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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

エジプト史跡を巡る-10 王家の谷・ラムセス2世の墳墓

2019年10月18日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【エジプト新王国時代BC1570-BC1070】 ラムセス2世の墳墓は地下深くに大規模な構造になっているだけに、毎年訪れる洪水の影響を受けて壁面のレリーフは無くなっている。またラムセス2世は息子達の墓、共同墓地も作り、その中には200以上の部屋があり一番奥には冥界の神・オシリス神がいる。そして正妃・ネファルタリの墓はエジプトで最も美しいとされていて、現在は特別な許可がないと中には入れない。 

 

 

 

ラムセス1世①       -BC1295-1294(KV16 第19王朝の第1代ファラオ ホルエムヘブの忠実な腹心) 
  ┣
セティ1世②      -BC1294-1279(KV17)ヒッタイトを押し戻しヌビアへ遠征 王家の谷に墓建設 
 シトレ ┣ラムセス2世③  -BC1290-1224(KV7)ヌビアに遠征 アブシンベル神殿を造営  
  
  トイ ┣カエムワセト(KV5)神官職 
      ┣
メルエンプタハ④         -BC1212-1202(KV8)60歳を超えての即位 
      ┃  ┃ ┣アメンメセス⑤    -BC1202-1199(KV10) 
      ┃  ┃タカト 
      ┃  ┣セティ2世⑥      -BC1202-1193
      ┃  ┃ ┃ ┣
      ┃  ┃ ┃タウセルト女王⑧    -BC1185(KV14 第19王朝最後)
      ┃  ┃ ┃ ┗セトナクト①    -BC1185-1182(KV14 第20王朝初代) カルナック神殿建設
      ┃  ┃ ┃   ┣ラムセス3世②  -BC1186-1152(KV11)海の民撃退(ジャヒの戦) カルナック神殿造営
      ┃  ┃ ┃メレネーゼ┃  ┃  ┣ラムセス4世③    -BC1151-1145(KV2)父が暗殺され、混乱を収束即位
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┃ ティイ ┣ラムセス5世④ -BC1145-1141(KV9)アメンの神官団の台頭 天然痘で死去
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┃   テントオペト
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┣ラムセス6世⑤       -BC1141-1133(KV9)クーデターで王位簒奪し、王墓も奪う
      ┃  ┃ ┃     ┃ イセト  ┣ラムセス7世⑥   -BC1133-1126(KV1)治世記録無
      ┃  ┃ ┃     ┃   ナブケスベッド
      ┃  ┃ ┃     ┣ラムセス8世⑦          -BC1125-1126(王墓不明 同王朝で最も不明瞭な支配者)
      ┃  ┃ ┃    ティエ  ┗ラムセス9世⑧      -BC1126-1108(KV6)
      ┃  ┃ ┃           ┣ラムセス10世⑨    -BC1108-1098(KV18未完成)
      ┃  ┃ ┃          ??
  ┣ラムセス11世⑩ -BC1098-1070(KV4)第20王朝終焉
      ┃  ┃ ┃             ??
      ┃  ┃ ┣サプタハ⑦  -BC1193-1187(KV47)政治の実権はタウセルトとバイが握る
      ┃  ┃ ┃
      ┃  ┃ ┃
      ┃  ┃ ??
      ┣イシスネフェルト2世
   
  イシスネフェルト1世

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エジプト史跡を巡る-9 アスワンハイダム

2019年10月18日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 アスワンダムは、ナイル川の氾濫防止と灌漑用水の確保のために建設された。エジプトのガマール・アブドゥル・ナセル大統領が、ソ連の支援を受けて国家的事業として計画した。このダムによって出現した、表面積5250 km2の巨大な人工湖は、大統領の名をとってナセル湖としている。

アスワン・ハイ・ダムの完成によって、毎年のように起こっていたナイル川の氾濫はなくなり、合計2.1 GWが発電供給されている。またダムにより出現したナセル湖から供給される水は、不足がちだった農業用水を安定させ、周辺の砂漠の緑化も行われた。さらに、ナセル湖での漁業は活発で、豊富な水産物は重要な食料として活用されている。

アスワンハイダムの建設によって埋没の危機にさらされたフィラエ島のイシス神殿(紀元前4世紀)は4万のパーツに分解されて移設された。イシスはエジプトの豊穣の女神、息子であるホルス神に自愛をそそぐ姿は、聖母マリア信仰の原型になったとも言われている。また、フィラエ島にはローマ皇帝・トラヤヌス帝のキオスクという最も印象的な建物がある。

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エジプト史跡を巡る-8 王家の谷・ラムセス9世(KV6)の墳墓

2019年10月18日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【エジプト新王国時代BC1570-BC1070】 ラムセス9世は、古代エジプト第20王朝の第8代ファラオである。祖父ラムセス3世が没すると、その後を継いだラムセス4世からラムセス8世までのファラオ達は短期間で没し、王権も次第に衰退していった。ラムセス9世の約20年の治世には、衰退傾向に歯止めがかかり若干の安定が得られた。 治世中の建築事業の多くは、カイロから10kmほど離れたヘリオポリスで行われた。ヘリオポリスは古王国時代以来の太陽崇拝の中心地である。しかしアジアにおける領土は既に失われており、かつてエジプトの属国であったシリアやパレスティナは海の民と総称される諸民族の勢力が乱立する地となり、西方のダクラ・オアシスなど、僅かに周辺諸国への影響力を残しているにとどまる。ラムセス9世の治世には、頻繁に王家の谷の王墓群で盗掘が行われていたことが発覚。埋葬されてから20年程しか経っていないラムセス6世の墓もその標的になっていたという。死後、ミイラは王家の谷のKV6に埋葬され、後に他の王たちのミイラと共に「ロイヤル・カシェ」に移された。「ロイヤル・カシェ」というのは「王家」を意味するロイヤルと、フランス語の「隠し場所」を意味するカシェの合成語である。

 ルクソールのナイル川西岸に位置するクルナ村には、考古学者、道案内、穴掘りなどの人々が住んでいた。その中には、夜陰にまぎれて盗掘をするラスール一家がいた。ラスール家の3人の兄弟の一人が、デイル・エル・バハリ近郊の山間部で偶然に岩窟墓を発見していた。そこには副葬品などはなく、石棺や、剥き出しのミイラばかりだった。彼らはミイラに添えられていた護符や石棺などを引っぱり出し、盗品市場に出し続けたのである。やがてミイラに関する遺物が盗品市場に出回っているという知らせに、マリエットの後任として考古局長兼カイロ博物館長に就任したマスペロは、調査を開始し、ラスール一家のしわざであることを突き止めた。その結果、その岩窟墓は第21王朝時代のアメン大神官パネジェム2世のものだとわかり、そこには40体という大量のミイラが集積されているということが判明した。書き込まれたヒエログリフにより、そのミイラが古代エジプトの頂点にあった君主たち、およびその家族のものだということが判明したのである。それを聞いた世界中が興奮に包まれたことは言うまでもない。この岩窟墓が「ロイヤル・カシェ」と名づけられた。

 

