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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

【中国-1-1】 太公望こと呂尚とは中国最初の軍師にして斉の初代公爵 @周王朝

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【殷   / 周  / 春秋 戦国 / 秦(始皇帝) / 漢(項羽・劉邦 武帝・司馬遷)】

            五覇 七雄 → 七雄統一    
       西周    東周              前漢     新     後漢    
       犬戎    
BC16C  BC11C    BC770    BC221 BC210  BC202
            封建制度    斉滅亡 始皇帝死亡          

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「倭人は呉の太伯の末裔なり」@魏略    
      ┣周王朝初代・武王の曾祖父    
      ┣11世紀頃の人物 
      ┣呉の祖    
      ┣先住民(倭人)の習慣に合わせて刺青をした----   
      ┣弥生時代の周族を描いた魏志倭人伝に同じ話が登場   
      ┣弥生文化を担った人々は中国の長江周辺に居住していて、戦乱を避けて日本列島に渡来した可能性が高い   
      ┣元々日本に居た縄文の王が渡来人(元々倭人)から稲作を学ぶ  
      

西周:王の権威大       
    太公望BC1021-1000?    
     ┣呂に住む尚
     ┣中国最初の軍師     
     ┣斉の初代公爵
     ┣100才以上生きた?                      
     ┣実在の人物ではない?                     
     ┣兵法書(六韜、三略)の伝説著者?                   
     ┃  ┗後に張良が劉邦を勝利に導く→漢帝国
     ┣姫昌@殷王朝末期、狩りをしていると呂尚が釣りをしていた          
     ┃ ┗文王:祖父大公が望んだ聖人が---呂尚=太公望          
     ┃   ┗殷王朝三公の一人、他の二人は殺害By紂王           
     ┃     ┗文王の息子は殺害され、文王も逃避  
     ┣殷王朝の中に小国周        
     ┣太公望は殷の紂王による恐怖政治から逃避           
     ┃ ┗逃避した文王を救援           
     ┃   ┗美女と財宝を紂王に献上→文王救出    
     ┣文王と太公望による周政治           
     ┃ ┗異民族・犬戎撃退                   
     ┃   ┗文王死去---姫発(武王)---紂王討伐:易姓革命
     ┃          ┗太公望出仕 ┗牧野の戦い
     ┃                   ┗殷軍寝返り---紂王を見限る
     ┃                     
     ┣紂王の敗走@牧野の戦い
     ┃ ┗妲己の宮殿・鹿台で焼死 
     ┃   ┗斬首By武王 
     ┃        ┗酒池肉林を民に与える、怯える堅臣を開放    
     ┣武王による親孝行
     ┃ ┗父・姫昌に文王を贈る
     ┃  ┗儒教
     ┃     ┗貢献人太公望呂尚は斉を建国
     ┃               ┗七雄・斉の源流    
     ┣離婚した妻が、出世した太公望に再婚願い
     ┃     ┗覆水盆に返らず
     ┗               

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【中国-1】 夏@BC19C---殷-周-春秋戦国-秦@BC221---前漢・後漢

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【BC25 伝説の英雄・禹は治水工事で洪水に勝利】   中国4000年の歴史というが、

BC4800  ヤンシャオ文化

BC4000  黄河文明:麦 長江文明:米

BC2500  龍山文化

BC2000  三皇五帝時代

BC1900  夏王朝 : 最古の王朝 つくったのは禹という王 最後は桀

洪水で貧しい暮らしを強いられていた頃、英雄である禹、舜、尭が現れる。禹は治水に邁進したため、体はぼろぼろになり片足は不自由になった。13年後、中国全土の治水によって豊かに変わり、周囲から推されて禹は王に即位した。こういった夏王朝の伝説は各地にあり、四川省・凶賊に伝わる片足のステップは禹を真似た踊りとして残っている。禹を祀る廟も各地に点在するが、それは自らが禹の末裔であると主張したからであり、禹の像も各地にある。

BC1700   殷の時代  王は湯~紂(酒池肉林の振る舞いで破滅)

