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大河清盛・常盤御前

2012年10月17日 | 平家物語

 常盤御前1138-1190年、いわずと知れた源義経の母である。 近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女、つまり呈子の身の回りの雑用係りで、都の美女千人の中から選ばれた美女ではあったが素性は不明で、身分は極めて低い。 後に源義朝の妾となり、今若、乙若、そして牛若を産んでいる。平治の乱で義朝が平清盛と戦って敗北し、子供たちをつれて清盛の元に出頭して、母と子供たちの助命を乞うことで有名である。常盤の美しさに心を動かされた清盛は今若、乙若、牛若を助命するということになっているが、これは疑わしい。サラブレッドの嫡流(熱田神宮の宮司・藤原季範・娘由良御前の子)で、平治の乱に参加した頼朝でさえ助命されている。比較にならないほどの、なんの血統もない常盤御前の子なら、ましてである。清盛に請われて妾となり一女(廊御方)を産んだ後、一条長成という中流貴族に嫁し、一条能成の他何人かの子を産んでいる。その一人は牛若丸とともに、鞍馬寺で一緒に過ごしており、後に義経とともに都落ちをしている。このとき常盤御前は、鎌倉方によって逮捕され、保身のため追討使に義経の情報を漏らしたという。その後、義経の弟と一緒に平穏な晩年を過ごしたようであるが、はっきりした事はまったく不明。

 平家物語より ---- 源氏の大将として宇治川での初陣に勝利した義経は立派そのものである。 かつて鞍馬から金売吉次のてびきで白拍子の一帯に身を潜め、龍胆という名の頃とは大違いである。 金売吉次はその勇姿を見ようと洛入していたときに、 麻鳥と偶然であった。 かつて、義経の母・常盤御前の雑仕女として仕えていた蓬は、良人、阿部麻鳥とともに嵯峨野の田舎へ引越しをしていた。保元の乱から20年間、讃岐院と呼ばれる崇徳上皇に仕え水守をしていた麻鳥は医者のかたわら、平家の都落ち、先の戦で弧児となったものを引き取り、貧しく養っていた。 吉次は蓬から義経への土産ものを託された。 吉次が義経と会ったときに、麻鳥夫婦の話をし、預かった土産の蓬餅を手渡した。蓬はかつて義経が乳飲み子の頃に常盤に仕えていた者。 義経は母常盤の面影を想像し、はやく逢いたいという気持ちを押し殺すのに必死であった。 翌日義経は那須・佐藤の忠臣とともに嵯峨野へ急いだ。 麻鳥夫婦に会うためである。 多くの童が騒ぐ傍らの小屋が夫婦の家とみると、夫婦を訪ねた。 お互いに10年ぶりの再会である。 鞍馬の山で脱走しようとする牛若に母・常盤の形見を渡したとき以来であった。 麻鳥夫婦は源氏の大将である義経が気取らない勇姿であることにほっとした。 そして義経は母・常盤の様子について懇願するのである。麻鳥夫婦はいつも常盤御前のことを気にかけていた。清盛に寵愛されていこうは大蔵卿長成にとついで女子を設けたが、長成も亡くなり、清盛が亡くなって以降は化粧代も途絶え、それからの生活は貧困をきわめたらしい。 平家が西国へ落ち延びたあと義仲が入洛したあとは、清盛の寵愛を受けた身であることで木曾陣におびえた長成の親類縁者も 常盤を嫌うようになった。 そしていよいよ木曾に知られるようになり身の上が危なくなった頃、あの金王丸の勧めもあって洛を避けて鎌倉へ身を寄せようと旅立ったらしい。 ところがそれ以降何の便りもなく、いつか関が原で旅の男女が盗賊にむごたらしく殺されたという噂を聞いた。 女は昔九条院に仕えていた常盤御前らしい・・・・。 しかし持ち物・衣類がそのままだったことから、盗賊ではなく、木曾の追っ手にやられたらしい・・・。とも聞こえてきたのである。

2008年 京都・時代祭りでの常盤御前

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