平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

再会のロマンス 成就 25年越し、京の身障者夫婦に

2009年01月01日 | 平安時代

知り合いのブログで紹介されていたほのぼのとした記事です。新年にふさわしい心洗われる内容でしたので、ここでも紹介したいと思います。(12月31日京都新聞より抜粋)

 お互い身体障害者で若いころ1度は結婚をあきらめたが、25年ぶりに再会して結ばれた夫婦が京都市伏見区にいる。妻となった女性が「今昔物語集」に伝わる再会のロマンスゆかりの勧修寺(かじゅうじ)(山科区)で長年暮らしていたことから、「平安時代の純愛伝説のよう」と周りの人たちも喜んでいる。 足が不自由な小西忠和さん(60)と、右半身に障害がある栄子さん(57)。かつて、忠和さんが野菜を届けに勧修寺を訪ねた際、境内の庵(いおり)に住み込んで尼僧大塚全教さん(故人)に師事していた栄子さんに出会った。 恋仲になったが、当時収入が少なかった忠和さんは「養える稼ぎがない」と結婚をあきらめ、2人は別れた。 それから長年、「思いは消えなかった」。昨年夏、忠和さんが寺を訪ねると、栄子さんが昔と変わらず庵で暮らしていた。家のローンを完済し、貯金もしていた忠和さんは「今なら2人で暮らせる」とプロポーズ。同年9月に入籍を果たした。  今昔物語集には内大臣藤原高藤がタカ狩りの際に偶然立ち寄った屋敷の娘列子(たまこ)にほれ、6年間離れ離れになったが、再会して結婚したという説話が残る。勧修寺は2人の孫の醍醐天皇が造営した。  勧修寺の筑波常遍住職らに結婚を報告した忠和さんと栄子さんは「平成の高藤と列子のよう」と祝福された。 同居し始めて1年4カ月。段差を少なくするなど生活しやすさに配慮した家で、一緒に料理や庭の手入れをしたりと仲むつまじい。忠和さんが体調を崩した時は栄子さんが看病、肩を貸して歩く支えにもなっている。忠和さんは「1人より2人がいい。妻の笑顔で自分も明るくなれる」と幸せをかみしめている。 (以下は当ブログでも以前紹介した内容です

 9世紀の後半、山科盆地の南部で恋物語が勧修寺の建立につながったという。 主役は藤原冬嗣の孫・藤原高藤である。 彼は大納言、内大臣となった公卿で、死後に太政大臣正一位を贈られ、十陵八墓のひとつに加えられているから系統のわりには大変な出世である。 高藤が15歳の頃、南山科へ鷹狩りにでかけたとき天候が悪くなり、ある家に雨宿りをした。 狩衣に袴姿の家主がでてきてあわてて戻ると、妻と共に現れ高藤の雨にぬれた衣類を着替えさせた。 その後13歳の娘が接待に現れ鮑、干鳥をすすめた。 6年経って高藤は阿弥陀峯をこえ、山科へいき、あの家を訪れることとなった時、主は出迎えた。 するとかたわらには、幼い女子がいたのであるが、その子こそ当時13歳の娘と高藤との一夜の契りの結晶であった。 家の主は群の大領の宮道弥益で、娘の名は列子。 娘は高藤の妻となり、藤原胤子を産むこととなる。 後に胤子は宇多天皇の女御となり、敦仁親王(後の醍醐天皇)を産んだのである。 醍醐天皇は若くして即位したため、高藤、弥益は 破格の出世をし、弥益の家を寺にしたのが現在の勧修寺である。 寺の建立は胤子の発願とも、醍醐天皇の発願とも云われている。 醍醐天皇・後山科陵、胤子の墓(小野陵)、高藤の墓ともに勧修寺の近くにある。 藤原高藤は勧修寺内大臣ともいい、内大臣に任ぜられてまもなく没している。 勧修寺の建立年については諸説あり、寺伝では900年、扶桑日記では905年とある。 

 

       是公娘・吉子-807
    
┣ 伊予親王
      
┃乙牟漏皇后 760-790 
      ┃┣ 高志内親王789-809
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)        
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇) 

 ┃   ┃┃   ┃┃┏藤原乙春842-866 
 ┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子   -839 830-887  
 ┃ 737-806   ┃┃  ┣時康親王58光孝天皇 
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    藤原穏子885-954(時平・妹)
(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947    ┣ 康子内親王919-957(師輔妻) 
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┃     ┃ 藤原安子(師輔娘)

         ┃┃  ┃┃   ┗周子┃     ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王 
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王

 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣ 成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┣胤子┃┃┃┃┃┃  ┃      ┣昌子内親王950-1000
 ┃         ┃  ┃┃列子┃┃┃┃┃┃┃  ┃藤原仁善子┃(和泉式部奉仕)┣-
 
┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃ ┣ 煕子女王-950  冷泉天皇
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  
┣保明親王901-923
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝 ┗ 慶頼王920-925
 ┃    ┣明子  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王,宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┣源常812-854  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子 ┣源重光 923-998
 ┣源弘812-863
  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)     
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃ ┣重明親王   ┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┗源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘    ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
  ┗源昇    ┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘 
           ┃  ┃┃   ┃ ┣雅子内親王909-954(斎宮 師輔妻)  
  
        ┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
  
 
       ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
          ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子
          ┃  ┃┃   ┃   愛宮 ┣頼宗、能信、寛子
  
        ┃  ┃┃   ┣敦実親王  藤原道長

          ┃  ┃┃   ┃  ┣源雅信┣彰子、頼通、教通
          ┃  ┃┃   ┃  ┃ ┣源倫子   藤原温子
           ┃  ┃┃   ┃  ┃穆子    ┃橘義子
           ┃  ┃┃   ┃ 時平娘     ┃┃
  
         ┃  ┃┣
源定省(59宇多天皇) 867-931
           ┃  ┃┃            ┃┃ 
           ┃  ┃┃            ┃菅原衍子
  
         ┃  ┃斑子女王         源貞子
          ┣
正良親王(54仁明天皇)810-850  
          ┃               ┃

          ┣正子内親王       ┃
小野吉子(更衣)      *5
          橘嘉智子             ┃紀名虎娘・静子
┏━━━━━┛ 
                                ┃    ┣
紀有常女              
                           ┃   ┣ 惟喬親王(第1皇子)
   
                              
┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858        
                        藤原順子(冬嗣・娘)

 

コメント    この記事についてブログを書く
«  | トップ | 大石神社 »
最新の画像もっと見る

平安時代」カテゴリの最新記事