            甲骨文字が現れ邑の連合体(王は居たが強くはない)が形成され、高度な青銅器の使用

            認められるBC17世紀の殷の時代から数えて4000年というのだろう

BC1100  周の時代    王は武~幽

【BC20 夏王朝の存在】    しかしながらその存在は謎であったが、20世紀初頭に殷の王朝時代の考古学的発見により、夏王朝の発見も期待されたが 文化大革命などで停滞する。やがて、国家プロジェクト(夏王朝の存在を確定させるもの)が始まり、人材が集められた。かくして史記の中のものが次第にわかるようになり、BC3000-2000年に、別々の勢力圏が分離独立していたことがわかるようになった。長江河口に広がる良渚の遺跡から、最大規模の城壁(5300年前)が発見された。石は遠くの山から運ばれ、人の手で積み重ねるように作られた城壁の中には巨大集落があった。  

【中国古代の遺跡発見】   2011年には、繁栄を支えた米(炭化した)が発見されたことで、水田耕作体制があったと思われる。遺跡から王の存在をうかがわせる獣面紋玉器(現在でも玉は価値があり人気らしい 玉石混交の故事あり 政治や歴史のシンボル 王は死体を玉で覆うこともした)も見つかり、王は意思を神に伝えることができると信じた痕跡が伺える。これにより政治的統合支配をしたと思われる。また、陶寺村では奇妙な構造物が発見された。観測の結果、構造物の隙間から差し込む光は、暦を表すものとわかり、これが農業と密接な関係になることもわかった。いつ種まきをすれば良いのかなど、計画性が重要で、王という特別な人間だけが可能だったのである。 

【BC25世紀頃に文化圏消滅】   このような、高度な文化圏がいくつもあったが、ある時突如、相次いで消滅しはじめた。良渚衰退して洪水で土砂に埋まった。これは繰り返し起こった気候変動が原因で、BC3000-2000年頃、降水量が激増 集落を直撃したのである。この頃、中国だけではなく、世界各地も襲われていた。エジプトでも メソポタミアでも、寒冷化と季節風モンスーンで中核都市が廃墟化した。青海省にある喇家遺跡は、中国のポンペイと呼ばれ、一瞬で土砂に埋もれて密閉化した。これらに苦んだ結果登場したのが禹の英雄伝説を生んだのかも知れない。

北部には極めて野蛮で危険な匈奴といわれる騎馬民族がBC4世紀から1世紀にかけて支配しており、中国との境界部分には城壁を設けていた。それが秦の時代に整備され、万里の長城として完成させた。漢民族、モンゴル民族は数多くの王朝が出現しては滅亡の繰り返しで、清までは王朝の概念はあっても国家の概念はなかった。

日本は中国の事を明治時代になっても支那と呼び、中華民国の要請によって中国と呼ぶようになったのは1946年ごろという。以下下表のように唐までの時代の推移を世界史忘備録としてアップ。

詳細は別途個別解説予定したいが、ここでは王朝を並べる程度にとどめる。

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【殷   / 周  / 春秋 戦国 / 秦(始皇帝) / 漢(項羽・劉邦 武帝・司馬遷)】

            五覇 七雄 → 七雄統一 

       西周    東周              前漢     新     後漢

       犬戎    

 BC16C   BC11C    BC770     BC221 BC210  BC202
                    斉滅亡 始皇帝死亡          

            封建制度

            姫一族-12代幽王
             破棄┣13代王
            申侯娘⇒激怒⇒幽王暗殺⇒諸侯反乱--国壊滅⇒春秋 戦国幕開け
                                  ┗歴史書の名前
             秦の姫族の学者・商鞅---戸籍制などの改革⇒徴税・徴兵⇒周侵略⇒BC256周滅亡   

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【司馬遷@史記→本当か?】 

 ランチェスターの法則:6弱は合従できずに連衡に走る  

     秦が強かった理由 : 秦以外の六雄が合従(がっしょう:縦に合わさる)しても勝てなかった       
                ┃       ┣蘇秦?-BC284の案 :弁論術を学ぶ@斉---6弱同盟By遊説 鶏口牛後     
                ┃       ┗李朴?-BC229実行       
                ┃              
                ┗張儀?-BC309 :恵文王BC329-307---秦の宰相       
                                     ┣秦魏同盟       
                                     ┗連衡(合従を切り崩す)⇔合従