ラムセス9世(KV6)の墳墓内

(2019/9/13時点で、スマホによる写真撮影はOK カメラによる撮影も300EP支払えばOK)

在位:紀元前1126年 - 紀元前1108年

墳墓入口

 

イスラム教徒に顔を削り取られている

ラムセス1世①       -BC1295-1294(KV16 第19王朝の第1代ファラオ ホルエムヘブの忠実な腹心) 
  ┣
セティ1世②      -BC1294-1279(KV17)ヒッタイトを押し戻しヌビアへ遠征 王家の谷に墓建設 
 シトレ ┣ラムセス2世③  -BC1290-1224(KV7)ヌビアに遠征 アブシンベル神殿を造営  
  
  トイ ┣カエムワセト(KV5)神官職 
      ┣
メルエンプタハ④         -BC1212-1202(KV8)60歳を超えての即位 
      ┃  ┃ ┣アメンメセス⑤    -BC1202-1199(KV10) 
      ┃  ┃タカト 
      ┃  ┣セティ2世⑥      -BC1202-1193
      ┃  ┃ ┃ ┣
      ┃  ┃ ┃タウセルト女王⑧    -BC1185(KV14 第19王朝最後)
      ┃  ┃ ┃ ┗セトナクト①    -BC1185-1182(KV14 第20王朝初代) カルナック神殿建設
      ┃  ┃ ┃   ┣ラムセス3世②  -BC1186-1152(KV11)海の民撃退(ジャヒの戦) カルナック神殿造営
      ┃  ┃ ┃メレネーゼ┃  ┃  ┣ラムセス4世③    -BC1151-1145(KV2)父が暗殺され、混乱を収束即位
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┃ ティイ ┣ラムセス5世④ -BC1145-1141(KV9)アメンの神官団の台頭 天然痘で死去
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┃   テントオペト
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┣ラムセス6世⑤       -BC1141-1133(KV9)クーデターで王位簒奪し、王墓も奪う
      ┃  ┃ ┃     ┃ イセト  ┣ラムセス7世⑥   -BC1133-1126(KV1)治世記録無
      ┃  ┃ ┃     ┃   ナブケスベッド
      ┃  ┃ ┃     ┣ラムセス8世⑦          -BC1125-1126(王墓不明 同王朝で最も不明瞭な支配者)
      ┃  ┃ ┃    ティエ  ┗ラムセス9世⑧      -BC1126-1108(KV6)
      ┃  ┃ ┃           ┣ラムセス10世⑨    -BC1108-1098(KV18未完成)
      ┃  ┃ ┃          ??
  ┣ラムセス11世⑩ -BC1098-1070(KV4)第20王朝終焉
      ┃  ┃ ┃             ??
      ┃  ┃ ┣サプタハ⑦  -BC1193-1187(KV47)政治の実権はタウセルトとバイが握る
      ┃  ┃ ┃
      ┃  ┃ ┃
      ┃  ┃ ??
      ┣イシスネフェルト2世
   
  イシスネフェルト1世

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エジプト史跡を巡る-7 王家の谷・ラムセス6世(KV9)の墳墓

2019年10月15日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【エジプト新王国時代 BC1570-BC1070】 第20王朝の国力減退を象徴する王・ラメセス6世の時代は、強国エジプトの姿はまったく見られず、政権はまったくの無策に終始し、国力が衰えていくのを止められなくなっていた。そしてラメセス6世の治世中、ヌビア以外の外国領土をすべて失ってしまった。これは政権内部における、血塗られた闘争があったことが理由であるという。ラメセス6世は、「最後の偉大なエジプト人ファラオ」ラメセス3世の息子である。ラメセス3世は存命中につぎつぎと王子たちに先立たれ、王位継承の段にはラメセス4世と5世、少年だったラメセス6世、幼いラメセス8世の4名にすぎなかった。兄ラメセス5世を追放して王位についたラメセス6世はいくつかの建造物および彫像にカルトゥーシュを残したが、彼の関心事はどうにかして兄を追い落として王位につくかということであり、国政の舵取りにはほとんど関与しなかった。

 ラメセス6世を唯一熱中させたのは、壮麗な王墓を王家の谷に造営することだった。彼が残した唯一の「生きた証」はラメセス6世王墓(KV9)である。ラメセス6世王墓は早くから存在が知られ、学術調査も1820年代という早い時代に行われた。この王墓は当初、ラメセス5世のために掘削が開始された。ところがテーベで内戦が始まったため放置された。死せるラメセス5世は弟ラメセス6世の治世2年目に、弟の手によってここに埋葬されたのだという。兄を埋葬したラメセス6世だったが、自分の生命が残りわずかだと察したラメセス6世は、兄が眠る玄室の奥に、自分のための玄室を増築することを命じた。

 ラメセス6世王墓(KV9)は、セティ1世王墓と同じく直線型の構造をもっている。下降通路から前室までは「アム・ドゥアトの書」、そして太陽と天体の運行を図柄化した「昼の書」と「夜の書」の壁画が描かれている。前室から玄室に入ると、今までの王墓には見られない「大地の書」や「洞穴の書」が壁面いっぱいに描かれ、さらにドーム型になった天井には、前室と同じ「昼の書」と「夜の書」がカマボコ型ドームを半分に分ける形で美しく描かれている。「昼の書」とは東の空で生まれ出た太陽が天の河を流れ、最後にヌト女神に飲み込まれるまでを描いた太陽運行の概念図である。一方の「夜の書」は、西の空に沈んだ太陽神が船に乗り、12の門を経て東の空にまた昇るまでを概念的に描いたものである。「昼の書」と「夜の書」はこれまで「アム・ドゥアトの書」や「門の書」、そしてセティ1世王墓に代表される天体運行図などの要素を統合した、いわば「宇宙思想の集大成」ともいえるものである。ヌト女神の体を宇宙に見立てた天体運行図は第20王朝になってから主流化したもので、最後の作品として、ラメセス9世王墓(KV6)にもコンパクト化された同様の図柄が認められる。だがラメセス6世王墓の玄室に残るものがもっとも完成度が高く、かつ損傷が最小限に抑えられた例なのである。

 前室において神々と謁見する王の像には当初ラメセス5世のカルトゥーシュが添えられていたと思われるが、弟はこの墓に自分も入ると決めたとき、兄のカルトゥーシュを自分のものに刻み直してしまった。それで彼は兄の墓を横取りしたのだ、という悪評が後世まで伝わった。その悪評を物語るかのように、玄室に置かれた王の石棺は無惨にも粉々に破壊され、さらにひっくり返されてもいる。1898年に、ラメセス6世のミイラはアメンヘテプ2世王墓(KV35)で発見された。学者たちの懸念通り、それはもはや人間の形をしていなかった。盗掘者たちによって胴体と首、四肢は完全にバラバラにされたようで失われた部分も多く、第21王朝時代、カルナック神殿のアメン神官団による修復は施されていたものの単なるパーツの継ぎ合わせにすぎなかった。解剖の結果、少なくとも3人のミイラが部分的に使われていることが、約2900年後、エリオット・スミスがその包帯を丁寧に取りのぞいたとき、わかったのである。

 

