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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

黒田官兵衛6 青山古戦場跡

2014年01月19日 | 戦国時代

 姫路青山に「青山ゴルフクラブ」があり、私も何度か行ったことがある。実は今からおよそ450年前の1569年に青山ゴルフクラブの敷地内において黒田官兵衛と赤松政秀とが戦闘したとされる。これを青山・土器山の合戦という。この戦いで黒田官兵衛は、奇襲攻撃によって300の勢で3,000の赤松政秀軍を打ち破り、負けた政秀軍は、ゴルフ場の北側から龍野方面、太子方面に敗走したと云う。

赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
  ┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
  ┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く) 
  ┣赤松則祐1314-1372 
  ┃ ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
  ┃ ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝 
  ┃ (摂津有馬氏祖)  ┣赤松祐尚(英賀城主 足利義教近習)  
  ┃                 ┃ ┗則尚1425-1455
  ┃          ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)  
  ┃           ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
   ┃           ┗赤松時勝 
   ┃   置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
   ┃              ┗娘  ┗赤松村秀1480-1540(庶流) 
   ┗赤松氏範1330-1386      ┣  ┗赤松政秀?-1570┳赤松政広1562-1600竹田城主 竜野城主 
    ┣氏春      (置塩城主)赤松義村?-1521   ┏娘┛
    ┣家則           ┣赤松晴政 1513-1565
    ┣祐春           ┃ ┗赤松義祐1537-1576 信長に通じる
    ┣季則           ┃   ┗赤松則房?-1598 秀吉に仕える
   ┗乙若丸          ┗政元1500-上月城主 ┗則英?-1600 関ヶ原では西軍・自害(赤松氏嫡流は途絶える)

 さて、この戦いの背景について少し補足説明をすると、室町幕府の守護大名家である赤松第12代当主・赤松義祐と龍野の赤松政秀の内紛が事の発端である。足利将軍家15代目の足利義昭が将軍となった際に、赤松政秀は娘を側仕えさせようと京へ送った。それを快く思わない義祐は、赤松家の家臣の小寺政職や、浦上宗景に対して、娘の身柄の拘束を要請するが、失敗に終わり娘は京の義昭の元へ届けられた。つまり、義昭は織田信長の勢力を背景としていたから、政秀にとっては織田家の支援も取り付ける事にも成功したということになる。一方、政秀からすると小寺・浦上両家に領土を攻められたのだから、信長に支援を求めたことで、信長配下の豪族、摂津の池田勝正と東播磨の別所安治・別所重棟・明石祐行などの力を得て赤松義祐攻略にとりかかった。力を得た赤松政秀は、居城・龍野城を出陣し、小寺家を攻めるために姫路城へ迫っていた。当時の姫路城はまだ小さく長期籠城はできず、黒田官兵衛は野戦を選択した。その野戦地が青山であり、織田信長をバックに持つ赤松勢を退却させたのである。黒田官兵衛23歳のときである。

黒田官兵衛 青山古戦場跡

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黒田官兵衛5 ドラマ館

2014年01月18日 | 戦国時代

 NHK大河にあやかって必ず地元は町おこしをする。話題性として一番良いのはやはり戦国時代であろう。大将、円卓の騎士、軍師、姫と主役に事欠かないからである。姫路城三の丸広場の南側に武家屋敷が立ち並んでいる。といってもほとんどがお土産屋、食べ物屋となっていて観光地化されているが、その一角にあるのが官兵衛ドラマ館。二箇所だけ撮影OKの場所があったので、雰囲気だけですが。

 館には当時の姫路城がどんな状況であったのかの解説と模型、ドラマで使われた衣装、甲冑など多数が展示され、登場人物の解説パネルも展示されていた。官兵衛の妻・光姫を演じている中谷美紀さんのサインは驚いた。その達筆は芸能界でもピカイチだとか。それに比べて岡田准一くんのサインは・・・・。

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黒田官兵衛4 職隆親子が移った妻鹿の国府山城

2014年01月17日 | 戦国時代

 ここ国府山城は、妻鹿城ともいわれるように姫路・妻鹿に位置する山城で、1580年秀吉による播磨平定の時、職隆・孝高は姫路城を秀吉に譲り、父職隆と自分は国府山城に移ります。何故黒田官兵衛親子が、自分の居城・姫路城を羽柴秀吉に譲ったのか。1580年播磨の三木城主・別所長治を滅ぼし、三木城を居城とした秀吉に対して、黒田官兵衛は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、自らは父職隆の国府山城に移ったというわけである。1585年黒田職隆が没した後は、廃城になったとされている。1580年から1585年の間に起こった歴史的出来事といえば本能寺の変、つまり織田信長の 家臣・明智光秀が謀反を起こして信長を討った事件である。このとき秀吉は備中高松城の戦いにあったが、織田信長が討たれたと聞き及んだときは放心状態であったという。このときに軍師・官兵衛は「落ち込んでいる場合ではない、天下を取る時がきたのですぞ」と進言したことで、備中高松城から山城山崎までの200kmをわずか10日間で軍団大移動を行ったいわゆる中国大返しにより、山崎の戦いにおいて明智光秀を撃破したことは有名である。

