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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

真田幸村が掘った抜穴と毛馬の川止め

2012年02月23日 | 戦国時代

 三光神社境内にある抜穴は真田幸村が大坂冬の陣の際に掘ったものだという。真田丸と呼ばれる出丸をこのあたりに築いた真田幸村が、南惣構堀を隔てた大坂城内へ通じる抜穴を掘らせたという。現在の抜穴入口は真田の文様がはいった鉄の扉で閉ざされ、中に入れないが、中をのぞいてみると途中で行き止まりになっているようであるが、正確なところは良く分かっていないらしい。この境内は真田丸の中心(円珠庵あたり 追って紹介します)から数百m離れた地点にあたり、実際には冬の陣の折に籠城を決め込んだ大坂方に業を煮やした徳川家康が掘らせたものとする説もある。豊臣秀吉が築いた天下の名城「大坂城」に対して正面きっては手も足も出せなかった徳川家康は籠城戦が長引くにしたがって、毛馬の川止め(淀川の水量を減らし、東横堀川を干上がらせるためのもの)を目的としたようだ。ところで、大阪城で自刃した豊臣秀頼は真田幸村によりこの抜穴から薩摩に逃げ延びたという話がある。しかし真田幸村は徳川方の武将の松平忠直の直配下である西尾宗次に討たれたと細かく記録が残っている。また、薩摩藩主・島津忠恒(後の家久)が国許に書き送った手紙に、「五月七日に家康の陣に真田幸村が攻めかかり、本陣を守る徳川勢を追い散らし討ち取った。しかし三度目の攻撃で真田も討死した。真田は日本一の武将で、昔からの言い伝えや物語にも比べる者のいない名将だ」とあり、島津家相伝の文書を記録した「旧記雑録」に採録されているという。

真田幸村の抜穴跡 と 抜穴内部

 

ここは毛馬の川止め付近 淀川の水量を減らして徳川家康は真田幸村との籠城戦に備えた

そこで味岡宏佳さんを撮影したことを思い出し何枚か掲載

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真田幸村が築いた出城「真田丸」の跡地・三光神社

2012年02月20日 | 戦国時代

 昨日は撮影のための大阪ではなく、真田幸村ゆかりの地を求めて大阪城の南部をめぐってみた。最初に行ったのはは真田幸村が築いた出城「真田丸」の跡地で、現在三光神社として地元の人々が訪れている。このあたりは玉造といわれるところで、大阪城の南、真田山町のすぐ北にあたる。 神社境内には立派な真田幸村の雄姿がみられる。

 真田氏は信濃国佐久郡の豪族・海野氏の一族で武田信玄の父・信虎とは敵対していた。 武田信虎は諏訪頼重に娘を娶らせて姻戚関係をつくり佐久へ侵入し、海野氏、真田氏を没落させた。 真田幸隆は城を失って上野国の上杉憲政の下に亡命していたが、武田家が信玄の時代となると、山本勘助の進言により調略に長けた真田幸隆は武田陣営に引き入れられた。 信玄は幸隆に佐久郡の領地を与え村上義清攻略を狙っていた。 信玄が義清と戦った上田原の合戦で板垣、甘利を失い、その後砥石城攻めにも失敗し重臣横田高松を失い 大敗を喫したことで幸隆に出番が廻ってきたのである。 若かりし信玄の二度に渡る汚名を返上したのが真田幸隆なのである。  幸隆は砥石崩れの翌年に砥石城を奪取した。 武田本軍が一ヶ月包囲しても落ちなかった城が幸隆の手によってあっさりと落ちたのである。  幸隆は砥石城を義清から預かっていた大須賀久兵衛を篭絡して自ら開城させ、調略に成功した。 まさに信玄が軍旗に掲げた孫氏の軍略により、 村上義清の本城・葛尾城に次ぐ一大拠点を落としたのである。 武田家には金山採掘による裕福な資金力があったのに対して、村上家には何ら資金面での援助はなかったようで、真田幸隆はそこをついた。 これ以降村上義清は徐々に追い詰められていくが、信玄は家臣から謀略を学び、名将への道を進むこととなる。

