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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

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清少納言が仕えた藤原定子

2005年10月29日 | 平安時代

藤原定子(977-1000年)

 1000年12月16日、皇后藤原定子は皇女を出産しますが、難産のためにお亡くなりになりました。24歳でした。

 定子は藤原道長の兄・藤原道隆と、歌人として名高い高階貴子の娘として977年に生まれ、990年1月5日に一条天皇が元服すると、その月25日に入内し、2月11日に女御、10月5日には立后して中宮となります。当時14歳でした。

 定子は母譲りの才女でした。11歳の一条天皇は、彼女を姉のように慕い、二人は熱い愛を育てていきます。この定子に仕えたのが「枕草子」で有名な、あの清少納言です。枕草子のなかで、定子の洗練された会話、漢詩・和歌に秀でた教養、そして可愛らしくみずみずしい定子が表現されています。当然のことながら一条天皇は定子に影響され、芸術・文化に開眼し、そして熱愛していくのです。

 995年4月、定子の父道隆が亡くなると周囲は一変します。右大臣の藤原道兼が関白に昇進し、その後任に満を持して藤原道長が就任。次第に政治の実権を取っていくのです。翌年、事件がおこりました。定子の兄の藤原伊周が花山上皇に矢を放つという事件です。兄が太宰府に流されると、味方は幼い天皇一人になってしまいました。

 999年11月7日、定子は第一皇子・敦康親王を産みますが、その日、藤原道長は愛娘・彰子の入内を強行、更に翌年2月25日、彰子を中宮、定子を皇后とする前代未聞の一帝二后制とします。 失意の中、定子は尼となりますが、一条天皇との絆は強く、道長の目を盗んでは稀な逢瀬は続きます。そして1000年12月、定子は第二皇子を産んだ次の日に亡くなるのです。

 亡くなった後、定子が残した和歌が見つかっています。

 夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙のいろぞゆかしき
 (私が死んだ後、恋しがって流す貴方の涙の色が知りたいです・・・)

 定子が鳥辺野に土葬される際、一条天皇は次の歌を残しています。

野辺までに心ばかりは通へども我がみゆきとは知らずやあるらん
(貴方が行く鳥辺野には身体は行けないけれども、心だけは貴方を追って行っています。貴方は知らないのですか?・・・・)

 世は道長の天下へと進んでいきます。 この事態に最も心を痛めていたのは彼女を追い立てる立場に立たされた彰子でした。彼女は父・道長に反発し、彰子の生んだ敦康親王を我が子のように可愛がって育て、次期天皇には自分の産んだ敦成親王(後一条天皇)ではなく敦康親王を推しましたが、父の権力には勝てませんでした。彰子も、大奥の世界では考えられない優しい心根の持ち主だったのです。

 ちなみに、彰子が中宮になったあと、仕えたのが紫式部と和泉式部です。

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