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黒田官兵衛3 黒田重隆が眠る黒田家の廟所

2014年01月16日 | 戦国時代

 ここ黒田家の墓所は御着城跡にあり、黒田孝高・官兵衛の祖父・重隆と生母(明石氏)の二人が祀られています。黒田重隆は姫路の広峯神社の神官と目薬を売ることで財を成して播磨の国人となった。当初は龍野城主・赤松政秀に仕えたが後に御着城主・小寺家の家老となり、重用されると姫路城主となります。その後子の職隆、孫の孝高とつぎますが、1580年秀吉による播磨平定の時、孝高は姫路城を秀吉に譲り、父職隆と自分は姫路・妻鹿の国府山城に移ります。

御着城跡地にある黒田重隆と官兵衛の母・明石氏の墓

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黒田官兵衛1 軍師・孝高

2014年01月11日 | 戦国時代

 約450年前、全国にその名を轟かせた軍師・官兵衛が私の住むところから輩出された。軍師は自らは戦わず、もっぱら情報収集を行うとともに戦略を立てるのが仕事である。織田信長が不利な軍勢であったにもかかわらず、今川義元に勝利した1560年の桶狭間の戦いは織田信長の名を挙げた戦いとして有名である。2万の今川軍勢に対して3千の軍勢で戦略を立てた軍師のほうが、今川義元の首を討った毛利良勝、織田信長の馬廻として仕えていた小姓よりも報奨が大きかったという。これを知った官兵衛は幼くして軍師の重要性を悟った・・というのが今年の大河ドラマでの第一話であった。しかしそれは官兵衛を後押しするための脚本であり、実際は、今川義元の首を討った毛利良勝は織田信長の馬廻として仕えていた小姓にもかかわらず、本能寺の変では京都に随行し、信長の長子・信忠を守って討ち死にしているから相当認められた存在となっている。

 さて本題にはいって豊臣秀吉に仕えた軍師・黒田官兵衛孝高(1546-1604)は、1546年播磨国姫路の国人の息子として生まれた。孝高の父・黒田職隆は守護大名・赤松氏の一族で御着城主だった小寺政職 (政職は黒田氏を高く評価し、重隆を重臣として姫路城代に任じた。重隆の子職隆には自らの養女を嫁がせ、小寺の名字を名乗らせた。) に属し姫路城を預かった。孝高は中国地方で馴染みのある毛利ではなく、勢力が姫路にも達していない頃から織田を選んでいたから、その眼力は並大抵ではない。織田軍の中国地方軍事司令官に抜擢されたのが羽柴秀吉であり、孝高はこうして秀吉や、軍師・竹中半兵衛とも親交を深めた。孝高はあるとき人生最大の危機が襲うこととなる。織田に忠誠を誓っていた荒木村重・摂津国有岡城主が突然 毛利に寝返ったのである。織田方では説得して翻意させようと、使者に黒田官兵衛孝高が選ばれた。村重は黒田官兵衛孝高の言葉すら聞こうとはせずに、孝高を城内に監禁したのである。織田側からすれば説得にいった孝高は城に入ったまま戻ってこないために、信長は孝高が裏切ったものと早合点して人質にとっていた孝高の子・松寿丸(後の黒田長政)を殺すように命令した。しかし竹中半兵衛は孝高が裏切るような人物ではないとして松寿丸を匿ったのである。やがて有岡城は織田信長により落とされ孝高は救出され、疑惑は晴れ、信長の信任を深めることとなった。秀吉が三木城を落としたとき、孝高は播州の経営には不適な城とし自らの姫路城を秀吉に譲っている。このとき竹中半兵衛は病に倒れたために、以後は名を改めた如水が秀吉の軍師となった。1582年本能寺の変が起こったとき秀吉は如水の献言を受け入れて備中高松城を水攻めにして 毛利の大軍と対峙していた。毛利に主君の死が伝われば、敵は一気に勇躍し、味方は総崩れになるところであったが、軍師・如水が切り抜ける方法を考えたのである。天下は秀吉のもの、自分に天下を取る意思はない、という意味で名づけた如水であったが、秀吉の死後、関ヶ原の戦いの直前、如水は豊前の地で兵を集めた。黒田家の精鋭部隊は徳川家康の東軍に味方するために息子・長政の指揮の下に国を留守にしていた。如水は中央で騒乱が起こっている間に、九州で兵を集めて北半分を統治しようとしていた。ところが肝心の関ヶ原の戦いが僅かに一日で終わったために、九州統一は叶わなかったが、関ヶ原で小早川秀秋を寝返らせ東軍に勝利をもたらせた最大の功労者は如水の息子・長政であった。その手柄に意気揚々と凱旋してきた長政に、「なぜ家康を刺して天下を狙わなかったのか」といった如水伝説は有名である。