 また、幸隆の息子も信玄の側近として仕えることになる。 真田信綱、昌輝、昌幸である。長男の信綱は第4回川中島合戦にて妻女山奇襲隊に加わり、1569年北条氏康と戦った三増峠の戦いでは殿軍をつとめている。 奇襲隊にしても殿軍にしても並みの武将ではつとまらない大役である。 次男の昌輝は若手エリート集団の百足衆に抜擢された。 百足衆とは矢弾が飛び交う中を大将の重要な指令を味方の陣営に伝える伝令集団 で、昌輝は信玄の両眼として評価されている。 このふたりの死は長篠の戦でやってきたために、真田家は三男昌幸により継がれる。 昌幸は武田家の有力家臣・武藤家の養子となり武藤喜兵衛とよばれていたが、長篠の戦で兄を失ったために真田の姓に戻り、武田勝頼に仕えた。 勝頼が天目山にて滅ぶと、昌幸は織田家関東総督である滝川一益とよしみを通じる。 信長が本能寺の変で死に、滝川一益が北条氏政の大軍に敗北すると上杉景勝についた。 徳川家康は昌幸と北条家を和合させようとしたが北条家に有利な条件であったために、昌幸は上杉についたのである。 面目を失った家康は北条家と同盟を結び、真田昌幸の本城・信州上田城に攻めてきたとき、昌幸はわずかな手勢で徳川軍を撃退したから、一気に昌幸の武勇は上がった。 後に、秀吉の命により昌幸と家康は和合し、 昌幸の長男・信幸は、家康の重臣本多忠勝の娘を娶っている。 また、次男信繁は秀吉の腹心大谷吉継の娘を妻とした。  関が原の戦いでは家康嫌いの昌幸、信幸は石田三成の西軍に味方し、信繁は家康の東軍に味方した。 昌幸は関が原の合戦に出陣する家康の息子・徳川秀忠の大軍を信州上田城で釘付けにして合戦に参加させなかった男であり、信繁は 名将真田幸村のことである。

 

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年の瀬の高台寺

2012年01月13日 | 戦国時代

 年の瀬の12月に久しぶりに高台寺に行った。紅葉の季節ともなると清水寺、嵐山と並んで大変な人混みになるのであるが、この日は12月23日。駐車場もほとんど空いた状態で静寂さを感じるには絶好の時期であった。高台寺は秀吉・ねねの方だけではなく、幕末の志士ゆかりの地でもあり、近くには八坂の五重塔や一念坂・二寧坂・産寧坂があり、さすがにこの周辺は賑わっていた。坂の名はその字の通り安産を念じたところかたきている。ねねには子は授からなかったが、子の誕生を念じて清水寺に参拝していたことが由来だとされている。

 ”ねね” とはもちろん豊臣秀吉の正妻・北政所のことであるが、高台寺を建立したのはこのねね殿である。 出家後の高台院からその寺名はきている。 実は高台寺のすぐ近くに豊国廟があり、阿弥陀ヶ峰の山頂、約500段にも及ぶ石段を登ったところにある豊臣秀吉の墓である。秀吉亡き後豊臣政権は長続きをせず、大阪夏の陣で遺児・秀頼と淀殿の自害によって豊臣氏は滅亡し、豊国廟も荒廃していったという。 秀吉亡き後の高台院26年間の人生は苦悩に満ちていたものだったらしい。 豊国廟への山道を通い続けて菩提を弔い、出家後高台院と称して後半生をひっそりと過ごした寺が高台寺なのである。 平成10年には秀吉400年を記念して現在のねねの道が整備されて観光地として人気の高い場所となっている。 秀吉が眠る阿弥陀が峰に近い閑静な場所を高台院は探していたが、高台寺のある場所にはもともと別の寺があり、徳川家康が助力をしてその寺を立ち退かせて土地を手に入れるようにはからっている。 高台寺の建設には秀吉子飼の武将である福島正則、加藤清正、浅野長政が推進し、1606年に完成した。家康はねねに大変好意的で、ねねも家康を支持していた。 秀吉子飼の家臣がねねにも仕えていたことから、家康にとってねねは大きな存在であった。 高台寺の建立には秀吉が晩年をすごした壮大な伏見城の建物を移築している。 高台寺の表門には加藤清正が寄進した伏見城の薬医門が使われ方丈にも伏見城の一部が使われている。 ねねが亡くなるまで住まいとした建物は、伏見城で日常的に使っていた化粧御殿と呼ばれる豪華な建物であったという。 