ラムセス6世(KV9)の墳墓内

(2019/9/13時点で、スマホによる写真撮影はOK カメラによる撮影も300EP支払えばOK)

この墳墓はツタンカーメンの墳墓の真上に位置する

 

下降通路から前室まで

「アム・ドゥアトの書」、そして太陽と天体の運行を図柄化した「昼の書」と「夜の書」の壁画が描かれている。「アム・ドゥアトの書」とは、

太陽神が日没に死を迎えてから地下世界を移動し、次の朝に再生した姿で東の地平線に現れるまでの道程を、12の章で記述したものである。

 

ラムセス6世

陶工の神・クヌム

昼の書 : 太陽が東の空で誕生し、天の川を通り、女神ヌトに吸収される世界が描かれている

 

夜の書 : 西の空に沈んだ太陽神が、太陽の船に乗って東へ進み、再び女神ヌトから生まれる世界が描かれている 

  

  

  

前室から玄室に入ると、今までの王墓には見られない「大地の書」や「洞穴の書」が壁面いっぱいに描かれ、

さらにドーム型になった天井には、前室と同じ「昼の書」と「夜の書」がカマボコ型ドームを半分に分ける形で美しく描かれている  

 

ドーム型になった天井には、前室と同じ「昼の書」と「夜の書」

 女神ヌゥト(天空の女神)が空を形成していて昼と夜とが背中合わせで描かれている。夜側はヌゥトの体に星がたくさん描かれ、太陽を飲み込み、アメンラー神が船にのって旅をしている絵が描かれてる。昼側は、ヌゥトの口から太陽が生まれるところが描かれている。

この玄室には盗掘者に破壊された棺は無く、壁面は「大地の書」や「洞穴の書」がいっぱい

 

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エジプト史跡を巡る-6 王家の谷・ツタンカーメンの墳墓

2019年10月15日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【エジプト新王国時代 BC1570-BC1070】

BC1300年以上も前、エジプトの若き王が亡くなり、慌ただしく葬られると

全建造物から彼の名は抹消され、彼の存在は人々から忘れ去られ

以降3000年間、歴史から消えることとなる。その名はツタンカーメン

BC1336  ツタンカーメン即位@10歳頃

     誕生の時の名はツタンカーテン(唯一神 -- アテン)

     後の名はツタンカーメン   (多神教 -- アメン カルナック神殿に祀る)

     アイ    :後見人、貴族

     ホルエムヘプ:軍を率いる大将軍---実質的な支配者

     乳母・マヤの遺跡@サッカラからツタンカーメン即位の壁画

     神官との軋轢回避 -- プタハ神、ラー・ホルアクティー神を加える国家神

 

ツタンカーメンの墳墓内(ラムセス6世の墳墓の下に位置する) 

(2019/9/13時点で、スマホによる写真撮影はOK カメラによる撮影も300EP支払えばOK)

この墳墓KV-62が発見されたのは1922/11/4、発見者はイギリス人のハワード・カーター

発見のきっかけは王の名が彫られた盃

当時はツタンカーメンの存在は知られておらず、カーターは興味をひいたという

 

 

墳墓への階段を塞ぐ第一の壁(左:厚さ1m)と第二の壁(右)

 

発見当時、手前にあった壁を壊して進むと玄室・黄金の間があり、少年王・ツタンカーメンのミイラが眠っていた 身長165cm

ここにはミイラを包む 部屋いっぱいの大きさの金色の巨大な厨子があった

厨子は四重になり、その中には石棺

また石棺の中には金箔で覆われた人型の棺が三重構造になっていた

第二の棺は装飾が施され、第三の棺は全てが黄金

最後の棺の中には黄金のマスクを被ったツタンカーメンのミイラが現れた

黄金のマスクの額には王妃がささげたヤグルマギクの花輪が添えられていたという

 

壁画右は、オシリス神姿のツタンカーメンが後継者の王によって開眼の儀式を受けているというが

オシリス姿のネフェルティティがツタンカーメンを祝っているという説もある

壁画中央は、死者の王オシリスになったツタンカーメンがヌト女神によって死後の世界に迎えられている

壁画左は、ツタンカーメンがあの世でオシリス神に直接加護を受けている

時間の門を守る12頭のヒヒで表された「アム・ドゥアトの書」

イアフメス1世第18王朝①        -BC1546 
   ┣アメンホテプ1世②        -BC1524 カルナック神殿を建設 
ネフェルトイリ ┗トトメス1世③    -BC1518 ヌビア遠征 アメン大神殿の造営継続  
          ┣トトメス2世④   -BC1504 
       ヌトネフェルト ┣トトメス3世⑥         -BC1425 ハトシェプスト補佐 カルナック神殿増築KV34  
             イシス
 ┣アメンホテプ2世⑦   -BC1419 エジプト帝国を維持 KV35 
                ハトシェプスト
┣トトメス4世⑧  -BC1388 アメン神官団の影響力の排除 
                  
 ティアア┣アメンホテプ3世⑨       -BC1349(第9代) メムノンのモデル WV22 
                    
ムテミヤ┣アメンホテプ4世⑩    -BC1333(アクエンアテン)アトン神を崇拝KV55? 
                        ┃ ┃ ┣ツタンカーメン⑫-BC1324 首都をテーベに戻す KV62  
                        ┃ ┃キヤ  ┣--   ┗アイ⑭   -BC1319
                        ┃ ┣アンケセナーメン   ┗ホルエムヘブ⑮(KV57 第18王朝最後)
                        ┃ネフェルティティ       ┗ラムセス1世① -BC1295-1294
                        ┣スメンクカーラー⑪    -BC1334 本拠地メンフィス KV55? 
                       
ティイ

 近年、この黄金のマスクは元々ツタンカーメンの為に作られたものではないという説がでている。黄金のマスクに彫られているカルツーシュ(王名印)にはツタンカーメンを示しているが、削られ修復された跡があり、それを復元すると、その名はネフェルティティだったという。ネフェルティティには男子は生まれず(6人すべて女子)、アクエンアテン王の第二王妃・キヤに男子ツタンカーメンが生まれた。キヤはアクエンアテンの妹であるから、ツタンカーメンの両親は兄弟であった(DNA鑑定済)その直後に第二王妃・キヤは謎の死を遂げる。アクエンアテンと同じ権力を持ったネフェルティティ及び兄アイが次王ツタンカーメンの即位をねたんだ仕業か?この頃アメン神を破壊されたことに怒った神官や民衆が多く、アクエンアテン王権は失墜していった。回復を狙ってネフェルティティは単身テーベへ行くのであるが、その間にアクエンアテンはアケトアテン(アマルナ)にて謎の死を遂げた。次のファラオはネフェルティティなのか、ツタンカーメンなのか、この時、ネフェルティティはヒッタイトの王に、王位継承の権限を持つ王子の迎えようと手紙をだしている。ヒッタイト王はこれに応えるが、王子はエジプトに向かう途中で殺されている。かくしてBC1336年ごろ自らスメンクカーラーと名乗ってファラオの座についた。しかしスメンクカーラー何者かに毒殺される。ヒッタイトに近づいたことがエジプトへの裏切りとされたようである。この時、ツタンカーメンは9歳 BC1333年頃である。その10年後、ツタンカーメンは謎の死を遂げる。かくして謎の死を遂げたアクエンアテン、ネフェルティティ、ツタンカーメンの一族は王名標にも表れず忘れ去られた。そしてホルエムヘブ王により神殿のレリーフは削り取られ歴史から一族は消された。しかしながら、そのおかげで、ツタンカーメンの墓は盗掘に会うことがなかったのである。