                キングダムではこの場面が描かれている

              : 法家思想(諸氏百家)---孝公@BC4C

                郡県制       ---王による直轄統治 ⇔ 間接統治は封建制

                什五の制      ---村落行政 連帯責任制   

                商工業 人財・能力  匈奴討伐 万里の長城

                □---□-子楚(大商人・呂不韋が人質だった子楚を助けて王にする)-政(秦の始皇帝)

                始皇帝       ---三皇五帝からとっている

            秦 : chine→シナ、チャイナ

                匈奴・百越討伐 万里の長城 貨幣・文字・単位統一

 

【三国(魏・曹操 呉・孫権 蜀・劉備)】 

【西晋】265 By司馬炎 八王の乱に於いて匈奴、鮮卑、美など騎馬族の乱入により東へ移動 

【東晋】317 By司馬睿 

【宋・斉・梁・陳】南京を首都とした文化圏貴族:陶潜、王義、法顕

【北魏・西魏・北周】439年By拓跋珪 3代:太武帝は華北統一 6代:孝文帝は漢化政策 北方民族文化の親戚皆殺しを阻止目的 

 

 

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【インド-2】 18-19世紀ムガール帝国滅亡からガンジーの活躍

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【18世紀 ポルトガル・仏・英の進出】   

1510  ポルトガル(本拠地はゴア)進出 Byバスコダガマ : ポルトガルは国王断絶により交易を撤退
     フランス (本拠地はポンディシェリ、シャンデルナゴル)進出

1623     イギリス(本拠地はカルカッタ1690、マドラス1640、ボンベイ)進出 オランダに負けたから即切り替え

1746     仏と英は南部インド(1746-1763カーナティック戦)で覇権争い

1757     仏と英はベンガル地方(1757プラッシー戦)で覇権争い
   
     英が勝利して貿易を独占
        英・東インド会社はインドの統治機関として地税を奪取(北インドでは地主から、南インドでは農民から)
        (ユダヤ系大富豪コーエン家 1600-1874 日本の平戸にも商館を設置している)
1815     英進出@セイロン

1816     英進出@ネパール

1857  シパーヒーの乱発生 : 東インド会社では対抗することができず(対インド傭兵)に、英本国が鎮圧

1858  これを契機に東インド会社は解散し、英国が統治
       1526年以来続いたムガール帝国は滅亡

1877  インド帝国成立 ビクトリア女王が皇帝1877-1901となった
      【分割統治 : 相手の団結を阻止しながら統治】
       49%は自治を認めて藩王国(英に味方したインド人 VS 直轄領)
       ヒンドゥー VS イスラム 
       英語教育 : 300言語@インド

1885  ティラクの指導によりインド国民会議が開催

1905  英国はベンガル分割令(ヒンヅー教とイスラム教の分割) :英貨幣排除など反英化の動き

1914  WW1

1919  ローラット法でインドを弾圧
   
   第一次非暴力不服従運動 Byガンジー1869-1948 → イスラムとヒンドゥー協力

1924  カリフ制廃止@オスマン By ケマル・パシャ(トルコ共和国初代大統領) 
      これによりイスラム(10%)はトルコ擁護をやめ、ヒンドゥー(86%)との協力体制を解消

1930  第二次非暴力不服従運動(ヒンドゥーのみ)@英首相マクドナルド
      塩の専売By英国 → 塩の行進運動

1935  インドに自治与える → ヒンドゥー86%(ガンジー、ネルー)反対  VS イスラム10%(ジンナー) 
      一緒に独エイルすれば86%のヒンドゥーの思うままになる

 

1947/8/15 分割独立 インド & パキスタン
       分割方法   : 首長がヒンドゥー教徒の場合はインド 
                その地域の首長に選択権があった
       カシミール地方:77%がイスラム教だが藩王国の王はヒンドゥー教 
                インドに入るが暴動発生+パキスタンの過激義勇兵
       第一次印パ戦争勃発---収束せず

1948/1/30 ガンジー暗殺@英人ビルラー邸 By ヒンドゥー過激派(ナトラム・ゴドセ)
 ↓      沈静化
1962   中印国境紛争
       カシミール地方の西(アクサイチン)に中国軍が侵攻占領(現在も実効支配)
       理由:チベットのダライラマ14世がインドに亡命@1959 → 中印国境紛争
       