 26歳の百姓の子・秀吉が12歳年下の足軽の娘に恋をして求婚を受け入れられたのは前田利家の助力があったといわれている。 政略結婚があたりまえの時代にあって、秀吉とねねは恋愛結婚であった。 しかし秀吉の死後は大阪城から退却し、大阪城には伏見城から淀殿と秀頼が移り、豊臣家の後継者である秀頼を生んだ淀殿の力は大きくなっていく一方で、正室でありながら自分の地位を明け渡したねねは寺領5百石の大寺に移った。高台寺の方丈には本尊の釈迦如来像が安置され、秀吉とねねの位牌がおかれている。 秀吉は豊国社に祀られていたが、徳川家康が政権をにぎると豊国社に対して破却命令をだして廟墓を別の場所に移すというものであった。 この命令にねねは二条城に駆けつけて家康に直訴したという。 豊国社全体の破却は免れたが、残った建物は朽ち果てることとなる。 静かな余生を過ごしたいと願っていたねねにとっては衝撃的で、苦悩は続く。 こうした苦悩を和らげていた思われる茶室が境内にはある。 傘亭と時雨亭である。 どちらも桃山時代の千利休好みのもので伏見城からそっくりそのまま移築させたらしい。 ねねは大阪夏の陣ではここ時雨亭から大阪を眺めて、大阪城の落城を知り涙ぐんでいたという。 時雨亭・傘亭から石段を降りたところに霊屋というお堂があり、ここはねねが眠る廟所になっている。 内陣の須弥壇の左右に秀吉とねねの坐像が置かれ、その下の棺にねねの遺骸が葬られている。 そして霊屋の内陣は金色の蒔絵で荘厳され、高台寺蒔絵と呼ばれる桃山時代を代表するものである。ねねは、この蒔絵が気に入り自分の廟所と定めた霊屋を蒔絵で飾ったのである。 晩年病気がちであったねねは1624年に眠るように化粧御殿で息をひきとった。現在の高台寺の塔頭である園徳院のあたりにあった化粧御殿は焼失していて存在しない。 園徳院は高台寺前のねねの道に面したところにあり、当時の面影として枯山水の庭だけが残っている。 高台寺は権力や威光を放つのではなく、ひっそりと佇み人の気持ちを和ませてくれる寺なのである。

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太融寺と淀君

2012年01月04日 | 戦国時代

 1599年、淀君は秀頼とともに大坂城西の丸に入って豊臣再興を願うが、1615年大阪夏の陣で大坂城が落城し、秀頼とともに自刃する。その淀君の墓が大阪梅田のすぐ東にある太融寺の境内にある。自刃して果てた淀君の遺骨は淀君が厚く信仰していた大坂城外鴫野弁天島の淀姫神社に埋められたという。1877年、現在の大阪城公園に城東練兵場が造成されることとなり、淀姫神社が移祀されるときに、豊臣家に縁の深い太融寺に遺骨を埋めた。戦前には「キタの花街」から淀君にあやかろうと参拝する姿が後を絶たず、特に、「巳の日」の縁日のときには大いに賑わった。

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秀吉も認めた犬山城主・成瀬正成

2011年11月30日 | 戦国時代

 成瀬正成は成瀬正一の長男で、幼少の頃から徳川家康に小姓として仕えて教育を受けた。正成が一躍世に躍り出たのは、初陣の1584年長久手の戦いである。この戦いで兜首1を挙げて、家康に本陣に留まるよういわれたにも拘らず敵中に入り、さらに1人を討ち取った戦功により、5百石と脇差を賜り、秀吉の攻撃で四散した根来衆50人を付けられる。若干18歳にして、指揮官の任に抜擢されたのは徳川家中において正成ただ一人である。小田原征伐でも功を立て、下総栗原4千石を拝領。豊臣秀吉も配下にと望み、朝鮮出兵の際の徳川家の武者揃いを見て、5万石で招いたが、固辞したという。関ヶ原の戦いでは家康の使番を務める一方で、根来組100人を率いて麾下の先鋒を務めた。戦後、堺政所に任じられ、禄高も2万石、3万4千石と累進し、大名となっている。

 慶長10年(1610)家康が将軍職を秀忠に譲り、大御所政治を始めると、奉行職を解かれて、駿府に招かれ、大御所政治の一翼を担う。同16年(1611)尾張徳川家の付家老・平岩家が無嗣断絶すると、代わって正成が平岩家の遺臣を家臣に取り立て、駿府年寄を兼ねて、尾張徳川家の付家老を務めた。天下普請による名古屋築城工事の指揮にも携わる。大坂の陣では参謀に加えられる一方、幼少の藩主・義直を補佐して尾張藩の軍勢を指揮し尾張家の先鋒を務めた。冬の陣の和議に伴う堀埋め立てでは、本多正純・安藤直次らとともに徳川方の窓口を務めている。家康没後の元和2年(1616)からは年寄を辞して、義直の補佐に専念。元和3年(1617)犬山城を与えられ、1万4千石を次男の之成に分封したが程なく病がちとなり、1620年1万石を加増されて、3万石を領すると1625年死去。秀忠は喪を服して3日の間、江戸での鳴りものを止めさせたという。 