 

ホルエムヘブ王

 老王アイの後を受けて即位したホルエムヘブ王(在位前1315年頃~前1295年頃)は、アメンヘテプ3世の時代に頭角を現した元軍人である。権力指向が強く、またみずからの王位を正当化するために先王の記録を徹底的にこの世から抹殺したりといった暗躍ぶりも伝えられており、既得の政治的地位を守るために手段を選ばなかったという。アクエンアテン王による宗教改革が頓挫したとき、彼は身を挺して国家宗教をアテン信仰からアメン信仰に戻すため尽力したり、また首都移転という政治的混乱にも的確に対処して悪影響を最小限に抑えた。さらに王になってからは、従来の官僚体制に鋭く切り込んで、廷臣をはじめ公務員の勤務意識の改革を行ったりなどした。そんなホルエムヘブ王は、50代でツタンカーメン王の総司令官職に補任されていた時期、すでにサッカラに自分の墓を造っていた。サッカラの墓のレリーフには総司令官ホルエムヘブの勇猛な戦闘ぶりや、宮廷人ホルエムヘブの優雅な生活など、賛辞で満ちあふれていたが思いがけず王として即位することになったため、サッカラの墓には眠ることがなかった。この墓は放棄され、彼のふたりの妻が眠ることになり再整備された。

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エジプト史跡を巡る-5 王家の谷・ラムセス4世の墳墓

2019年10月15日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【エジプト新王国時代 BC1570-BC1070】

ここはルクソール ナイル川の西側 死者が住むという王家の谷

80ものファラオが眠る谷である

 

ラムセス4世の墳墓内

(2019/9/13時点で、スマホによる写真撮影はOK カメラによる撮影も300EP支払えばOK)

レリーフは極めて綺麗な状態で残っている

ラムセスとは、太陽神・ラーによって生まれたという意味の「ラー・メス・シス」から来ている

ファラオは神々の子孫であり、エジプト神話に於ける太陽神・ラーの息子とされた

今ではラムセスではなく、ラメセスと呼ぶのが一般化されているらしい

下降通路 壁ぎっしりに描かれたレリーフとヒエログリフ

 

 

 

玄室入口 天井には、「昼の書」と「夜の書」

 女神ヌゥト(天空の女神)が空を形成していて昼と夜とが背中合わせで描かれている。夜側はヌゥトの体に星がたくさん描かれ、太陽を飲み込み、アメンラー神が船にのって旅をしている絵が描かれてる。昼側は、ヌゥトの口から太陽が生まれるところが描かれている。

 

 

玄室中央の石棺は王家の谷最大

 

 

玄室の奥は立ち入り禁止

ラムセス1世①       -BC1295-1294(KV16 第19王朝の第1代ファラオ ホルエムヘブの忠実な腹心) 
  ┣
セティ1世②      -BC1294-1279(KV17)ヒッタイトを押し戻しヌビアへ遠征 王家の谷に墓建設 
 シトレ ┣ラムセス2世③  -BC1290-1224(KV7)ヌビアに遠征 アブシンベル神殿を造営  
  
  トイ ┣カエムワセト(KV5)神官職 
      ┣
メルエンプタハ④         -BC1212-1202(KV8)60歳を超えての即位 
      ┃  ┃ ┣アメンメセス⑤    -BC1202-1199(KV10) 
      ┃  ┃タカト 
      ┃  ┣セティ2世⑥      -BC1202-1193
      ┃  ┃ ┃ ┣
      ┃  ┃ ┃タウセルト女王⑧    -BC1185(KV14 第19王朝最後)
      ┃  ┃ ┃ ┗セトナクト①    -BC1185-1182(KV14 第20王朝初代) カルナック神殿建設
      ┃  ┃ ┃   ┣ラムセス3世②  -BC1186-1152(KV11)海の民撃退(ジャヒの戦) カルナック神殿造営
      ┃  ┃ ┃メレネーゼ┃  ┃  ┣ラムセス4世③    -BC1151-1145(KV2)父が暗殺され、混乱を収束即位
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┃ ティイ ┣ラムセス5世④ -BC1145-1141(KV9)アメンの神官団の台頭 天然痘で死去
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┃   テントオペト
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┣ラムセス6世⑤       -BC1141-1133(KV9)クーデターで王位簒奪し、王墓も奪う
      ┃  ┃ ┃     ┃ イセト  ┣ラムセス7世⑥   -BC1133-1126(KV1)治世記録無
      ┃  ┃ ┃     ┃   ナブケスベッド
      ┃  ┃ ┃     ┣ラムセス8世⑦          -BC1125-1126(王墓不明 同王朝で最も不明瞭な支配者)
      ┃  ┃ ┃    ティエ  ┗ラムセス9世⑧      -BC1126-1108(KV6)
      ┃  ┃ ┃           ┣ラムセス10世⑨    -BC1108-1098(KV18未完成)
      ┃  ┃ ┃          ??
  ┣ラムセス11世⑩ -BC1098-1070(KV4)第20王朝終焉
      ┃  ┃ ┃             ??
      ┃  ┃ ┣サプタハ⑦  -BC1193-1187(KV47)政治の実権はタウセルトとバイが握る
      ┃  ┃ ┃
      ┃  ┃ ┃
      ┃  ┃ ??
      ┣イシスネフェルト2世
   
  イシスネフェルト1世       

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エジプト史跡を巡る-4 王家の谷・ハトシェプスト女王葬祭殿

2019年10月11日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【エジプト新王国時代 BC1570-BC1070】

第5王朝期 --- 王の絶対性は崩れ、国内は乱れた

第6王朝期 --- 中央集権はさらに弱体化し、神殿建設は見られない

第7王朝以降--- 政治経済文化は地方分立の状態になるが、第11王朝期に於いて全国再統一される

        この頃からテーベ(今のルクソール)に新様式の美術が蘇る

第13王朝期 --- 再び内乱状態に陥り、アジアのセム系異民族・ヒクソスに占領される(15,16王朝)

第17王朝期 --- 難を逃れてテーベに蘇った末期の王はヒクソスを国外に追放

第18王朝期 --- 以降イアフメスを祖とする

        首都テーベの繁栄に伴って守護神アメンは国家神に昇格し、太陽神ラーと合体する

        これに伴いアメン神神官らの権力も強大になり、ついに王権をも凌ぐ

        第18王朝期のファラオ・アメンホテプ3世はこの専横を嫌い、テーベ対岸のマルカタに宮殿を築く 

        その子・アメンホテプ4世(アクエンアテン、イクナートン)はアメン神を廃して唯一神アトンへの信仰を国教とする

        イクナートン=イクン・アトン : アトン神を崇拝

       多神教から唯一神に変えることにより、神官の権力を奪う(初の宗教改革)