黒田重隆1508-1564(龍野城主・赤松政秀→小寺政職に仕える)
  ┗黒田職隆1522-1585(姫路城代)⇔赤松政秀
  ┃┣娘
  ┃┃┣-
  ┃┃浦上清宗-1564     蜂須賀正勝娘
  ┃┣黒田官兵衛孝高1546-1604 ┣-  
  ┃┃      ┣黒田長政1568-1623
  ┃┃幸園(櫛橋伊定娘・光姫) ┣黒田忠之1602-1654
  ┃┣黒田利高1554-1596    ┣黒田長興1610-1665      
  ┃明石宗和娘(小寺養女)   ┣黒田高政1612-1639
  ┣黒田利則1561-1612     栄姫
  ┣黒田直之1564-1609
 神吉氏

赤合子との云われる銀白檀塗合子形兜が話題

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賤ヶ岳七本槍 糟屋助右衛門武則

2013年04月25日 | 戦国時代

 幕末は少し飽きてきたので、息抜きがてら一番最近読んだ歴史本よりの抜粋である。賤ヶ岳七本槍の男たちのなかで関ヶ原の戦いのときに家康側に加わったのが5人、秀頼側として大阪城から動かなかったのが一人、反家康陣営に属したのが糟屋助右衛門武則であった。そのためか糟屋助右衛門武則の事蹟はほとんどわからない。実はこの糟屋氏が加古川城のあるじなのである。糟屋氏の先祖は相模国大住郡糟屋庄の出身らしいが、秀吉に仕えた糟屋氏は現在の兵庫県加古川市の出身である。信長公記には、別所与力嘉古川の賀須屋内善城を借り秀吉は書写山に取上り・・・と、信長から中国の毛利氏攻めの総大将を命じられた秀吉が1578年2月23日、播州に入り国内の諸将を集めて軍議を開いた。その会場になったのが加古川城であり、城主が糟屋助右衛門武則であった。この軍議のとき、三木城主別所長治の叔父・別所吉親は、城主代理として出席していたが、毛利氏攻めの先導を三木氏に命じる秀吉の専断に怒り席を退去したという。かくして秀吉の三木城攻めが開始される。ところで、軍議の席を蹴って退去した別所吉親の妻は糟屋助右衛門武則の姉であった。1578年4月5日三木城では城の北方大村坂に陣する秀吉軍に夜襲をかけた。不意をつかれた秀吉軍は大混乱し、樅の鉢巻に桜おどしの鎧を着て白あし毛の馬にまたがる女武将に翻弄されたという。その女性こそ糟屋助右衛門武則の姉であった。1580年1月11日秀吉軍は鷹の尾城を攻め落とし三木城を攻撃した。このとき彼女は秀吉側の武将二十人余りを射落とし城門から敵の真っ只中へ斬ってでた。秀吉軍のなかでも剛勇で知られた篠原源八郎にひるむことなく、馬上のまま首を斬りおとし、ゆうゆうと本城に引き揚げたという。籠城1年10ヶ月、兵糧尽きた三木氏は力尽きる。城主別所長治は一族切腹により城兵の命に代えたいと秀吉に申し出、1580年1月17日、別所一族の自害の日となる。糟屋助右衛門武則の姉は、わが子を左右に座らせ、長治に一礼すると、年たてたわたくしたちが死出の旅路のご案内を・・というなり、守り刀を抜き放ち、左右のわが子を引き寄せて、一人ずつ刺し殺し、「後の世の道も迷わじ思ひ子を連れて出でぬる行く末の空」と辞世を残すと喉を突いて自害した。糟屋助右衛門武則の母は御着城主・小寺藤兵衛尉政職の妹で、わけあって再婚後に糟屋助右衛門武則を産んだ。その後、母から武則を託された兄・朝正は彼を養弟とした。秀吉が三木城を攻めるにあたって、朝正は先祖からの義を守って別所氏に味方したが、別所氏と直接関係を持たない武則は加古川城主となって秀吉に味方したという。このように糟屋助右衛門武則が秀吉の家臣となって行動するようになったのはいつの時代か判然としない。別所氏の与力ではあったが独立した城持ちの土豪であったという前歴から、加藤清正や福島正則などの家臣とは趣が変わっている。従って3年後の賤ヶ岳合戦の時点での年齢も不明である。 賤ヶ岳合戦で七本槍として選ばれているのだから目覚しい働きをしたことは間違いない。