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尼子氏を再興した亀井茲矩

2011年11月19日 | 戦国時代

 亀井茲矩は出雲国八束郡湯之荘に生まれ、尼子氏が毛利元就によって滅ぼされると流浪の身となり京都に潜伏中に尼子氏の残党である山中幸盛と尼子勝久に出会う。 後に幸盛の養女(尼子氏家老・亀井秀綱の娘)を娶り、亀井姓を名乗るようになる。 茲矩は尼子氏再興の動きを見せた頃、新興勢力である織田信長が台頭すると、尼子残党はこれに臣従し、信長の支援を受けることとなる。 尼子残党は織田方(特に羽柴秀吉)の傘下に入り播磨国を転戦するが、1578年に尼子勝久や山中幸盛らが上月城で孤立し、勝久は上月城で自刃、鹿介は降伏後に処刑された。 しかし茲矩は羽柴秀吉の軍と同行していた為難を逃れている。 その後は中国攻略を進める羽柴秀吉の軍に属し、1581年には吉川経家が守る鳥取城攻略で戦功を挙げ、因幡国鹿野城主となり1万3,500石を領した。 中国大返しの際には後詰めとして鹿野城に残留し、毛利氏への牽制・監視役を果たした。 本能寺の変後、秀吉の家臣となり文禄・慶長の役では水軍を率いて朝鮮でも戦っている。 秀吉死後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に与して最前衛で戦う。 関ヶ原後には鳥取城を攻撃するが、堅城であった為、西軍の但馬竹田城主・赤松広秀を寝返らせてようやく落城させた。  

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妙心寺塔頭・大通院と山内一豊

2011年11月08日 | 戦国時代

 花園にある妙心寺境内にある塔頭・大通院は大方丈のすぐ北側にあり、通常は非公開である。 ここは土佐藩山内家の菩提寺となった。美濃の土岐氏の家臣・一柳直末が創建した後、山内一豊の子の湘南宗家が大通院第二世となり中興し山内家の菩提寺となったのである。 院内墓地にある霊屋には、山内一豊とその妻千代の無縫塔と画像が安置されている。山内一豊といえば尾張の国に生まれて織田信長、豊臣秀吉に仕え、信長の金ヶ崎城攻めでは手柄が認められ武将となり、千代を娶る。秀吉没後は、徳川家康に使えて関が原の合戦で評価を得ると土佐国を与えられた。

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海福院と福島正則

2011年11月07日 | 戦国時代

 1615年の大坂城落城後、妙心寺・石川貞清の元を訪れた福島正則は、貞清から妙心寺内の土地の一部を譲り受けて海福院を建立し死者の冥福を祈ったという。 石川貞清は関ヶ原の戦いで西軍に与して戦後は茶人・商人となっていた人物で、その妻は石田三成の娘、大谷吉継の妹、真田幸村の娘であった。 石川貞清?- 1626は、江戸時代前期の武将で犬山城城主、備前守。豊臣秀吉に仕え、小田原の役で功績を挙げると1590年尾張犬山1万2千石を領し、文禄の役の拠点となる肥前国・名護屋城の普請工事も担った。 

1600年関ヶ原の戦いでは西軍につき、犬山城に関一政、竹中重門らと籠城したが、彼らは東軍の井伊直政と内応して引き上げていった。 石川貞清は宇喜多隊の右翼に陣したため敗戦後所領を没収されたが、池田輝政の働きかけにより助命され、京で隠棲して茶人・商人として余生を過ごした。 ここ妙心寺塔頭海福院には福島正則の墓所があり普段は非公開であるが、2011年当初に「賤ヶ岳の戦い」で一番槍として戦功をあげた正則の「槍」や「福島正則画像」、陣中杯や書状などが特別展示されたそうで、次回の一般公開の予定は全く未定のようです。