        住民のお布施は神官にではなくアクエンアテンの元に入る

        アマルナ美術繁栄

        メソポタミアとの外交 : メソポタミアのネフェルティティと結婚

       テーベでは唯一神を布教できないため、テーベ北方のアマルナに遷都

        したが、国威の失墜を招いて不遇の死 @33歳 を遂げる

       残された子8歳が Tut(姿) ankh(生きる) Amun(アモン神)

       ツタンカーメンのことである

 

第20王朝期 --- エジプト史上最も繁栄する

        ルクソールの王家の谷には、この時代のファラオが眠っている

       (第18王朝トトメス1世から第25王朝ラムセス3世迄)

        王墓としての巨大なピラミッドは消え、王家の谷と呼ばれる地下墳墓に密かに葬られた(BC1590年頃~)

        王家の谷はナイル川を挟んでアメン神を祀るカルナック神殿とは反対側にあり、太陽が沈む死者の街(ネクロポリス)

ファラオを埋葬するところと祭礼を行う所を分離し、葬祭殿は極めて巨大で壮麗なものとなる

代表例がハトシェプスト女王葬祭殿

男装したハトシェプスト女王像

この葬祭殿はハトシェプスト女王の統治下で寵臣で建築家のセンエンムトによって建造された

ハトシェプスト女王はトトメス1世の娘で異母兄弟のトトメス2世の妃となる

トトメス2世の死没後は国王は男という伝統を破って即位し権勢を振った(在位BC1503-1482年頃)

紀元前1457年にハトシェプスト女王が死んだすぐ後、ハトシェプスト女王のモニュメントは攻撃され、

彫像は引きずり下ろされて粉砕され、肖像や称号は摩損され、女性の王はエジプトの歴史から消滅した

ほぼ3000年後、現代のエジプト学者が損傷した碑文を再構成して彼女の正当な王朝の場所に復元する 

 

ハトシェプスト女王葬祭殿の南隣にはメンチュヘテプ2世(BC2050頃)葬祭殿がある

 

イアフメス1世第18王朝①        -BC1546 
   ┣アメンホテプ1世②        -BC1524 カルナック神殿を建設 
ネフェルトイリ ┗トトメス1世③    -BC1518 ヌビア遠征 アメン大神殿の造営継続  
          ┣トトメス2世④   -BC1504 
       ヌトネフェルト ┣トトメス3世⑥         -BC1425 ハトシェプスト補佐 カルナック神殿増築KV34  
             イシス
 ┣アメンホテプ2世⑦   -BC1419 エジプト帝国を維持 KV35 
                ハトシェプスト
┣トトメス4世⑧  -BC1388 アメン神官団の影響力の排除 
                  
 ティアア┣アメンホテプ3世⑨       -BC1349(第9代) メムノンのモデル WV22 
                    
ムテミヤ┣アメンホテプ4世⑩    -BC1333(アクエンアテン)アトン神を崇拝KV55? 
                        ┃ ┃ ┣ツタンカーメン⑫-BC1324 首都をテーベに戻す KV62  
                        ┃ ┃キヤ  ┣--   ┗アイ⑭   -BC1319
                        ┃ ┣アンケセナーメン   ┗ホルエムヘブ⑮(KV57 第18王朝最後)
                        ┃ネフェルティティ       ┗ラムセス1世① -BC1295-1294
                        ┣スメンクカーラー⑪    -BC1334 本拠地メンフィス KV55? 
                       
ティイ

 

ラムセス1世①       -BC1295-1294(KV16 第19王朝の第1代ファラオ ホルエムヘブの忠実な腹心) 
  ┣
セティ1世②      -BC1294-1279(KV17)ヒッタイトを押し戻しヌビアへ遠征 王家の谷に墓建設 
 シトレ ┣ラムセス2世③  -BC1290-1224(KV7)ヌビアに遠征 アブシンベル神殿を造営  
  
  トイ ┣カエムワセト(KV5)神官職 
      ┣
メルエンプタハ④         -BC1212-1202(KV8)60歳を超えての即位 
      ┃  ┃ ┣アメンメセス⑤    -BC1202-1199(KV10) 
      ┃  ┃タカト 
      ┃  ┣セティ2世⑥      -BC1202-1193
      ┃  ┃ ┃ ┣
      ┃  ┃ ┃タウセルト女王⑧    -BC1185(KV14 第19王朝最後)
      ┃  ┃ ┃ ┗セトナクト①    -BC1185-1182(KV14 第20王朝初代) カルナック神殿建設
      ┃  ┃ ┃   ┣ラムセス3世②  -BC1186-1152(KV11)海の民撃退(ジャヒの戦) カルナック神殿造営
      ┃  ┃ ┃メレネーゼ┃  ┃  ┣ラムセス4世③    -BC1151-1145(KV2)父が暗殺され、混乱を収束即位
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┃ ティイ ┣ラムセス5世④ -BC1145-1141(KV9)アメンの神官団の台頭 天然痘で死去
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┃   テントオペト
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┣ラムセス6世⑤       -BC1141-1133(KV9)クーデターで王位簒奪し、王墓も奪う
      ┃  ┃ ┃     ┃ イセト  ┣ラムセス7世⑥   -BC1133-1126(KV1)治世記録無
      ┃  ┃ ┃     ┃   ナブケスベッド
      ┃  ┃ ┃     ┣ラムセス8世⑦          -BC1125-1126(王墓不明 同王朝で最も不明瞭な支配者)
      ┃  ┃ ┃    ティエ  ┗ラムセス9世⑧      -BC1126-1108(KV6)
      ┃  ┃ ┃           ┣ラムセス10世⑨    -BC1108-1098(KV18未完成)
      ┃  ┃ ┃          ??
  ┣ラムセス11世⑩ -BC1098-1070(KV4)第20王朝終焉
      ┃  ┃ ┃             ??
      ┃  ┃ ┣サプタハ⑦  -BC1193-1187(KV47)政治の実権はタウセルトとバイが握る
      ┃  ┃ ┃
      ┃  ┃ ┃
      ┃  ┃ ??
      ┣イシスネフェルト2世
   
  イシスネフェルト1世

            

 

 エジプトに於いて女性が重要な意味を持っていたことは、言うまでもない。クレオパトラもそうであるが、ギザの第一ピラミッドを建設したクフ王の母・ヘテプへレスは、夫のスネフェルが亡くなった後王位に就いたクフ王が幼少であったので、その後見人となり実権を握ったという。ハトシェプスト女王も自分の娘婿トトメス3世を差し置いて20年近くもファラオとして君臨した。アクエンアテンに影響を与えたネフェルティティ、ツタンカーメンを支えたアンケセナーメン、ラムセス2世の正妃ネフェルタリなど数多い。第一王子といえども王位継承権を持つ女性と婚姻関係を持たなければファラオになれないという慣習があったのである。対外的にエジプト王妃を代表する女性は一人。この正妃はファラオと同じように上下エジプトの統治者であり、同じ権利を持っていた。この理由には古代エジプト神話に登場するイシス神の見識と実行力が関わっている。古代エジプトの女性はイシス神を理想として人生の模範とした。