加古川城跡 (加古川称名寺境内)

 

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豊臣秀長の役割

2012年07月18日 | 戦国時代

 1590年、名実ともに天下人となった秀吉が調略に長けていたことは周知のことである。それが晩年には奇行が目立つようになる。1592年頃からである。秀吉の弟・秀長が亡くなったのは1591年であるから、ここに紹介する記事に信憑性があるということか。では1590年以降の秀吉のまわりに起きた事柄からその信憑性を見てみよう。

 1590年、秀吉は天下統一の締めくくりとして小田原の北条氏を征伐するため、三万二千の軍勢を率いて京都を出陣すると、伊豆の山中城、韮山城を押さえ、北条氏正・氏直親子を小田原城に囲んだ。 この頃鶴丸は聚楽第の北の政所のもとに滞在し、茶々は淀城でわびしく過ごしていた。 小田原攻めが長期包囲戦にはいったため秀吉は北の政所を通じて茶々に小田原へ向かわせている。 茶々は箱根山の山中では嫌悪感なく、約二ヶ月を秀吉と暮らした。 7月、小田原城が開城となると氏正・氏照兄弟は切腹し、功労者である家康には関東八州を与え、家康は早速江戸を中心に関東八州を定め、これが後の江戸幕府開設の本拠地になったのである。 奥州伊達政宗も軍門にくわわり秀吉の天下統一は完了したのである。  翌年の1591年、異父妹の朝日姫、異父弟・秀長と相次いで亡くすと鶴松は病気になり、いったんは回復を見せたが、秋には息絶えてしまった。 跡継ぎをあきらめた秀吉は、養子の秀次に関白を譲ると、秀次は聚楽第で一の台局と久しぶりの再会をするのであるが、秀次は正妻・栄を清洲城においたまま、一の台局の父・晴季も心配するほどの情事を繰り返した。  1592年、鶴松の死を忘れるためかのように朝鮮を制圧していたが、母・大政所を失い、死に目にも会えなかった自分を悔いた。 丁度その頃養子の秀勝 (信長の四男でお江と結婚していた) が24歳で戦死したのである。 その頃茶々は自分のからだに再び異変を感じた。 まぎれもなく妊娠の兆候である。 1593年、淀君は男子を産んだ。 捨て子は元気に育つと信じて鶴松には「捨」と名付けたが、こんどは「お拾」と名付けた。 後の秀頼である。秀頼の出現によって一気に身の危険を感じたのが関白秀次である。  秀吉に実の子ができたとなると、約束されていた後継ぎの権利が剥奪されるのは目に見えているからである。 秀次は一の台局の後押しもあってか、秀吉に、秀頼が実の子であるというのは疑わしいと進言したのである。  秀吉が逆上したのは言うまでもないことであるが、それ以来秀次は別人のように酒をあおり、何かに怯えるようになった。 そして女あさりが始まったようである。 関白となった秀頼の関心を得ようと各地の豪族や公家が自分の娘を差し出そうとしていたが、一の台局を除いて25人いた。 秀頼はその女達に閨の伽を申し付けたのである。 閨には一の台局も一緒に寝かせ、彼女の目の前で女を抱いた。 苦労知らずで18歳にして近江八幡城主となり、秀吉の栄達とともに関白の座につき、聚楽第の主となった秀頼の弱さがでている。  その後まもなく秀頼は高野山の青厳寺で謹慎の末、自害させられている。 また石田三成の処刑奉行により、秀次の側室や子供三十数名も三条河原にて打ち首になった。 考えてみれば、秀吉の恨みをかったのは秀次と一の台局だけであり、他の者は巻き添えを食ったに過ぎない。 一の台局の父・晴季は娘と孫・実耶姫の助命を秀吉に嘆願したが、聞き入れられず、晴季は右大臣の官位を奪われ、越前に流罪となっている。 秀次が亡くなった後の秀吉は、自分を見失うかのように秀頼を寵愛し、体調を崩していった。 いよいよ家康が長年の我慢の成果がでてきた。 明智光秀征伐を秀吉に許したばかりに、天下取りの先を越された家康は、この日を待っていた。 秀吉が62歳で亡くなると、尾張出身の加藤清正、福島正則を推す北政所と、近江出身の石田三成、長束正家を推す淀殿との対立は周知のこととなるが、家康は尾張勢に接近することとなる。 北政所の淀殿も家康が次の担い手であることは認めていたが、淀殿は三成によって家康を阻み、秀頼の安泰を図り、北政所は家康に飛び込むことにより豊臣家の永続を考えていた。   淀殿は石田三成の忠誠に心強く思うが、家康の勢力に勝てるはずもなかったが、前田利家の秀頼に対する忠義により、豊臣家と家康はかろうじて均衡を保っていた。 ところが前田利家の病死により一気に展開が変わるのである。