       従ってパキスタンにとっては敵(インド)の敵(中国)は味方
       パキスタンは中国のウイグル侵攻については何も言わない
       
      【中国-パキスタンパイプライン】 
       ・中国はパキスタンのグワダル港からナワプシャー市迄
       ・LNGパイプライン建設予定
       ・建設費 30億$
       ・インド回避
      【中国-ミャンマーパイプライン】
       ・ミャンマー・ラカイン州起点
       ・中国雲南省瑞麗まで全長約800km
       ・2013 LNG開通
       ・2017 石油開通
            【中国-パキスタンパイプライン】                              【中国-ミャンマーパイプライン】
       
      
              

1965 第二次印パ戦争 : かくしてパキスタンの過激義勇兵が再びカシミール地方に侵攻 
             国連の介入もあってカシミールは分割

      

      西パキスタン : 首都イスラマバードがある インドと対立 ウルドゥー語
      東パキスタン : ジュート生産でインドと交易 ベンガル語(伝統母国語)

1971 第三次印パ戦争 : 東パキスタン反乱(独立運動) → インドが全面支援 → バングラデシュ人民共和国
    バングラデシュ:ミャンマーからの難民(ロヒンギャ)受入+サイクロン被害=世界最貧国 
    第二次世界大戦では英国VS日本@ビルマでは以下の兵を利用した
    英国は イスラム教のロヒンギャ人を兵とする
    日本は 仏教のビルマ人を兵とする
      
1978 ジャヤワルダナ1906-1996 第2代スリランカ大統領 
   ・英統治下のセイロン時代に頭角を現す
   ・1978 大統領
   ・1921 当時の皇太子を乗せた軍艦香取がスリランカに寄港時、迎えた
   ・1951 サンフランシスコ講和会議でのスピーチ
        英統治時代セイロンは日本を尊敬していた
        アジア諸国は英蘭からの独立を願い、自由な日本を目指した
        我々は日本に対して戦時賠償請求を放棄する
   ・1960 シリマヴォ・バンダラナイケ首相1916-2000@セイロン ----世界初の首相
        シンハリ語同化政策
        タミル人の公務員追放       
   ・1972 シリマヴォ・バンダラナイケ初代首相@スリランカ
        ┣チャンドリカ・クマラトゥンガ 1945-4代大統領1994-2005
        ┣マヒンダ・ラージャパクサ   1945-5代大統領2005-2015 軍事援助を中国に求める       
        ┃  金権政治        
        ┃  中国支援金着服
        ┣シリセーナ          1951-6代大統領2015-2019 前大統領の金権政治を正す      
        ┃  汚職調査進まず、経済悪化 2018の政変      
        ┃  コロンボ港整備Byインド+日本の計画
        ┗ゴーターバヤ・ラージャパクサ 1949-7代大統領2019-2022      
           タミルに対して空爆・制圧      
           首相は兄・マヒンダ・ラージャパクサ       
           コロンボ港整備計画は中国に発注            
             
   ・1985 首都をコロンボからスリジャヤワルダナプラ・コッテに遷都
   ・1996 遺言:献体の一部は日本人に。実際に角膜が日本人に移植された

1983 スリランカ内戦~2009
    英国は南インド人を半ば奴隷のようにスリランカへ派遣(タミル人:ヒンドゥー教):紅茶栽培
    元々スリランカに居たシンハラ人(仏教)はタミル人を締め付ける
    → タミル人のテロ多発@1990年代:タミル・イーラム解放の虎
    → シンハラ軍が制圧@2009
      中国軍が支援      
         
2010 ハンバントタ港(@スリランカ)開港(マヒンダ・ラージャパクサ港)
   ・建設費用の85%は中国援助      
   ・2015 2期工事完了
   ・中国一帯一路計画の重要拠点 : 真珠の首飾り戦略 
   ・2014 中国海軍宋級潜水艦等々が寄港       
   ・2017 港湾運営権を中国に99年間貸し出す@11億米$
       (膨大な借金と肩代わり) 
2022 経済危機、大規模抗議デモ、 
    辞任してモルディブに逃亡、政権崩壊   
      
2024 国名の改名  
   ・バーラトに変える動き  
   ・これは元々インド憲法にある

                 
             真珠の首飾り戦略                     中国一帯一路計画

    
       