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エジプト史跡を巡る-3 エジプトの神々

2019年10月11日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 古代エジプト人を理解するには神々のことを知る必要があるという。中でもオシリスとイシスのこと。大地の神・ゲブと天空の神・ヌトとの間に4人の子供が生まれた。やがて男子オシリスと女子イシスは結婚し、大地を支配し正義と善を守る神となる。オシリス神は人間たちに土地を耕し灌漑することを教えた。また法を守り、ひとりの妻を守ることを教えた。壁画には夫婦のレリーフが多いことからもうかがえる。ところが、女によって道を誤らないように・・・とも教えた。エジプトでは女の地位は高く、男女平等であった。

オシリスとイシスが善政を敷いて大地を支配していた時は人々は平和に暮らしていた。ところがオシリスの弟・セトは兄をねたみオシリスをだまして殺し、ナイル川に流してしまう。オシリスの妻イシスは密かにホルスを産むと、夫オシリスを求めて各地をさまよう。この時彼女を守ったのは犬の頭を持つアヌビス神である。ついにフェニキアで夫の遺体を見つけ、棺を隠すが、月光の元で狩りをしていたセトは棺を見つけると遺体を14にバラバラにして再びナイルにまき散らした。イシスは夫の遺体をすべて見つけると、アヌビス神はこれを縫い付け、麻布で包む。これが最初のミイラである。再び蘇ったオシリスであったが死の刻印を受けていたので冥界の王となり永遠の生命を与えられた。

 イシスの愛情を受けて育ったホルスは、父の仇を討つためにセトに挑み長い激闘の末に討ち果たした。かくしてホルスは生命ある者の神となった。毎年のナイル川の氾濫はイシスの涙であり、エジプトに豊かさと繁栄をもたらした。 

シュー(大気の神、創造神アトゥムの自慰によって誕生) 

  ┣ ゲブ(大地の神) 

  ┃   ┣   オシリス(生産の神) セトに謀殺されたがミイラとして復活  

   ┃   ┃  ┣ ホルス (天空と太陽の隼の神) 

    ┃   ┃  ┃  ┣ イムセティ(人間の姿をして肝臓を守る) 

   ┃   ┃  ┃  ┣ ドゥアムトエフ(ジャッカルの姿をしており胃を守る)  

   ┃   ┃  ┃  ┣ ハピ (ヒヒの姿をして肺を守る) 

   ┃   ┃  ┃  ┣ ケベフセヌエフ(ハヤブサの姿をして腸を守る) 

   ┃   ┃  ┃ ハトホル(牝牛の頭部を持つ神) 

  ┃   ┃  ┃  ┣ コンス(月の神 カルナック神殿にはコンス神殿がある)  

  ┃   ┃  ┃ セベク(鰐が神格化) 

  ┃   ┃  ┃ 

  ┃   ┣ イシス (背中にトビの翼を持った女性)  

    ┃   ┣ セト  (ジャッカルの頭をした神) 

  ┣ アヌビス(ジャッカルの頭部を持つ冥界の神) 

   ┃   ┃ ┣  -  

   ┃   ┣ ネフティス(オシリスの復活のためにイシスに協力し、死者の守護神となる) 

  ┣ ヌト(天空の神) 

テフヌト(湿気の神、ライオンの頭を持った女神)

アメン(風の神、エジプト最盛期の国家神) 

  ┣ ゲブ(大地の神) 

ムト(禿鷹の姿をした女神)

ラー(太陽神) 

  ┣ マート(真実と正義の女神) 

ムxxxxxト(禿鷹の姿をした女神)

プタハ(世界万物の創造神) 

  ┣ ネフェルテム(香膏の神) 

セクメト(ライオンの頭部を持つ女神)

 

太陽神 ラー(右側)

 

香膏の神 ネフェルテム

 

陶工の神 クヌム

 

冥界の神 アヌビス(左から3番目)

記録の神 トト(右から3番目)

 

 

冥界の神 オシリス(右から2番目)

 

愛と美の女神・ハトホル

 

 

鰐の姿の神・セベク 

 

 

 

ライオンの頭部を持つ女神・セクメト(中央)

 

 

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エジプト史跡を巡る-2 エジプト考古学博物館

2019年10月11日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

ツタンカーメンの棺を収めた箱・厨子

 

 

ツタンカーメンの黄金のマスク

黄金のマスクの設置エリアは全面撮影禁止です (以下右はWEBから拝借)

近年、この黄金のマスクは元々ツタンカーメンの為に作られたものではないという   

 

 

ツタンカーメンのカノプス壺と壺を入れる副葬品厨子

4つの顔をもつ壺で1セットになっていて、それぞれに肝臓・肺・胃・腸が収められていた  

 

ツタンカーメンの黄金の玉座

背もたれにはツタンカーメンの体に優しく香油を塗る王妃アンケセナーメン

背もたれ上部にはアテン神

玉座は木製で、精細な彫刻が施された金で覆われている

玉座の肘掛の部分、左右にライオンの頭部で装飾されている

ツタンカーメンの左横のカルトゥーシュには、誕生名と即位名が彫られている

王妃のカルトゥーシュにはアンクセナーメンと彫られている

1足のサンダルを、2人で片方ずつ履いています

背もたれ部分のツタンカーメンの名前は【トゥト・アンク・アモン】

玉座の右側のカルトゥーシュは、元々の名前の【トゥト・アンク・アテン】

玉座の左側のカルトゥーシュは即位名の【ネブ・ケプル・ラー】

ツタンカーメンがかぶるのはヘムヘム冠:アテフ冠を3つ連ねたもの

 アンクセナーメンがかぶるのは二重羽冠:一対のダチョウ又はハヤブサの羽根

 

墓の入口を守っていた2体で1対のツタンカーメンの立像

 

 

冥界の神・アヌビス

古代エジプト語では「インプゥ」といって葬祭儀式に携わる神

 常に黒いジャッカルの頭を有する姿で現れる

黒は遺体をミイラ化する際に使用するタールの色に起因する

遺体をミイラ化する方法を発明したのはアヌビス神と言われている

 

パピルスの紙に描かれたヒエログリフ(神の言葉 「メデゥ・ネチェル」)

文字の文明は、メソポタミア南部を占めるバビロニアの南にある地域シュメールで始まった

紀元前3千年後半までにはくさび型文字へと発達

ヒエログリフはトトという神が発明した

トト神は書記の守護神

イビス(トキ)の頭を持った神

ときにはマントヒヒの姿で表される

3000年以上使用されたが基本原則はほとんど変化しなかった 

1822年、フランス人のシャンポリオンがロゼッタストーンを手掛かりにヒエログリフの解読に成功

これによってヨーロッパ人のエジプトに対する関心を高めることとなる

パリのルーブル美術館にエジプト部が設けられ、シャンポリオンがその初代部長に就任したのは解読の四年後である

 

ラムセス4世の墓の壁面に描かれたレリーフ

王家の谷のKV2

ラムセス4世はBC1149年に死没

KV7のレリーフは中でも最高の状態

 