 というわけで、秀吉の暴走を止めていたのは秀長であったという確証はないが、その変わり様から一理あったと考えることはできる。

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下克上の先駆者・宇喜多直家

2012年07月07日 | 戦国時代

 岡山城、それは南北朝時代(1346年 ~1369年)に、名和氏の一族上神高直が石山台に城を築いたのが最初と「備前軍記」に書かれ、その後戦国時代まで城主は明らかではない。 戦国時代(1521年 - 1528年)には、金光氏支配し、1570年宇喜多直家が金光宗高に代わってこの地を支配した。 宇喜多直家は備前守護代・浦上氏の一族浦上宗景の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸張し、1573年居城である亀山城(沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行った。 この頃の石山城(岡山城)には、北方の山裾にあった西国街道が、城下に導かれ、備前福岡、西大寺などから商人を呼び寄せ、流通主導による経済振興政策がとられた。 信長が安土城を築城する3年前のことである。 天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行いやがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置いた。この下克上の連鎖は宇喜多直家が1559年に舅の中山信正と島村観阿弥を謀殺したことに始まる。この二人は浦上宗景の重臣であったが、直家は酒に酔った信正を殺した上、援護に駆けつけた観阿弥も討ち取った。そして隣国備中で勢力を伸ばしていた三村家親も謀殺、その子元親をも1567年に破った。この時点では直家はまだ浦上宗景の家臣であったが、1569年に宗景に対して反旗を翻した。こうして備前・備中を支配すると美作まで勢力を伸ばすために城を岡山に移し、毛利輝元と同盟を結んでいる。これにより毛利輝元の助けを借りて三村元親を討ち、主君の浦上宗景をも打倒した。つまり下克上の裏側には主君と対立する立場の相手と同盟を結んで見方につけるというような戦略眼があるのである。

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関ヶ原合戦の謎と宇喜田秀家

2012年06月28日 | 戦国時代

 関ヶ原の合戦の謎といえば、裏工作である。合戦が始まっても徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍がいきなり激突したわけではなく、多くの大名はどちらにつくか日和見していたという。結果石田三成側の西軍が敗退して多くが斬首されたが副大将・宇喜田秀家とともに豊臣二大老と呼ばれた大将・毛利輝元は領土を周防長門の二カ国に減らされたものの大名のまま生き残った。毛利輝元は安国寺恵瓊1539-1600(毛利氏で武家の対外交渉の任を務めた外交僧)の誘いで西軍として家康に敵したが、裏では吉川広家1561-1625(毛利氏の家老)を通じて徳川と交渉していたというが真実は不明である。 ところが毛利家秘録の故実聞書おいう古文書がみつかったという。堅田元慶1568-1622とは 毛利輝元の寵臣で、万事をとりはからって、諸大名と輝元との書状は堅田元慶を通していたという人物である。聞書によると、関ヶ原の時、石田三成は「輝元公を大坂へ御上り候様おすすめ」大阪城西の丸に迎える相談を安国寺恵瓊とした。 中略・・・。 つまり 毛利輝元を西軍にひきずりこんだのは堅田で、戦後家康は毛利の減封と堅田の切腹を命じたが、輝元は助命交渉をし、安芸を失ったという。そこで堅田一族は敗戦を挽回する責任を感じていた。堅田元慶の息子・就政は軍学を学んで戦に備え、幕府追討を狙っていたという。かくして明治維新のときには長州藩と薩摩藩による倒幕が実現したことは周知のことである。

