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信西入道・高階通憲

2012年02月18日 | 平家物語

 藤原氏南家の文章博士の系統に生まれ、大学頭の祖父をもった藤原通憲は、父親の早い死によって、高階氏に養子にいれられて文章としての出世を絶たれた。これによって系統ではなく実力で這い上がるしかなかった通憲は宗の文学を学ぶことに目覚める。一方白河法皇と祗園女御・妹との間に生まれた平清盛は平家の棟梁・忠盛の子として育てられるが、己の道を見つけようと苦しむ。こうした生い立ちの二人が意気投合するのに時間はかからなかったようである。それから20年余りの月日を経て保元の乱が起こるのであるが、そのとき通憲は出家して信西という法名を名乗り、平清盛の財力を後ろ盾として権力を手に入れるにいたっていた。

 保元の乱以降、無慈悲な信西入道による戦犯処理が行われた。これまで約400年というもの、戦に負けた郎党が死刑に処せられることはなかった。極刑でも流罪であったのだ。 源為義親子、平忠正親子の処刑に対して、民衆の勝者に対する風当たりは強かった。 なかでも文覚の批判は強かった。遠藤盛遠と名乗っていた頃、源渡の新妻である袈裟御前の首を討った男である。 しかし信西の前に一蹴されたのはいうまでもない。 さらに、信西は平清盛の財力を後ろ盾にして、思うが侭のありさまであった。 そして、打倒信西の謀反を企てたのが二条天皇派であり後の平治の乱へと発展していくのである。 保元の乱から3年の間に、後白河天皇は『保元新制』と呼ばれる新制を発令した。また、35箇条の新制を発布しているが、これらは、後白河の側近である信西が立案・推進したものだった。 権威の確立に努めた後白河は、1158年に実子の二条天皇へ譲位し、自ら院政を開始した。 しかし、鳥羽上皇が昔よく言ったように、二条天皇は若くして英君との評価が高く、少なくない貴族らが二条へ接近していき、宮廷は内部分裂の様相を呈した。 後白河院政を後見した信西は、清盛の武力をもって、院政の安定を図った。 当時、後白河の乳母の甥に当たる藤原信頼が院近臣として台頭しつつあり、右近衛大将の官職を望んだが、信西は信頼の申し出を一蹴する。 これにより、信西との対立を深めた信頼は、藤原経宗、惟方、成親、源師仲とともに、二条天皇派として結束していった。 さらに、後白河院政へ不満を持つ源義朝を武力とし引き入れることに成功した。 1159年には、院の近臣である信西派・信頼派間の緊張関係が高まっていく。 信西派の平清盛が熊野詣に出発した直後、藤原信頼・源義朝一派は二条天皇派の了解を得て、三条殿御所を襲撃して二条天皇、後白河上皇を確保する。 この事態に信西は逃亡を図るが、ほどなく捕えられ殺害された。 政権を掌握した信頼・義朝らは勝手に除目を行い、信頼は右近衛大将、義朝は播磨守になる。 その最中、東国より兵を率いて参じた義朝の長男義平は直ちに清盛の帰路を討ち取るよう主張したが、信頼は退け、清盛の帰洛を待つのである。 帰京して六波羅に入った清盛は降伏を装って経宗と惟方を調略し、後白河と二条を内裏から脱出させ、二条は六波羅に迎えられ、後白河は仁和寺に入った。 そして、清盛に信頼・義朝追討の宣旨出されると、清盛の嫡男重盛、弟の頼盛、経盛は3000騎を率いて内裏へ向かい、源氏方2000騎との壮絶な戦いとなる。 重盛が待賢門に迫ると怯えた信頼は逃げ出し、代わって義平が防戦に出て激闘になり、御所の右近の桜、左近の橘での一騎打ちが源義平19歳、平重盛23歳の間で繰り広げられた。  義朝、義平が追撃して内裏を出ると、教盛の軍勢が陽明門に迫り、光保、光基は門の守りを放棄して寝返ってしまった。 両軍は六条河原で激戦を展開するが、疲労した源氏軍は遂に敗走し、戦いは平氏の勝利に終わるのである。

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