もともと大和にあった平野神社は長岡京のときに大原野に移され、平安遷都の後まもなく京都に移された。 第一社殿に祀られているのは今木大神で、雄略紀では今木を百済系のことをいい、奈良時代には今木直兄麻呂、今木稲売などの今木氏の記載が見える。 仁明天皇の836年に、今木大神に従三位を、久度神には正五位下を、合殿比売神には従五位下を授けている。 都が平城京であった782年、田村後宮の今木大神を従四位上に叙し・・と続日本書紀にある。 田村第は藤原仲麻呂の邸で、それを孝謙天皇も使い後宮は光仁天皇が用い、夫人の高野新笠が住んでいたと推測される。 平野神社は 高野新笠が田村後宮でまつりだしていた父方の百済の王、母方の土師真妹を祭神とすると見られる。 平野神社の近くには北野遺跡という弥生・飛鳥時代の竪穴住居の集落遺跡があり、ここには北野廃寺という蜂岡寺がある。 実はこの寺、聖徳太子の舎人であった秦河勝(山背の大豪族)の建立と伝えられている。 平野や北野は古来から渡来系氏族と深い関わりのあった地なのである。 秦氏で代表される渡来系氏族によって後に仏教が広まるが、これは奈良のみならず京都の平野が重要な地であったのである。