 関ヶ原戦では西軍副大将をつとめた宇喜多秀家は、1万7千の兵を配して中山道をおさえた。午前8時頃、東軍福島勢の猛攻から戦いは始まり、秀家の前衛明石全登の隊との激突となるが敗走。宮本武蔵が奮戦したのも同じ辺りといわれている。秀家は敗走中、池田郡白樫村の矢野五右衛門に助けられ、その後八丈島へ流され、83才まで生き延びる。宇喜多秀家1572-1655は備前の大名・宇喜多直家1529-1582の嫡子として生まれた。 直家は戦国大名の中でも権謀術数の達人で、始めは毛利家に味方をしていたが織田信長の勢力が強まるに連れて織田家に乗り換えることとした。 当時の織田軍中国方面司令官は羽柴秀吉である。 秀吉とともに 毛利戦を演じていたが病に倒れ宇喜田家の行く末を秀吉に託したのである。 当時10歳の嫡男・秀家に、織田信長は難色を示したが秀吉が後見をするという条件で信長を説得する。 秀家の母は備前一の美女といわれた女性で円融院1549-といい、一時は秀吉の側室であったという説もあるが定かではない。 秀吉には秀次、秀秋などの養子が何人かいたが、優秀なのは秀家のみであったということもあって秀家を特にかわいがったという。 秀吉には養女もたくさんいて、そのうち最もかわいがっていた前田利家4女・豪姫を秀家の妻としている。 秀吉の晩年には、秀家を五大老の一人に抜擢するほど頼りにしていた。 残りの五大老は徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝といったそうそうたるメンバーである。 秀吉の死後1600年に起こった関ヶ原の戦いでは、宇喜田秀家は石田三成側の西軍についた。西軍の中核である宇喜田秀家勢の奮闘により始めは西軍の優勢状態が続いた。 とこるが、多くの武将が日和見状況の中、西軍から東軍に寝返った小早川秀秋の軍勢が宇喜田秀家勢に襲い掛かったのである。 これをみた日和見勢も西軍に襲い掛かったことから、この合戦は一気に勝敗がきまった。 宇喜田秀家は小早川秀秋に対して激怒し、単騎敵陣に突っ込もうとしたが家来に制止されて落ちたという。 小早川秀秋は秀吉の甥であり、一時秀吉の養子になっていた男である。 養子でもない自分が秀頼のために家康を討つべく戦っているのに、秀秋が裏切るとは何事だ!という怒りである。 関ヶ原の戦いに敗れた宇喜田秀家は領国、岡山城は取り上げられ大名としての宇喜田家は滅び、 新しく岡山城の城主となったのは皮肉にも小早川秀秋であった。 宇喜田秀家は薩摩の島津家を頼って潜伏していたが、徳川の天下が確立すると、秀家を匿いきれなくなり、島津の当主・家久は秀家夫人・豪姫の実家である前田家の当主・利長と相談して自訴助命嘆願をすることとなった。 これにより秀家は息子とともに八丈島に流罪となり、最愛の夫人・豪姫とは二度と再会することなく在島50年の永木に渡る生涯を終えた。 

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藤堂高虎が設計した城

2012年04月13日 | 戦国時代

 城といえば山城の時代、敵からの侵略に備えた今までの城の形式を一変させた野面積み宇和島城を築いたのが藤堂高虎である。その城壁の高さ13mで世間を圧倒することでその才能を開花させた。 愛媛にある宇和島城、それ自体は高さ73mの城山に築かれた平山城であるが、外郭平面形態は不等辺五角形で あり、これを「空角の経始(あきかくのなわ)」と称して、一大特徴をなした。見かけは四角形であるから敵はその四面から攻撃してくるのであるが、実は五角形。残る一辺から繰り出す兵の奇襲により敵兵を攻撃する形式となっている。また、今治城は、徳川家康が豊臣系の大名を監視する目的で藤堂高虎が築城した。広い水堀は幅60m、また海水を利用することで城から船出が可能なように工夫したという。現在でもその一部は今治港となっており、石垣は高く、入口の虎口 高麗門 鉄門は城の防御が張り巡らされていた。また石垣の上には土塀というのが普通であるが、今治城では多聞櫓といって石垣上の櫓をめぐらせて適を待ち受けた。塀ではなく櫓なので、雨でも鉄砲が有効であり石落としなどで敵を殲滅するのである。本丸の周囲にめぐらせたから、これを打ち破るには大砲しかなかった。

 藤堂高虎は関が原合戦のとき45歳、その功によって家康より20万石を拝領した。そしてこの頃複雑な迷路で有名な姫路城を手がけている。また大阪城再建、江戸城改修なども手がけた。これらにより藤堂家家臣の勢力は大きくなり、やがて大坂冬の陣が始まると、徳川は難攻不落の大阪城との直接対決を避けて和睦するが、堀の埋め立てを行うことで、豊臣側の防衛力を奪った。 このとき藤堂高虎重臣は埋め立ては卑怯として協力を拒否した。 藤堂高虎は重臣に対して切腹命令を出すが、豊臣側の策略に高虎は巻き込まれて失態を犯した。 外様大名という微妙な立場であった藤堂高虎は、徳川の命に従順の証を示すとして 夏の陣では先鋒、伊達政宗と合流して 1万を超える適部隊 との戦いという不利な戦いで忠誠心を示すこととなる。 これにより多くの家臣は命を落とすこととなったが 敵は撤退。6人の重臣を失った藤堂高虎であったが 本陣を護ったことで評価を得て10万石の加増となっている。そして幕末まで藤堂藩は安泰の道をたどり、秀忠は大阪城の再建を高虎にゆだねた。これが二つ目の大阪城である。 伊賀上野城 津城 伊賀伊勢の発展に尽くし、日光東照宮の設計、寛永寺の建立など、最後まで秀忠の側近として、 家光の相談役として徳川家を支え、1630年75歳にして死去した。

