貞成親王(1372-1456後崇光院) 勧修寺(藤原)房子 花山院(藤原)兼子
┣性恵女王 ┣応善女王 ┣大慈光院宮
┣102後花園天皇(彦仁)1419-1471 ┣仁尊法親王 ┣知円女王
┣めここ皇女 ┣103後土御門天皇(成仁フサヒト)1442-1500
┣理延 ┣嘉楽門院藤原信子┣104後柏原天皇1464-1526
┣貞常 大炊御門信宗 ┣尊敦親王 ┣覚鎮女王
┣王女 皇太后源朝子 ┣105後奈良天皇(知仁)1497-1557
┣王女 ┣清彦親王 ┣106正親町天皇(方仁) ┓
┣雲岳聖朝 豊楽門院藤原藤子 ┣永寿女王 ┃
庭田(源)幸子 万里小路(藤原)栄子 ┃
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┣誠仁親王(陽光太上天皇)
┃ ┣107後陽成天皇(和仁)
┃藤原晴子 ┣108後水尾天皇(政仁)1596-1680
藤原(万里小路)房子 近衛前子(中和門院)