書記座像

トキ(イビス)の頭を持つトト神が記録を残す目的で書記を置いた

書記は豊かな知識を持ち、書物や教訓を書き残した

書物は宮殿や神殿の石柱よりも永遠であった

書記の守護者がジュゼル王のピラミッドを設計したイムヘテプ

イムホテプはトト神の神官

書記の最高峰がネブメルトゥフ

 

 

第18王朝第5代のファラオ・ハトシェプスト

王墓としての巨大なピラミッドは消え、王家の谷と呼ばれる地下墳墓に密かに葬られた(BC1590年頃~)

ファラオを埋葬するところと祭礼を行う所を分離し、葬祭殿は極めて巨大で壮麗なものとなる

代表例がハトシェプスト女王葬祭殿

ハトシェプスト女王はトトメス1世の娘で異母兄弟のトトメス2世の妃となる

トトメス2世の死没後は国王は男という伝統を破って即位し権勢を振った(在位BC1503-1482年頃)

ハトシェプスト女王のスフィンクス石像

 

 

ジュセル王座像

サッカラの階段ピラミッドから出土

ジュセル王の在位は紀元前2668年 - 紀元前2649年

鼻は欠け、目はくりぬかれている 

 

 

カフラー王座像

スフィンクス神殿で発見された

王座の背もたれの上にはホルス神が両翼を広げている

聖蛇コブラはメネス頭巾に描かれている

 

 

第4王朝のファラオ・メンカウラー

二女神 右はハトホル女神・左はテーベ地方女神が両脇に立つ

 

 

メンティウヘテプ王2世

古代エジプト第11王朝のファラオ

第5王朝期から王の絶対性は崩れ、国内は乱れた

第6王朝期には中央集権派さらに弱体化し、神殿建設は見られない

第7王朝以降は政治経済文化は地方分立の状態になるが、第11王朝期に於いて全国再統一される

この頃からテーベ(今のルクソール)に新様式の美術が蘇る

 アンテフ3世の子メンチュヘテプ2世(在位前2007年頃~前1956年頃)は短命だった父の跡を継いだ。即位当初、メンチュヘテプ2世はテーベ以南において政権の地固めに余念がなかった。北にある第10王朝攻略のためである。そして治世14年目、統治に反抗していたアシュートが、大規模な反乱を起こした。絶体絶命に陥ったメンチュヘテプ2世は、これを千載一遇の大チャンスととらえた。メンチュヘテプ2世は、大規模なヌビア人軍団をも雇用して総力戦体制を固めると、北部への遠征に出発した。ティニスやアシュートは降伏し、第10王朝は滅亡した。「二つの土地の統一者」に改め、統一という大事業をなし遂げた。手始めに、デンデラやアビュドスなど、荒れ放題だった神殿などが、つぎつぎと再建されていった。シナイ半島における石材の採掘作業が再開されたのは、第6王朝のとき以来である。建造物の中でも圧巻なのは、彼が自分のために造らせた、デイル・エル・バハリのメンチュヘテプ2世葬祭殿である。すぐ隣にある第18王朝のハトシェプスト女王葬祭殿と並んでも、規模が違うだけで造りに遜色がみられない。メンチュヘテプ2世は没したのちここに葬られ、彼に忠誠を尽くした廷臣たちもまた、王のかたわらに埋葬された。

 

 

第19王朝に権勢を誇ったラムセス2世

第13王朝時代には再び内乱状態に陥り、アジアのセム系異民族・ヒクソスに占領される(15,16王朝)

難を逃れたテーベに蘇った第17王朝末期の王はヒクソスを国外に追放

以降イアフメスを祖とする第18王朝から第20王朝に於いてエジプト史上最も繁栄する

ルクソールの王家の谷には、この時代のファラオが眠っている              ホルス神に守られた幼少期のラムセス2世

指をくわえたラムセス2世像は、頭の円盤がラー、子供がメス、手に持つ草がエス、つまりラメセスを表している

 

 

 

 

初代エジプト考古局長・オーギュスト・マリエットはヌビアからアレクサンドリア迄の広範囲を発掘し、メイドゥームにて発見した

マリエットは精力的に発掘活動を行ったが、それ以上に評価できるのはエジプト文化財の海外流出を制したところにある

エジプト文化財の海外流出はローマ時代までさかのぼる

ローマのポポロ広場やサン・ジョパンニ広場にはエジプト神殿から持ち出されたオベリスクがある

クレオパトラ女王が敗れるとエジプトはローマに併合され、ヨーロッパ各地にイシス信仰が広まった

ローマ人はイシス女神の為に神殿を建築し、それを飾るために古代エジプトのモニュメントが略奪された

イスタンブールにはカルナック神殿のトトメス3世オベリスクがある

 

中世になるとヨーロッパ人は古代文明に興味はなくなり、ミイラが墓から持ち出されて高価で取引された

その後再びエジプト古代文明がヨーロッパで脚光を浴びたのはナポレオンのエジプト遠征がきっかけとなった

彼は軍隊とともに学術調査団を同行しエジプトの広範な現地探査を実施し、それがエジプトエジプト研究の端緒を発した

 

 

ラーヘテプとネフェルト夫妻の像(紀元前2686年頃 – 紀元前2185年前後)

ラーヘテプはクフ王の異母兄弟

 

 

村長・カーアペルの像(紀元前2686年頃 – 紀元前2185年前後)

初代エジプト考古局長・マリエットはヌビアからアレクサンドリア迄の広範囲を発掘し、サッカラにて発見した

 

 

ハトホル礼拝堂

ハトシェプスト女王と雌牛の腹の下で乳を飲むトゥトモセ(トトメス)3世が描かれている 

 

 

ミイラ室のミイラは撮影禁止 これは撮影OK

 

 

 

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エジプト史跡を巡る-1 カイロ・ギザ/サッカラ/ダハシュールの ピラミッド群

2019年10月11日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【ギザ地区には第四のピラミッドがあった】   ナイル川を挟んでエジプトの首都カイロ(人口1300万人)とは反対側にあるのはギザ(洪水の影響を受けない地域)三大ピラミッド。東側からクフ王(最も繁栄したときの王 H=146m)、カフラー王(H=143m、玄室には壁画が無い)、メンカウラー王のピラミッドが並んでいる。一番高いクフ王の墓は高さ147m、底辺230m。積み上げられた石は2.5トンの石が230万個という(しかし内部の空洞を考えると100万個で充分)。面の角度は約51° 各面はほぼ正確に東西南北に向いている。正規の入口(重量物を支える切妻構造が見える)があるのは北側で、その下に盗掘用の入口がある。これは9世紀にアル・マアムーンという中東を支配した人物が内部調査した時に開けた穴らしい。 この巨大なピラミッドが建設されたのは、今から4500年前の古王国前半、エジプト第4王朝期になる。設計者は宰相・ヘムイウヌで、彫像がギザの西の墓地(G4000)から発見されている。