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関ヶ原-22 桃配山の徳川家康最初の陣跡

2011年10月26日 | 戦国時代

 岐阜県不破郡関ヶ原町にある国道21号線沿いにある標高104mの桃配山は、672年の壬申の乱の時、大海人皇子が野上の行宮からここ不破の地に出陣して名産の桃を全兵士に配り戦いに快勝したという奇縁により、桃配山とか桃賦野と呼ばれるようになった山である。 後の関ヶ原の戦いでは、東軍の総大将・徳川家康がその故事にならってここ桃配山に最初の陣を置き勝利を得た。 家康の配下三万余は、ここ桃配山に陣取り家康はこの山頂において大馬印を高々と掲げ陣頭指揮に当たり、最後の陣地に移るまで各陣営からの報告をもとに作戦会議が開かれたと云われる(『現地案内板』)。 当日は陣跡を巡っているうちに日は沈み、すっかり暗くなってしまったので、桃配山を登るのはあきらめました。

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関ヶ原-21 東軍・池田輝政陣跡

2011年10月22日 | 戦国時代

 1564年、池田恒興の次男として尾張国に生まれ、織田信長に仕え、本能寺の変後は、父兄と共に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕える。  1584年の小牧・長久手の戦いで、父恒興と兄元助が戦死したため家督を相続し、美濃国大垣城13万石、ついで岐阜城13万石を領する。  豊臣時代、輝政は豊臣一族に準じて遇され、従四位下侍従、および豊臣姓を許される。 また、豊臣秀次の失脚時、秀次の妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・若御前(秀次の正室)は特に助命されるなど、特別丁重に扱われている。  1594年、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘・督姫を娶る。 秀吉没後は関ヶ原の戦いでは徳川方に与し、本戦のみならず、前哨戦となった岐阜城攻略にも参加し、福島正則とともに功を挙げた。 戦後、播磨国姫路城52万石に加増され、名を輝政と改めると姫路城を大規模に改修した。 1612年、正四位上参議、および松平姓を許され「播磨宰相」「姫路宰相」などと称された。 二男忠継の備前国岡山城28万石、三男忠雄の淡路国洲本城6万石、弟長吉の因幡国鳥取城6万石を合せ、一族で計92万石もの大領を有して、世に「西国将軍」等と称された。徳川家との縁組は家格を大いに引き上げ、明治維新に至るまで池田家が繁栄する基盤となった。

土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃  ┣-   督姫1565-1615(家康次女)
 ┃┃┏━娘   ┣池田忠雄1602-1632(鳥取藩祖)
 ┃┃┃    ┃┣池田光仲1630-1693(初代鳥取藩主)
 ┃┃┃    ┃三保姫┣池田綱清1648-1711(2代)
 ┃┃┃    ┃茶々姫(徳川頼宣娘)┃┣池田吉泰1687-1739(3代)
 ┃┃┃    ┃        式姫┃┃  ┣池田宗泰1717-1747(4代)
 ┃┃┃    ┃      菊子(側室)敬姫 中村氏┣池田重寛1746-1783(5代)
 ┃┃┃    ┃        (徳川綱紀娘)  久姫  ┃ ┣池田治道1768-1798(6代)
 ┃┃┃    ┃             (徳川宗直娘) 律姫┃ ┃┣池田斉邦
 ┃┃┃    ┃                  上氏(側室)┃於三保
 ┃┃┃    ┃                    生姫(伊達重村娘)
 ┃┃┃    ┣池田忠継1599-1615 榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
 ┃┃┃    ┣池田輝澄1604-1662   ┗榊原政房1641-1667(姫路藩2代)
 ┃┃┣━池田輝政1565-1613(姫路城主)   ┣榊原政倫1665-1683(姫路藩3代)
 ┃┃┃    ┣池田利隆1584-1616  ┏富幾 ┣榊原政邦1675-1726
 ┃┃┃中川清秀娘・糸姫┣池田光政1609-1682 鍋島娘┗榊原政祐1705-1732(養子)
 ┃┃┃        ┃┣池田政言1645-1700    ┗榊原政岑1713-1743(養子)   
 ┃┃┃        ┃┣池田綱政1638-1714(岡山藩主 後楽園を造営)   
 ┃┃┃        ┃┃┣池田吉政1678-1695    
 ┃┃┃        ┃┃千子(丹羽光重娘)    
 ┃┃┃        ┃┣奈阿姫   
 ┃┃┃        ┃勝姫(本多忠刻娘)   
 ┃┃┃        ┣池田恒元1611-1671   
 ┃┃┃     柳原康政娘・鶴姫(徳川秀忠養女)
 ┃┃┣━池田長吉1570-1614
 ┃┃┃  ┣池田長幸1587-1632(備中松山初代城主)
 ┃┃┃ 伊木忠次娘  ┣長常,長信
 ┃┃┃      松子,宮子(森忠政娘)
 ┃┃┣━池田元助1559
 ┃┃┃ 片桐半右衛門娘
 ┃┃┃  ┣-
 ┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
 ┃┃┃  ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
 ┃┃┃加藤嘉明娘┣長重 
 ┃┃┃     ┣長久1645-1697
 ┃┃┃     妾 ┣長喬1676-1723
 ┃┃┃      香昌院 ┣長處1696-1754
 ┃┃┃         峯松院 ┣長仍1725-1796
 ┃┃┃             妾 ┗長玄1741-1814
 ┃┃┃                 ┗-
 ┃┃┃
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┃┗森忠政1570-1634
 ┗━━━━━━┓              ↓
        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
        ┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)   
        ┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)  
        ┃ ┃┃富田氏      ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
        ┃ ┃久保三右衛門娘  津川氏   
        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前) 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636 
   1510-1551 ┃  ┣登久姫                 毛利輝元娘
        ┃  ┃  ┣熊姫┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
       ┃  ┃徳川信康┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
       ┃  ┃    ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
      ┗織田信長 1534-1582