藤堂高虎が設計した城 宇和島城だけはまだ行っていない

大阪城

伊賀上野城

高松城

丹波篠山城

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土佐の小京都・中村御所

2012年04月04日 | 戦国時代

 四国の土佐から40kmほど東に海岸沿いをひたはしると、安芸という地方がある。 幕末に岩崎弥太郎が産声をあげたところである。 その昔の鎌倉時代1309年に安芸親氏がこの地・安芸に城を構え、一帯を支配していた。  安芸氏は土佐東部の安芸郡を支配し、戦国時代には勢力を伸ばしていったのである。 安芸国虎の戦国末期の時代になると、隣接する長宗我部元親と対立し、元親の居城である岡豊城をしばしば攻撃した。  1569年、安芸国虎は妻の兄である土佐国西部を支配する一条兼定 (土佐一条家の最後の当主 藤原北家で摂関家の九条家からででた家柄で、応仁の乱後、家領回復の為に一条教房が土佐の幡多本庄中村へ下向し土着し、単なる公家ではなく戦う公家として、「戦国公家大名」とも言える存在になった。) と結び、八流の戦い(長宗我部氏討伐の合戦)を起こしたが、総崩れとなり安芸城を攻められる。 一条氏と同盟を結んで長宗我部氏を挟み撃ちにしようとしたのであるが、情勢は苦しく 安芸城での籠城では食糧も尽き、長宗我部側に内通した横山民部(安芸家譜代の家臣)が井戸に毒を入れ、倒れるものが続出したことから、国虎は一子・千寿丸を阿波へ落とし、夫人を実家の一条氏に送りかえしたのち、自害を条件に元親に残存する兵士と領民の助命を願い出ると、国虎は自決し安芸城は落城し、長らく土佐に君臨した安芸氏は滅亡したのである。

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徳川家康の調略

2012年03月23日 | 戦国時代

 調略に長けた人物といえば羽柴秀吉である。従ってその能力に一目置いていたのが徳川家康そのひとである。秀吉が信長を見習ったように家康は秀吉を見習った。かくして秀吉亡き後、家康は秀吉側の家臣を調略して豊臣家を滅亡に追いやったのである。しかしこれは少し言い過ぎの感があり、実は徳川家康の本音は豊臣家の滅亡ではなく、共存であったのだが、淀殿がそれを許さなかった。というより家康を信用することができなかったといえる。 調略とは人をだますということではなく、人を信用することであることが歴史を見るとよくわかる。それをわかりやすく解説したのが下の記事である。2012/3/21読売新聞より

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秀頼無念の金箔瓦

2012年03月20日 | 戦国時代

 豊臣秀吉が亡くなったのは1598年、子に恵まれなかった秀吉にとって、己の死は豊臣滅亡を意味する。かくして1600年関が原の戦いが起こり、秀吉のNo.2石田光成と徳川家康が天下分け目の戦いを繰り広げた。しかしこのとき既に豊臣側に付くべき大名は風見鶏のごとく静観していたと言って良い。覇権をかけた戦いは徳川家康の勝利となった。1615年の大坂夏の陣で豊臣家は滅びたのであるが、それは時間の問題であって既に勝敗は決まっていた。 石清水八幡宮で金箔瓦が発見されたというが、これは秀頼が1606年に回廊を改修したときのものらしく、権勢を示す狙いがあったと見られる。 しかし実際には豊臣側に権勢はまったく無かったことから、秀頼の捲土重来を期す意図が読み取れるという。 石清水八幡宮は、延暦寺と対峙して京都の裏鬼門を守護する神社であり、源氏をはじめ、足利氏・徳川氏・今川氏、武田氏など、多くの清和源氏が氏神として信仰したことから武神・弓矢の神・必勝の神として古くから崇敬された。金箔瓦がここ石清水八幡宮から見つかったところに、淀殿と秀頼の無念が偲ばれる。

