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【絵画-26】ポスト印象派ゴーギャン1848-1903について

2021年04月10日 | 絵画 音楽 映画

生まれは1848年、フランス2月革命の時、両親ともに超左翼であっただけに帝政が崩壊すると危険を逃れてペルー(母親はインカ帝国の皇帝の血筋:トリスタン家)に移住。7歳で仏に帰国、海軍軍人となり普仏戦争1870-1871を経験している。やがて株式マンとなり25歳で結婚、5人の子をもうけながら風景画がサロンで入選している。1879年からは印象派展に毎回出品するなど順風満帆であった。ところが、1882年の金融恐慌で株式マンをやめたことから人生は転落街道をたどる。

1851 ナポレオン3世のクーデタによりペルー・リマへ行くが途中で父親死亡

1856 ペルー内戦によりフランス・オルレアンへ

1868 海軍に入隊

1871 パリへ戻り証券取引所へ。アローザが後見人

1873 ソフィーと結婚 絵を描き始める

1874 印象派ピサロの門下生となることで多くの画家と知り合う

1883 証券取引所退職

1884 妻の実家があるデンマークへ

1885 パリに戻りベルナールと交流 クロワゾニズムに進む(平相、輪郭)

そして1886年物価の安いポン・タバン(仏ブルゴーニュ地方)に移動、ここで多くの売れない画家と出会い(ポン・タバン派)、グラネックの宿がたまり場となる。この後エミール・ベルナール1868-1941を介してゴッホ1853-1890と知り合う。やがて若者画家はゴーギャンをリスペクトしてナビ派(ナビ:ユダヤの賢人 ピエール・ボナール1867-1947などもいた)を結成する。1888年には仏南部のアルルに居るゴッホからの誘いで一時アルルに行った。ポン・タバンの良き生活があったので行きたくはなかったが、ゴッホの弟テオの手前・・・行った。

1887 パナマへ行くが病気になりマルティニーク島へ ゴッホの弟テオと親交 アルルへ行くがゴッホと揉めてアルルを去る

1889 印象主義絵画展

1891 パリからタヒチ(フランス領ポリネシア)へ移動42才 映画「ゴーギャン タヒチ、楽園への旅」参照

   絵が売れない貧乏画家は生活費のいらないポリネシアへ行く 誘った友人は誰も行かない

   タヒチでテフラ(テハマナ 13歳の現地妻:一週間のお試し期間を経て)と暮らす

1893 パリへ戻る モンパルナスへ(シャルロットの簡易食堂でアルフォンス・ミュシャとともに)

   タヒチ時代の作品44点を展示(売却11点のうちドガが2点購入)

1895 絵が売れずに・・・タヒチへ戻る

1896 現地妻パフラ 流産

1897 長女アリーヌ病死 ヒ素自殺未遂

   遺作 我々はどこから来たのか_我々は何者か_我々はどこへ行くのか

   画商ヴォラール(ピカソ、セザンヌ、ゴッホを見出す)で個展

1899 パフラ出産

1901 タヒチ日記「ノアノア」出版

   ヒバ・オア島移住 現地妻3人目 住居に木彫→オルセー美術館保有

1902 回顧録

1903 カトリック教会、タヒチ政府を批判 禁固刑ののち死亡するが、パリではゴーガン大ブレイク

   サロン・ドートンヌでゴーガン記念特別展 

 

その後、ル・ブルージェの安宿では絵を店主に買い取ってもらって食いつないだという。1891年にタヒチに行くまでのゴーギャンは本当に貧乏だったようだ。

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