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関ヶ原-20 大谷吉継娘は真田幸村の妻

2011年10月21日 | 戦国時代

 豊臣の天下に危機を感じた石田三成は反徳川家康派大名を集めて家康に挑んだのが関が原の合戦である。 このとき石田三成から協力要請のあった大谷吉継は勝てるはずがないと断った。 その理由の真意はこうである。 光成の人に対する態度は横柄であると誰もが言っている。 それにひきかえ徳川家康は大大名でありながら末端のものまで丁寧に声をかけことのほか評判がいい。 大事をなすには下のものから慕われるということが大切なのに、三成にはそれがないというのである。 大谷吉継は、戦国史上最も著名な武将の一人である真田幸村と深い関係にある。 

 真田氏は信濃国佐久郡の豪族・海野氏の一族で武田信玄の父・信虎とは敵対していた。 武田信虎は諏訪頼重に娘を娶らせて姻戚関係をつくり佐久へ侵入し、海野氏、真田氏を没落させた。 真田幸隆は城を失って上野国の上杉憲政の下に亡命していたが、武田家が信玄の時代となると、山本勘助の進言により調略に長けた真田幸隆は武田陣営に引き入れられた。 信玄は幸隆に佐久郡の領地を与え村上義清攻略を狙っていた。 信玄が義清と戦った上田原の合戦で板垣、甘利を失い、その後砥石城攻めにも失敗し重臣横田高松を失い 大敗を喫したことで幸隆に出番が廻ってきたのである。 若かりし信玄の二度に渡る汚名を返上したのが真田幸隆なのである。  幸隆は砥石崩れの翌年に砥石城を奪取した。 武田本軍が一ヶ月包囲しても落ちなかった城が幸隆の手によってあっさりと落ちたのである。  幸隆は砥石城を義清から預かっていた大須賀久兵衛を篭絡して自ら開城させ、調略に成功した。 まさに信玄が軍旗に掲げた孫氏の軍略により、 村上義清の本城・葛尾城に次ぐ一大拠点を落としたのである。 武田家には金山採掘による裕福な資金力があったのに対して、村上家には何ら資金面での援助はなかったようで、真田幸隆はそこをついた。 これ以降村上義清は徐々に追い詰められていくが、信玄は家臣から謀略を学び、名将への道を進むこととなる。 また、幸隆の息子も信玄の側近として仕えることになる。 真田信綱、昌輝、昌幸である。長男の信綱は第4回川中島合戦にて妻女山奇襲隊に加わり、1569年北条氏康と戦った三増峠の戦いでは殿軍をつとめている。 奇襲隊にしても殿軍にしても並みの武将ではつとまらない大役である。 次男の昌輝は若手エリート集団の百足衆に抜擢された。 百足衆とは矢弾が飛び交う中を大将の重要な指令を味方の陣営に伝える伝令集団 で、昌輝は信玄の両眼として評価されている。 このふたりの死は長篠の戦でやってきたために、真田家は三男昌幸により継がれる。 昌幸は武田家の有力家臣・武藤家の養子となり武藤喜兵衛とよばれていたが、長篠の戦で兄を失ったために真田の姓に戻り、武田勝頼に仕えた。 勝頼が天目山にて滅ぶと、昌幸は織田家関東総督である滝川一益とよしみを通じる。 信長が本能寺の変で死に、滝川一益が北条氏政の大軍に敗北すると上杉景勝についた。 徳川家康は昌幸と北条家を和合させようとしたが北条家に有利な条件であったために、昌幸は上杉についたのである。 面目を失った家康は北条家と同盟を結び、真田昌幸の本城・信州上田城に攻めてきたとき、昌幸はわずかな手勢で徳川軍を撃退したから、一気に昌幸の武勇は上がった。 後に、秀吉の命により昌幸と家康は和合し、 昌幸の長男・信幸は、家康の重臣本多忠勝の娘を娶っている。 