チャンドラ・ボース1897-1945 インド国民軍設立して英国を追い出そうとするが、この時日本はインパール作戦@1943 にてチャンドラ・ボースの インド国民軍を利用。結果敗戦。次に協力を得ようとした相手はソ連、しかし台湾上空で飛行機事故で死亡   

インド・ボンベイにあるインド門は英国の国王・ジョージ5世1865-1936を1911年に迎えるために造られた。戴冠式典ではマハラジャ(インドの大王)など10万人が参列した。英の植民地支配の式典に他ならない。

英・産業革命 : 綿製品大量生産のために綿花要求 → インドの小麦等農業衰退:自給自足経済破綻
                           農村家内工業破綻
         綿製品が安価にインドに拡大   → 手作りの綿製品キャラコが売れない

【イギリスがインドに対して行ってきたこと】

 ・自給自足農業をやめさせて綿花生産強要 : 自給自足経済破綻
 ・英国綿製品を強要           : 手作りの綿製品キャラコ衰退
 ・ムガル帝国統一の手助けと騙す     : 植民地インド帝国化
 ・農民蜂起ではインド人傭兵を使う    : インド民族分割 分割統治
 ・分割統治---自治承認と非承認      : 相手の団結を阻止しながら統治
 ・ベンガル分割令            : ヒンヅー教とイスラム教を対立させる(住居を分ける:分割統治)
                       インド国民会議 VS 全インドムスリム連盟
 ・カースト制推奨            : 団結阻止
 ・自治を約束して第一次世界大戦へ出兵協力: 約束を破ってローラット法1919でインドを弾圧
          150万人の内9万人死亡   協力したガンジーは騙された
 ・英印円卓会議によりインド自治承認   : 英首相はマクドナルドは約束を破ってガンジー孤立化
                       ガンジー逮捕命令、罪状は国民を煽り反乱を起こした罪
 ・インドとパキスタン分割独立      ; 印パ戦争誘発

   

 

【マハトマ・ガンジーの非暴力】    やがて第一次世界大戦1914-1918が勃発すると、英はインドの自治を約束して第一次世界大戦への協力をさせた。ところが終戦後英は約束を破ってローラット法1919でインドを弾圧したことで、アムリットサル事件が起きた。ここで登場したのがマハトマ・ガンジー1869-1948である。ガンジーは20才の頃、南アフリカで弁護士として活躍していた。南アフリカは英の植民地であり重労働を課せられたアフリカの人々を見たことがガンジーの死生観を育てた。1915年に南アフリカからインドに帰国したガンジーは人々から偉大な魂・マハトマと呼ばれた。ガンジーの独立闘争は非暴力、不服従である。非暴力は暴力に対する神聖なる抵抗と唱え、ヒンドゥーとイスラムのとりまとめを独立闘争のシンボルとした。そしてかつてイギリス革命の前に盛んに行っていた手織物を「糸ぐるま」として紡ぐことを呼び掛けた。英綿製品がインドに来て以来、インド人は糸車をしまい込んだが、これの復活である。英への抵抗の印(インド国旗)として紡ぎ始めたのである。

また、ヒンドゥー代表のネルー1889-1964(後にインド初代首相)の指導の下で、「塩の行進」と言われる英の塩専売に対する抗議デモ(ヒンヅー教徒とイスラム教徒をひとつに纏める目的もあった)を1930年に行った。386kmの行進を10万人のインド人が行ったのである。これによって英は妥協対応をすることとなる。1930年に行われた英印円卓会議により、インドの自治を一部認める。(1935新インド統治法)このとき、完全自治を訴えたガンジーは孤立、英首相はマクドナルド、完全な自治を与えることはしなかったと勝利宣言を行った。また英はインド総督に、帰国後のガンジーを逮捕するように命令、罪状は必要以上に国民を煽り反乱を起こした罪であった。

ネルーの娘インディラ・ガンディー1917-1984:インド第五代、第八代首相(女性初)
                      シク教徒により暗殺:過激シク教徒テロを強硬制圧
                      第三次印パ戦争に勝利
                      核実験に成功:世界第六番目の核保有国