【観光客の入口は盗掘用入口】   現在観光客が入るところは盗掘用の穴である。アル・マアムーンが掘り進めたのは地下で、地下の間という未完成な空間を見つけた。ここは石灰岩、つまりピラミッドは砂の上ではなく岩の上に建っている。クフ王の父親・スネフェルが以前に砂の上に建てたピラミッドが地盤沈下を起こしたことが教訓になっているらしい

【王妃の間は死者(クフ王)の彫像を安置する部屋】   入口からの空間を経て水平に南側の狭い通路(ここは入れない)を行くと石灰岩で造られた「王妃の間」がある。ここはペル・トゥト(彫像の家)といって死者(クフ王)の彫像を安置する部屋だったらしい。それはカァの彫像と言われ、肉体から離れた生命力を意味する。1993年にはルドルフ・ガンテンブリングが調査、2002年にはエジプトの大臣にもなった考古学者のザヒ・ハワスも調査確認している。その調査は、この部屋から星が観測できる穴があり、当時エジプトでは重要とされていたシリウスとこぐま座のベータ星を見る穴とされている。地球は自転(24時間)、公転(30日)、そして歳差運動(周期が約2万年の首振り運動)をしていて、その運動は時と共に微妙に変化する。この運動を分析した時、シリウスとこぐま座のベータ星がはっきり見える時代は4500年前ということが判明したという。

大回廊:2019-9-10撮影 高さは8.7m 全長は46.7m 登り切った先に王の間 

【王の間】   大回廊と呼ばれる大空間は、クフ王の父・スネフェルがあみだした持ち送り構造というもので、上部の重量を拡散している。そしてこの大回廊の上に長さ30mもの巨大な空間の存在が素粒子探査で確認されている(2017年)。ただしこの空間の目的は不明である。大回廊を経て上に行くと「王の間」L10mxW5mxH6mがある。当時の尺度はキュービットで、1キュービットが約52.5㎝だという。ここは花崗岩でできた玄室で、石棺が置かれて撮影スポットになっている。玄室の南北には穴が開いていて、19世紀の調査の時にダイナマイトで爆破した痕跡らしい。

王の間 : 淵の欠けた石棺があるだけ 壁は赤い花崗岩 岩ブロックは一個60トン 上部には重量軽減の間 天井には”クフ”の文字

ピラミッドはファラオの墓なのか?墓であれば財宝、壁画が見つかるはず。しかもこんなに目立つところに財宝を隠せば、盗掘に会うので墓とするはずがない。またピラミッドは化粧板という真っ白な石灰岩で覆われていた。石灰石にはてこを使って移動した穴や密着させるためのモルタルなども見ることができる。

ギザから南へ40kmほど行くと、サッカラ地区には階段状ピラミッド、赤いピラミッド。またダハシール地区には屈折ピラミッドがある。これらの地区には80基にも及ぶピラミッドがある。実はこの中に、古王国時代にケントカウエス女王の墓・第四のピラミッドがあった。このピラミッドの調査・計測は3次元計測器により行われ、新たな発見に貢献しているという。これらの技術は第二次世界大戦中、対潜哨戒機などの兵器開発によって生まれた。戦後、ヨーロッパの科学者たちが、その考古学への応用への道を開いたのである。

【エジプト古王国時代 BC2686-BC2184】古代エジプト王朝のファラオ

ジェセル-BC2649(サッカラにある階段状ピラミッド、世界最古、設計者はイムホテプ)

 ┗ セケムケト -BC2643

    ┗ カーバー -BC2637

       ┗ フニ  -BC2613 (崩れピラミッド着工@メイドゥム:ナイル川岸、河岸神殿)

          ┗ スネフェル -BC2589(クフ王の父 屈折ピラミッド、赤いピラミッドなどの大ピラミッド建設推進)

             ┣ クフ -BC2566

            テプヘレス1世  ┗ ジェドエフラー  -BC2558

                        ┗ カフラー       -BC2532

                          ┣ メンカウラー-BC2504

                    カメレルネブティ1世 

 

ギザの3大ピラミッド

第四王朝期には階段状ピラミッド(第三王朝期)よりもさらに大きなピラミッドの建設が始まる。10万人が20年かかって建設したと言ったのはギリシャ歴史家ヘロドトス。そしてこの国家プロジェクトは、ナイル川氾濫時期に農作業ができない農民を招集したという失業対策だったという。これらも含めて、日本人考古学者・河江氏が動画で解説しているので見てください。

階段、赤、屈折ピラミッドの集大成がギザの3大ピラミッド

 

 

ギザのスフィンクス

紀元前2500年ごろ、第四王朝カフラーのの命により、ギザの第2ピラミッドと共に作られたというが、近年は3大ピラミッドよりも前に建設されたということらしい。ファラオの威厳の象徴、ライオンの身体に人間の頭を持ちメネス頭巾を付けている。ギザ地区には多くのマスタバ(王に仕えた貴族や高官たちの墓)が発掘されている。中でもセシェームネファー4世の墓が最も巨大で、入り口にはセシェームネファー4世等身大の像が置かれている。玄関を入ると生贄をささげた部屋があり、墓のレリーフには故人の葬儀、日常の様子が描かれている。これら全体をネクロポリス(死者の墓)という。

一方ギリシャ神話におけるスフィンクスは、ライオンの姿であることは同じであるが、美しい女性の顔と胸、鷲の翼を持つ魔性の女として描かれている。また、非常に聡明で、道行く人に謎解きを挑むようなエピソードが残されている。非常に有名なものに、「朝は4本足、昼は2本足、夜になると3本足になるものとは何か」というもの。ピキオン山というところに居を構え、周辺の住民が通りかかるとこの問いを浴びせ、答えられなかったり、間違ったりしたものを容赦なく食した、といわれている。

18-19世紀ヨーロッパ大陸で、「魔性の女」といえば「スフィンクス」が描かれるのが常である。ところがイギリスに於いて魔性の女として描かれるのは「セイレーン(人魚 サイレンの語源)」なのである。

 

メンフィスのスフィンクス

ギザ地区の南に位置するメンフィス地区から出土

現在はメンフィス博物館の敷地内に設置

 

 

ラムセス2世@メンフィス博物館

古代エジプトに於いて最も権勢を振ったファラオがラムセス2世

エジプト新王国19王朝のファラオで在位はBC1290-1224年

 

 

赤いピラミッド@ダハシュール

第4王朝のファラオでクフ王の父・スネフェル王が建設

H105mの正四角錐 内部は巨大空間が3か所 建造技術が確立

 

 

屈折ピラミッド@ダハシュール

第4王朝のファラオでクフ王の父・スネフェル王のピラミッド

崩れピラミッドの失敗から角度を変更(47°→43°)

石材の積み方を斜めから水平に変更

 

 

階段ピラミッド

エジプト最古

マスタバ形式からピラミッド形式に

第3王朝第2代ファラオのジェセルによってサッカラに建設された

設計は建築家イムホテプ

イムホテプは死後プタハ神(芸術の神)として崇拝された

 

第3王朝第2代ファラオのジェセル 統治期間 紀元前2668年 - 紀元前2649年

 

階段ピラミッドの付属施設 葬祭神殿や礼拝堂

                                                                                                                                                                             

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