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真田幸村終焉の地

2012年02月26日 | 戦国時代

 大阪城の南約3.5キロ、一心寺の北側に隣接して安居神社がある。ここは「真田幸村終焉の地」なのである。 以下は朝日新聞の記事より抜粋。

 1615年5月7日、大坂夏の陣。すでに豊臣方の敗色は濃厚のなか、安居神社の南の茶臼山に陣取った幸村は、さらに南の徳川家康本陣を激しい突撃で混乱に陥れ、あと一歩まで追いつめる。だが、家康方の増援に阻まれ、ついには退却を余儀なくされる。そして安居神社で腰を下ろして休息しているところを、徳川方の越前兵、西尾仁左衛門に討ち取られた。後の越前藩の「首帳」で確認できる。しかし、今日の幸村の人気は何と言ってもその後の講談や軍記物語による。講談「難波戦記」では、幸村も主君の豊臣秀頼も夏の陣で死なずに薩摩に逃げ延びるし、大坂で口伝えされた別の講談にいたっては家康が倒されてしまう。明治から大正には、忍者猿飛佐助や霧隠才蔵ら「真田十勇士」が活躍する立川文庫が大ヒットする。「講談の世界での人気は3本の指に入る主人公です」というのは講談師の旭堂南海さん。計略を駆使する冷静な軍師として語られるから、主役だがあまり張り扇をパンパンたたかない。負けるのが分かって豊臣方について忠義を尽くしたところが、大阪人の判官びいきの心をくすぐる。「弱かった時の阪神タイガースが好きなのと一緒」と南海さん。同じ豊臣方の石田三成が人望のない陰謀家で、その人望のなさが敗因として語られるのとは対照的だ。 幸村人気は江戸を首都にした家康のアンチテーゼでもある。南海さんの師匠、故・3代目旭堂南陵さんは、大阪の衰退も阪神が弱いのも全部家康のせいにしてしまう「家康をののしる会」を開いて評判になった。 大阪城で月1度ごみ拾いをしているNPO法人大阪城甲冑隊は、鎧から兜まで赤で統一した幸村の「赤備え」を身につける。03年から大阪城天守閣で開かれるボール紙で甲冑を作る教室の修了者が、「多くの戦死者の上にごみが落ちているのが許せない」と始めた。甲冑隊の理事長を務める河井計実(かずみ)さん(47)は、衣装を赤備えにした理由を、「幸村は自分ができることをきちんと貫いた人。みんなが共感できる。大阪城と言えば真田と自然に決まった」と話す。 安居神社は毎年5月、幸村の慰霊をしている。近年の戦国武将ブームで参拝者が増えたこともあり、今冬には幸村の銅像を建てる。兜を脱ぎ、刀を置いて座る最期の姿。覚悟を決め、家族や豊臣家に思いをはせているという。

 大阪人は太閤さん好きと言われますが、それに劣らず人気があるのが豊臣方の武将、真田幸村です。大阪では徳川家康は、秀吉が築いた天下をかすめ取り、武士を頂点とする身分社会を作った悪玉として嫌われ者。幸村はその家康を苦しめました。大坂夏の陣の前に、故郷・信州にいた姉の夫に出した幸村最後の手紙を、大阪城天守閣で展示したことがあります。武張ったところがなく、小さい頃から修練を積んだ達筆で、落ち着いた知性が感じられた。「定めなき浮世なので一日先のこともわかりません。私などはこの世にあるとはお思いなされますな」という内容が書かれ、死を覚悟していることが分かります。それでも豊臣に忠義を尽くした。そこが共感を呼びます。冬の陣では優れた作戦で徳川方を悩ませ、夏の陣では最後まであきらめず可能性に賭けて家康の首を狙い、敵に「日本一の兵(つわもの)」とたたえられた。ただ滅びるのではなく、一矢を報い、豊臣という一時代の終わりに花を添えました。最期の地、安居神社はそのすごさを感じさせてくれます。

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高僧・契沖円珠庵は真田幸村出丸城跡

2012年02月25日 | 戦国時代

 大阪天王寺区空清あたりは大坂冬の陣の時、真田幸村が真田丸を築いて徳川方の大軍に応戦したところである。この地にあった榎の霊木に真田幸村は鎌を打ちつけ、鎌八幡大菩薩と称して祈念したところ、大いに戦勝をあげることができたという。江戸時代初期には、この鎌八幡の境内に、国文学者として高名な高僧・契沖阿者梨が居を定め、円珠庵と称した。契沖はここで万葉代匠記など国文学の研究に専念するとともに鎌八幡を信仰した。契沖は、1640年尼ケ崎にうまれ、13歳で剃髪して高野山に上ると10年間仏教を学び、23歳で大阪生玉の曼陀羅院の住職となったが、まもなく曼陀羅院を去り諸国修行の旅に出た。30歳の頃和泉の国で仏典や漢籍に親しみ、その後南池田村万町に養寿庵を建てて和漢書の研究をする。39歳で養寿庵を去ると摂津に移住するが、翌年今里の妙法寺に帰って住職となる。この妙法寺時代に、徳川光圀の知遇を得て『万葉代匠記』を書きあげたという。51歳の頃妙法寺を弟子の如海に譲り、自分は大阪高津の円珠庵に退いた。

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