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平安京から京都への変化

2008年12月16日 | 平安時代

 桓武天皇が造営した平安京の区画内には北野、紫野、平野などはなかったが、平安前期から重要な土地となり、北野天満宮、大徳寺などができ、秀吉の時代には町としての重要性が考慮され取り込まれることになっていった。北野と紫野の間には船岡山があるが、これは平安京の中軸である朱雀通の北にあり、平安京の基点となっている。 平安京域外であっても重要であったことは清少納言の枕草子や古今著文集などにも多く取り上げられていることからわかる。 桓武天皇が遊猟をしに北野へ出かけ、伊予親王の別荘で飲酒高会を行った記録もある。また、桓武天皇の子・淳和天皇は紫野へでかけ遊猟し、その地に離宮を設け紫野院と呼んだ。 紫野院は832年には雲林亭と名を変えやがて雲林院となる。(現在の大徳寺の隣) 1177年の京都の大火、1180年の辻風などにより京都の町は一変する。 さらに1181年から始まった大飢饉で42300人もの死体が転がったという。 この数は仁和寺の隆暁法印が死者の額に阿字を書いて数えた数字らしい。 また度重なる賀茂川、鴨川の氾濫により平安京は疲弊を深め、鴨長明が晩年は日野で暮らしたのもこれらの理由による。 こうしたことに関連して平安京のまわりには白河、鳥羽、嵯峨、桂、山科、伏見などの町が発展していくのである。 このような京都を新しい町として造営したのが豊臣秀吉の囲郭である。 京都の周囲を土居でめぐらせる工事は1590年から計画され約5ヶ月で完成させている。これは京都所司代の前田玄以(信長、秀吉に仕えた亀山城主)の総括により行われた。 土居の高さは3m、周囲は22kmに及び現在の羅城門跡がある九条通が最南端で、京都駅ももともと土居があったところである。

 秀吉は土居を廻らせたあと、京中に散在していた寺を集め、大名役人とその部下などの関係者の屋敷を配置することにより寺町を造ったのである。そして本願寺としては現在の西本願寺が建設された。現在の寺町(京都御所すぐ東の通り)は鞍馬口にある浄善寺から南は7条にある宗仙寺まで約5kmにわたって100余りの寺がほぼ直線に並んでいる。これらの寺は浄土宗を筆頭にするが、禅宗は洛外にあったため100の中にはない。また浄土真宗である本願寺派の寺もない。 織田信長が敗れた本能寺は現在寺町三条下がる、にあるがもともと下京四条坊門西洞院にあったのである。 この土居のすぐ東は鴨川であるだけに、土居や寺の頑丈な塀が川の氾濫対策として有効であることが理解できる。  この頃、本願寺を京都に戻すことが秀吉から顕如に命じられ、山科本願寺撤収以来京都へ移ることとなった。場所は六条堀川の広大な地で現在の西本願寺のある場所である。 親鸞の廟的な御影堂を移し阿弥陀堂の建設が始まる。 このさなかに蓮如の末裔である顕如が死んだ。 これにより後継の門主をめぐってお家騒動が起こりこれを利用した徳川家康は本願寺を分裂させて東本願寺ができることとなった。 従って本派本願寺を西本願寺というようになる。

 寺町は南北に連なっているのに対して、寺内には東西に寺が集まり東の端は相国寺、西は千本釈迦堂の手前で、妙覚寺、妙顕寺、本法寺、報恩寺など法華宗の寺が多い。 これは京都所司代の前田玄以が法華宗の信者であったことに由来する。 1530年頃は京都には法華宗の大寺が散在し京都全域を掌握する勢いであったが、比叡山や近江の六角によって弾圧され寺は焼き払われた。 しかし前田玄以により徐々に復活し寺内に集まったのである。 秀吉が造った土居には七口、実は十箇所の入り口があり、 鞍馬、大原、北白川、粟田、伏見、竹田、鳥羽、西七条、四条大宮、長坂である。 しかしいつしかこの土居は豪商角倉了以が手がけた運河としての高瀬川の掘削によって姿をけしていった。高瀬川は鴨川から水を引いた運河であるから二条から五条にかけて物資の荷卸しのための施設が次々とでき、長州藩邸、加賀藩邸、彦根藩邸、土佐藩邸などが設けられた。 こうして京都の木屋町は運河と共に栄えることとなる。 

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