【インド独立とガンジー暗殺】   そして第二次世界大戦後にインド国内は宗教暴動が発生して英は抑えようとするが、何もできずに撤退したことで、インドは300年の支配から解放されて独立した。久しぶりに政界に復帰したガンジーは民族統一を訴え、イスラム指導者ジンナーは分割を訴えるが、1947/8/14にジンナーのパキスタンが独立した。これにより難民の数は1500万人にのぼった。そして1947/10-1948/12第一次インド-パキスタン戦争が勃発。皮肉なことにガンジーは宗教融和を説く旅の途中で、ヒンドゥー派によって暗殺された1948/1/30のである。インドのネルー首相は平和五原則を訴えるが、印パ戦争は第二次、第三次と続き今も尚争っている。そして1971年にはバングラディッシュがパキスタンから独立している。

 

ラーム・ローイ1772-1833    : サティー廃止運動 (主人が死ぬと妻も死ななければならない風習)
マニカルニカ          : ジャーンシーの女王:@2019 歴史ドラマ
ラクシュミー・バーイ1828-1858 : 失権の原理 インドのジャンヌダルク

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【インド-1】 BC35世紀インダス文明から17世紀タージマハル

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【BC3500】 インダス文明(文章を持たないため解読されていない)はドラヴィダ人による文明と言われている。  
  ・インダス →シンドゥー(水の意味) →ヒンドゥー 

【BC2600 ドラヴィダ人】  
  ・モヘンジョダロ@シンド地方 /  
  ・ハラッパー@ハンジャーブ地方  
  などはドラヴィダ人という先住民による遺跡には水道施設が発達し、数多くの青銅器は出土されている。

【BC1500 アーリア人侵攻】    
  ・アーリア人(インド・ヨーロッパ語族)がカイバル峠を越えて侵攻 
    農耕を営み、鉄器文明を発達させながら周辺の原住民を奴隷化させた 
    この時、バラモン教(経典はヴェーダ:ヒンドゥー教の原始宗教)が成立
    バルナ制による階級差別が始まる。
    これは現在のカースト制度(ポルトガル人が「カスタ」と呼んだのが語源)の原型である。   
  ・奴隷化された原住民の間では仏教文化が始まり、階級差別を否定し始める。   
  ・またアレクサンドロス大王の侵入により新しい支配層が誕生し複数の宗教とバラモン教が融合   
  ・ヒンドゥー教が形成されて、カースト制は浸透していった。  
    ・輪廻転生の教え   
    ・改革は根付かない -- 共産主義は広まらない  
    ・イスラム教とは対極-- 人生は一度 非差別民族(アウト・カースト)に広まる  
     
  ・インドの古典法であるマヌ法典  
    ・ヒンドゥー教の3大神・ブラフマーは体の部位から階級によって人間を創造したという   
    ・頭からはバラモン、  
    ・胸からはクシャトリエ、  
    ・腹からはバイシャ、  
    ・手足からはシュードラが創造されたという。

  ・現在カースト制による差別はは法令で禁止されている。   
    ・しかしながらインド人に色々と聞いてみると、実際に差別は存在し社会に悪影響を与えているらしい。   
    ・例えばインド人の名前にカースト制の名残りである階級がすぐにわかるという   
    ・階級が高い部下は絶対に階級が低い上司のいう事は聞かない。

【カースト制度】      
  ・ところでこのカースト制度は上位から    
   「バラモン」:神聖な職に就けたり、儀式を行える司祭    
   「クシャトリヤ」:王や貴族など武力や政治力を持つ王族・戦士    
   「ヴァイシャ」:一般製造業などに就ける所謂市民    
   「シュードラ」:農牧業や手工業など生産に従事する広汎な大衆    
   の4段階に分かれているというが、実はそうではない。   
  ・そもそもバルナ制に入っていない人々、アウト・カーストが居る。   
   それを「アチュート」といい、「不可触民」ともいう。   
   現在約1億人(約8%)もの人々がアチュートとして暮らしている。   
   最近ではアチュートの人権を求める動きがあるという。   
   しかし現実は1950年にカースト制が法的に廃止されたにもかかわらず、   
    血統・地域・職業に応じて細分化され、何千、何万に分かれて現存する。   
    これをジャーティーといいインドからカースト制度がなくならない最大の理由である。   
  ・ジャーティーが家紋となって分かれており、同じ家紋であれば同じ苗字となる。   
   つまり苗字から階級が推測できるのである。   
   また、結婚は同じ階級同士で行うので肌の色からの推測も可能。   
   例えば白い肌であるほど階級は高い傾向にある。   
     
