goo blog サービス終了のお知らせ 

平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

1333年鎌倉幕府を倒したのは北関東を拠点にしていた武士・新田義貞

2020年03月27日 | 鎌倉・室町時代

 1333年鎌倉幕府が滅亡、倒したのは北関東を拠点にしていた武士、新田義貞である。それまで権勢を誇っていた北条氏一族は鎌倉の東勝寺にて果てた。北条氏に仕えていた足利高氏が後醍醐天皇側に寝返ったのである。北条高塒1303-1333の幼子だった北条時行?-1353は、その後生涯に渡って足利尊氏(北条高塒の高から後醍醐天皇の尊に替えた)と戦うこととなる。各地で北条の残党が反乱を起こす中、1335年に北条時行も諏訪氏と共に蜂起(中先代の乱:建武政権に不満を持つ東国武士3万が北条時行に集結して鎌倉を奪還)する。漫画:逃げ上手の若君は、敵から逃げることで英雄となった北条時行の生涯を描く。

1333 北条氏滅亡

 ↓

1333 建武の親政:鎌倉武士不満、後醍醐天皇暗殺謀略@京都 By 西園寺公宗

 ↓

1335 北条時行蜂起-鎌倉制圧:中先代の乱 (先代:高塒 中先代:時行と足利は認めていた証拠)

 ↓      建武の新政で恩賞がもらえない不満分子が北条時行の元に終結

1335 足利尊氏が鎌倉へ攻め上る

 ↓

1335 尊氏に鎌倉を奪われる : 北条時行勢力自刃@北条時行脱出

 ↓      北条時行も自刃とみせかける

1335 足利尊氏@鎌倉 後醍醐天皇による京都からの帰還命令無視

 ↓

1335 尊氏討伐By後醍醐天皇 : 失敗 湊川の戦い

 ↓

1336 尊氏擁立の天皇承認(北朝に光明天皇) : 数か月後、後醍醐天皇は南朝を開く

 ↓

1337 北条時行決起の好機(打倒尊氏) : 時行は、後醍醐天皇の軍勢に加わり北畠顕家と合流して南朝側となる

 ↓                    北条の名は足利よりも大きい

1338 後醍醐天皇は皇子を各地に展開 : 北条時行は後醍醐天皇皇子とともに遠州灘の嵐で行方不明

 ↓ 

1340 相模次郎・時行を諏訪氏が支えて、足利の守護・小笠原勢と対峙@大徳王子城

 ↓ 

1352 南朝が鎌倉奪還 時行鎌倉入 南朝が京都を制圧、宰相義詮(尊氏の息子)は近江に逃亡

 ↓ 

1352 鎌倉南朝は尊氏の反撃にあう 時行は鎌倉離脱 かくして南朝逼塞

 ↓ 

1353/5/20 北条時行斬首@鎌倉滝口寺

 

この倒幕で時代は大きく転換し、政治の実権を握った後醍醐天皇は建武の親政を行う。鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱迄を描いた太平記の中では、後に室町幕府を開く足利尊氏と新田義貞は熾烈な戦いを行うこととなる。新田氏が治めたのは群馬県新田庄、清らかな地下水が豊富で実りをもたらした。新田義貞が生まれたのは1300年頃、鎌倉幕府の実権を握っていた北条氏の権力は揺るぎないものと思われていた。ところが、1331年近畿地方で後醍醐天皇は河内の楠木正成を動かして倒幕ののろしを上げたのである。この時新田義貞は幕府軍の一員として後醍醐制圧にかかったが苦戦を強いられたという。一方苦戦する幕府は戦費調達の為新田庄に税を課すべく使者を取り立てに差し向けたが、新田義貞はその使者を斬首する。盤石で最盛期を迎えていた幕府にたいして戦いを仕掛けたのである。

 畿内では、幕府側の有力者・足利尊氏が後醍醐川に寝返り幕府の監視機関・六波羅探題を攻め落としたのである。これに新田義貞も呼応して反幕府軍として挙兵。その地は新田庄の生品神社、集まったのは150騎、で鎌倉への進軍の途中で足利尊氏の息子・千寿王も合流している。かくして大軍勢となった新田義貞は鎌倉北条勢と激突、北条の多くを自刃に追い込んだ。そして1333年5月、鎌倉幕府は滅亡し、これまで無名であった新田義貞は都でその名を知られることとなる。後醍醐天皇は幕府も隠棲も否定し自ら政治を行うべく、1334年建武の親政を敷く。新田義貞は恩賞として播磨の国司に就任し、新田一族の多くが都の警護を行う武者所の要職に就いた。さらに新田は北陸地方、越前・越後の国司に任命され後醍醐政権の中枢を担うこととなる。

 一方の功労者、足利尊氏は、武蔵、常陸などの東国の国司に任ぜられただけではなく、天皇の偉をさずかり、全国の武士への指揮権も与えられた。1335年東国で北条氏残党による反乱が起こり、尊氏は制圧に向かった。ところが乱の終息後も天皇の上洛命令を無視して鎌倉を動こうとしなかった。恩賞の不満かともいわれているが、これに対して後醍醐は尊氏を朝敵とみないして追討の宣言をする。其の大将に指名されたのが新田義貞であった。ここに源氏の流れをくむ足利と新田の戦いが始まるのである。義貞は鎌倉に向かって出陣したが反撃に撤退を余儀なくされ、また京都を奪われた。後醍醐は京都を逃れて比叡山山麓の東坂本・日吉大社に籠った。義貞らは東北からの援軍を受けて反撃し尊氏らを急襲に追い落とすことに成功した。しかし僅か三か月後の1336年5月、西国武士を従えた足利尊氏は新田義貞を攻めて、再び比叡山に敗走させた。

 ある意味この膠着状態を打開しようと尊氏は後醍醐に和睦を持ちかけたのである。後醍醐天皇が都に戻れば政治のすべてを任せるというものである。後醍醐はこれをあっさり受け入れたが、後醍醐側の指揮官である新田義貞はこれを知らされることはなかった。新田一族の武将・堀内貞満はこれを知り、天皇の元に向かうと、新田一族の忠誠を訴える。後醍醐の和睦受け入れはいっときの図り事にすぎないとの説明もあって、新田義貞は皇太子とともに北陸へ行き兵の立て直しを図ることとなる。そして義貞は北陸を拠点に尊氏と戦うことを選んだ。いったん尊氏側に着いた後醍醐は京都から吉野へ脱出したことで、南北朝時代に突入した。北陸に下った義貞は尊氏の追撃に苦戦していたが、ついに1337年3月には敦賀の戦いに於いて皇太子を尊氏に奪われた。1338年7月には新田義貞が尊氏たてこもる城の視察にでかけたところを大軍勢に襲われて越前藤島であっけなく命を落とすこととなる。

滝口寺にある新田義貞公首塚

コメント    この記事についてブログを書く
« 愛川菜月@OAM | トップ | 宮澤里緒菜@OAM »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

鎌倉・室町時代」カテゴリの最新記事