 また、次男信繁は秀吉の腹心大谷吉継の娘を妻とした。 関が原の戦いでは家康嫌いの昌幸、信幸は石田三成の西軍に味方し、信繁は家康の東軍に味方した。 昌幸は関が原の合戦に出陣する家康の息子・徳川秀忠の大軍を信州上田城で釘付けにして合戦に参加させなかった男であり、信繁は 名将真田幸村のことである。 ところで、大谷吉継は関ヶ原戦で西軍に加担するときに三好義継に音が通じて不吉であるとして吉隆に改名している。 しかし小早川秀秋、脇坂安治の裏切りによって壊滅し、自刃した。

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関ヶ原-19 西軍を裏切った脇坂安治陣跡

2011年10月20日 | 戦国時代

 脇坂安治は、関が原の戦い当時は洲本城主で、かつて加藤清正・福島正則とともに賎ヶ岳七本槍の一人として名を上げた武将である。初め明智光秀に属したが、すぐに秀吉につき、賤ヶ岳で勇名を馳せると、その後は九州遠征・小田原の陣・朝鮮出兵などにも参陣して領地を加増されている。 脇坂軍は、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保とともに松尾山麓に布陣し、大谷吉継の配下に属していたが、戦が始まっても傍観するのみで、徳川家康とは早々に寝返る約束をし藤堂高虎らと密約を交わしていたといわれ、東軍に通じていた脇坂安治にとっては小早川秀秋の裏切りは願っても無いことで、東軍が優勢に転じる頃合いを見計らい、自ら槍を振るい、大谷吉継隊の側面に先頭をきって躍り込んでいったという。

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関ヶ原-18 藤堂高虎・京極高知 陣跡

2011年10月19日 | 戦国時代

 藤堂高虎は伊予今治藩主で藤堂家宗家初代である。何度も主君を変えた戦国武将として知られ、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城など多くの築城を手がけ、加藤清正と並んで築城技術に長けていたという。 ここは中山道の南、柴井にある 「藤堂高虎・京極高知 陣跡」。藤堂高虎と京極高知の隊は、福島隊に続いて進軍し、松尾山の 小早川秀秋、山中村の 大谷吉継 らに備えるべく、この地に陣を敷きました。午前 8時に始まった戦いも正午を過ぎた頃、東軍へ内応した 小早川秀秋 の隊が、大谷隊に襲い掛かったのを機に、同じく西軍の 脇坂、朽木、小川、赤座 らの隊も同調し、裏切ったために戦局は一変し、西軍は総崩れの様相を呈します。この様子を見るや、藤堂・京極の二隊は戦いの只中に突入し、大谷隊を破ったと云われています。

 京極高知は高知流京極家の祖で、京極高吉の子。兄の京極高次は居城・大津城に篭もって1万人を超える西軍の大軍勢を食い止め、関ヶ原の主戦場へと向かわせなかった。 戦後、その功により若狭一国を与えられて国持大名となり、弟高知と並んで近世大名京極氏の礎を固め、御家の再興を果たした。

