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新・平家物語 第29話 一の谷の戦い

2012年11月26日 | 平家物語

 一の谷の戦いでとりわけ有名なのは熊谷丹治次郎直実と息子・小次郎直家である。この直家は宇治川で負傷していたが、傷も癒えないまま父に従っていた。17歳である。いままで功妙をたてる機会に恵まれなかった直実は、必死であった。一の谷では薩摩の守忠度、忠光、景清、景経、敦盛らを有して控えさせていたが、源氏の奇襲に鵯越同様に、「卑怯なる院」とばかりに抵抗をみせる。ここで直家は再び敵矢により負傷すると、直実は息子の愛馬「白浪」に乗って敵の中へ飛び込んでいった。勝利はするものの源氏勢の犠牲はかなり多かった。一方、生田川は平家軍の本陣である。知盛を大将、重衡を副将に6千の兵で固めていた。そこへ蒲冠者範頼が2千騎を従えて西宮から魚崎、御影へと迫っていた。このときに生田に一番乗りしたのが私市党の河原太郎高直と次郎盛直の兄弟である。無数の平家のなかに僅かふたりだけで、飛び込んでいったというから、敵の平家方からもその勇猛さを賞賛したという。範頼軍の戦奉行は梶原景時である。息子の景季、景高、景家を引きつれていたが、乱軍にまぎれて景季の姿がみえない。嫡男・景季は名馬・磨墨にものをいわせ、宇治川で功を挙げた自慢の息子である。景時は次男・景高、三男・景家をつれて乱軍の中に駆け入った。息子を救い出した景時はこれで有名になるが、源太景季の箙に梅の花をさして奮戦した彼を、平家は「花箙の源太」とよんで、いいはやしたという。この時、武蔵の藤田行康と甥の江戸四郎信賢の戦死なども見逃せない。平家大将・知盛は平家のふがいなさに嘆いたという。後に知盛・知章親子は重臣の監物頼賢とともに源氏のまっただなかに取り残された。このとき知章と頼賢は殿軍を勤めて知盛を逃がし、自らは17歳で果てたのである。そのころ副将重衡も乳母の子・後藤兵衛守長とともに逃げ走っていた。この時、重衡が乗る名馬「童子鹿毛」は矢を受け、重衡は放り出されたが守長はしらぬふりして、主君の前を走り去ったという。そして庄の三郎忠家に生け捕られた。また、経盛の次男若狭守経俊は越中前司が討たれたと聞き、敵軍に斬ってはいり討たれた。

 一の谷の合戦場須磨の北東4kmくらいのところに明泉寺があり、境内には平知章の墓があります。 父は平知盛、母は八条院女房治部卿局で、左馬頭兼武蔵守でした。 1183年の平家都落ちに伴って西海へ行き平家建て直しのあとの1184年2月の一ノ谷の戦いで、父・知盛に従い、源氏方の源義経軍と戦闘しますが、平家全軍総崩れの中で知盛と、郎党の監物太郎頼賢主従三騎で敗走となります。 海岸に出たところを、源氏の児玉党に追い付かれ、児玉党の大将を討ち取ったものの、父知盛をかばって周囲の武士に討ち取られます。 このとき僅か16歳でありました。 母・治部卿局、平知盛の妻は後高倉院(守貞親王)の乳母でもあり、はじめは平時子に仕えて南御方と呼ばれ、1179年に守貞親王の乳母となったときに治部卿と 呼ばれて 知盛と共に自邸で親王を養育します。 その後治承・寿永の乱が起こり、戦乱の中で長男知章は一ノ谷の戦いで討ち死にした。

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