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極楽浄土の極彩色世界が見れる平等院鳳凰堂

2012年06月05日 | 平安時代

 平等院は宇治川を挟んで宇治神社の反対側の「蓮華」という地名に位置する。 この地が貴族の邸宅になったのは889年左大臣・源融の申し出によって陽成天皇が幸したことによる。 素行が悪かった陽成天皇はこのとき邸の柴垣こ壊して狩りにでかけたことが扶桑略記に記されている。 この邸は宇治殿とよばれて宇多天皇の孫・源信のものとなり、その死後に藤原道長のものとなった。 さらに道長の子の頼道が受け継いで晩年に仏殿を建立したのが平等院である。 大日如来を安置する堂がもともとは本堂であり、現在の観音堂がこれにあたる。 本堂の南側に阿弥陀堂が完成したのは1053年で、堂の左右に翼廊と背後には尾廊がつけられて、その鳳凰が翼を広げたような外観から鳳凰堂と呼ばれるようになったのは江戸時代のことである。 阿弥陀堂には仏師定朝の造った寄木造の阿弥陀如来坐像が祀られ、他の仏像は置かれなかった。 阿弥陀堂の前面には大きな阿字池がある。 もともとは阿字池は阿弥陀堂のまわりに廻り、島の上にお堂がある姿が古図に描かれている。 つまり阿弥陀堂の前面に阿字池があるのではなく、阿字池に浮かぶ島に阿弥陀堂があって、翼廊に向かってかけられたアーチ状の小橋をわたって阿弥陀堂へいくのである。 平等院鳳凰堂を建立した頼通は宇治殿といわれ、頼通の長女・寛子は多宝塔を建立し、鳳凰堂に篭って92歳まで観想を行ったと云われている。 

 さて現在の鳳凰堂の内部をご存知だろうか。写真撮影は禁止されているので紹介はできないが、もちろん想像通りできらびやかさは無い。しかし寛子が観想を行った当時は違う。阿弥陀如来坐像は金箔で煌き、堂内の極彩色装飾は派手であったという。現在境内のミュージアムではその様子が再現されて一般公開されていて、極楽浄土の世界を表現した内装を見ることができる。

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