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関ヶ原-17 東軍前衛部隊・福島正則

2011年10月18日 | 戦国時代

 1600年7月19日、関ヶ原の前哨戦とも云える西軍による伏見城攻撃が始まった。 城攻めの大将は宇喜多秀家、副大将は小早川秀秋である。 宇喜多秀家は備前の大名・宇喜多直家の子で、豊臣秀吉から「秀」の字が与えられ元服する。 関ヶ原では最後まで勇敢に戦った武将として知られている。 また、小早川秀秋は北の政所の兄・木下家定の五男にあたり、一時秀吉の養子となったが後に毛利家に養子にだした。毛利元就の三男・小早川隆景の小早川家である。 小早川隆景が亡くなった後は秀秋が小早川家を掌握していた。 朝鮮出兵のときに総大将になったこともあったが失敗が続き領地も減らされていたのであるが、秀秋はこれを三成の讒言によるものであると考えていた。 ところが家康は減らされた領地を秀秋の下に返還したために、家康は秀秋にとっては恩人とも云える存在になった。 しかし秀秋は西軍に参加したのは、毛利輝元が西軍の総大将となったからである。 石田三成が小早川秀秋に伏見城の攻撃を依頼したのは、秀秋の態度を明確に確認するためのものであったとも云える。 ところが困ったことに、伏見城には秀秋の兄・木下勝俊が篭城しており北の政所に相談したという。  7月25日、伏見城攻撃を受けた徳川勢は小山に集結して軍議を開いた。 徳川家康は福島正則の攻略も行った。 福島正則は賤ヶ岳七本槍のひとりとして有名な名将であり、その説得には黒田如水の子・長政があたった。おかげで長政は異例ともいえる52万石の大名となっている。 本来秀吉の手中にあり、秀頼を守る立場にあった福島正則、加藤清正が石田三成とは朝鮮出兵以来反りが合わなかったことを巧に利用して調略したと考えられる。 これまでの豊臣秀吉の調略を家康が取り入れた効果が関ヶ原の戦い以前から始まっていたのである。 こうして小山軍議では福島正則は東軍の名乗りを上げた。 そして福島正則とともに先鋒となった武将に池田輝政がいる。 池田輝政は小牧・長久手の戦(秀吉と家康が戦い家康が勝利する)で討死した池田恒興の子であるから、本来家康は輝政にとって父の仇である。 戦後、輝政は秀吉の計らいで家康とも和解したが、そのときに家康の次女・督姫を妻としていために家康側についたのである。  小山軍議が開かれた一週間後の8月1日に伏見城は落城し前哨戦は西軍の勝利となる。 いよいよこれから本戦に突入していくのであるが、その戦場として選ばれたのは関ヶ原であるから、美濃領主の岐阜城が重要となってくるが、このときの岐阜城主は織田信長の孫・三法師、つまり織田秀信である。 秀吉に操られ13万石の領地しか与えられなかった秀信は秀吉に恨みがあるはずで、家康側についてもよさそうであるが、西軍に味方したことで東軍家康の攻撃目標は岐阜城と定まったのである。かくして先鋒福島正則と池田輝政は岐阜城を攻略して織田秀信を出家させた。  秀信は出家すると高野山に登るとすぐに病死した。

 9月15日関ヶ原の本戦は始まろうとしていたが、家康本陣に加勢するはずの三男秀忠軍が到着しない。 実は信州城主真田昌幸が秀忠軍を信州で10日に渡って釘付けにしていたのである。 かつて北条氏と手を組んだ家康が真田家の上州沼田城を奪おうとしたとき真田昌幸はわずかな手勢で徳川軍を撃退したことがあった。 その後秀吉の仲介で徳川、真田は和解し、昌幸の長男・信幸は徳川重臣の本多忠勝の娘を娶っていたので長男は家康側、次男・信繁は石田側を推していたが結局三成を応援したのである。 約三万の軍勢を率いた秀忠軍を待たずして、先鋒・福島正則は宇喜多秀家・小西行長軍に襲い掛かった。 宇喜多秀家ゆうする三成側は終始優勢に戦をすすめており、充分な勝算はあった。 しかし小早川秀秋の裏切りにより1万6千の勢力が徳川に加わり、これが引き金になって裏切る部隊も現れ、西軍は総崩れのかたちとなった。 この戦いで毛利輝元は大阪城に篭り参戦しなかったのであるが、実は合戦の前日、毛利の吉川広家は家臣を東軍におくりこみ、密約を交わしていたのである。 参戦しないかわりに毛利の本領安堵を約束させるというものであり、書面はかわされ戦争不参加は守られた。 ところが合戦が終わり毛利輝元が大阪城を撤退し家康に明け渡すが、毛利輝元の領土は百二十万から三十六万石に減らされ、輝元は隠居させられた。 毛利家は完全に騙されたのである。 こうして徳川家康は政権確立の基礎を固めたのである。

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関ヶ原-16 西首塚

2011年10月17日 | 戦国時代

 関ヶ原合戦の戦死者を弔った二つの塚のうちのひとつで胴塚とも云われ、東海道本線の工事の時にはここに埋葬された白骨の一部が出土したというから、その数は看板に記載のとおり数千に及ぶと思われる。 写真の左右に見えるのは千手観音と馬頭観音を祀った祠で、江戸時代より近所の住民によって供養されているという。

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