  ・インドにはメソポタミア文明の時代から、浄・不浄の考え方が根強く存在する。   
    例えばバラモン身分の人が不可触民をひき逃げしても問題にならないし、   
    不可触民の女性が暴行を受けても問題にもならないという現状があるという。   
    不可触民に生まれやアンベートカルは身分差別を撤廃する活動を行う。

【差別部落問題】   では日本ではどうかというと、戦国時代から江戸時代にかけて行われた身分制度・士農工商があり、その下の位置に穢多、非人などの身分があったというが、これは間違い。農工商も上下関係ではなく横並びであり、穢多、非人も上下ではなく横並びだったらしい。現在はというと、被差別部落問題などで残っているのは事実であるが、それが理由で自由に職に付けないとか、正当に昇進できないということはない。

【英に於ける階級制度】   次はイギリス。いまなお階級制度が存在し、国民の誰もが意識し自分自身がどの位置にいるのかを自覚している。ただし法律化されているわけではないし、上下の階級間に、支配・被支配の関係があるわけでもない。ただ、階級はかなり明確に存在していて、異なる階級同士の交流は少ない。成功して裕福になることはできても、階級を変えることは非常に難しいという。その階級はおおむね5段階区分が一般的で、上流階級(UPPER CLASS)、上位中流階級(UPPER MIDDLE CLASS)、中位中流階級(MIDDLE MIDDLE CLASS)、下位中流階級(LOWER MIDDLE CLASS)、労働者階級(WORKING CLASS)

【BC317 アレクサンドリアによる侵攻による団結】

   マウリア朝 今まで分立していた小さな国がひとつにまとまった時代がマウリア朝。それはアレクサンドリアによる侵攻が原因である。チャンドラグブタが建国、3代目のアショーカ王BC304-BC232は数多くの残虐行為により領土を広げたが、上座部仏教に帰依、ダルマに基づく統治を行い、仏典結集(釈迦の説法集)が行われた時代でもある。

【1世紀頃 北部クシャナ朝、南部はサータヴァーハナ朝】

   クシャナ朝 インド北部にはクシャナ朝、南部はサータヴァーハナ朝が栄えた。北部にはシルクロードによる交易でプルシャプラを首都とするガンダーラ王国が栄え、アレクサンドロス大王による侵攻によってギリシャ文化の影響を受けたガンダーラ美術が栄えた。また3代目カニシカ王(在位2世紀中頃)は大乗仏教(ナーガールジュナ)を成立させた。大乗とな皆という意味。一方戒律が厳しい方を小乗仏教。で、3世紀頃にササン朝ペルシャのシャーブール1世の侵攻により滅びた。

南は海を越えてローマ帝国と交易が始まった。こうして東西の文化が入り交じり、ギリシャ文化の影響を大いに受けたことはローマの金貨が出土していることからもわかる。西遊記にでてくる三蔵法師は天竺を目指して旅をするが、この天竺とはガンダーラのことではなく、インドのこと。インドはブッダが生まれ、仏教が生まれた地。かくして三蔵法師は多くの経典を中国に持ち帰った。

【375- 純インド化に返ったグプタ美術】  イラン系クシャーナ族を排除

   グプタ朝 多神教であるヒンズー教(経典はマヌ法)がグプタ朝(チャンドラグプタ1世、2世)で発達する。ヒンドゥー教とはバラモン教と民間信仰が融合した多神教で、カースト制は肯定。輪廻思想が重要であり、西洋の様に詳細な歴史を残そうとはしない。中国からの高僧が文字に残す歴史がある。

【7世紀】 西遊記・三蔵法師でお馴染みのヴァルダナ朝

【1206】  奴隷王朝Byアイバク

【1521】  マゼランが到着したモルッカ諸島は香辛料の最重要地域、当時ポルトガル人が既に治めていた

【1526 トルコ系イスラムのムガール帝国が成立】

     パーニーパットの戦いでバーブルがロディー朝(イブラヒーム王)を破り

     ムガル帝国を建国(イラン:イスラム少数+インド:ヒンドゥー多数+モンゴル)

                   

【1526 ムガル帝国繁栄と滅亡】   

初代 : バーブル1483-1530---ムガール帝国の創始者、父親はサマルカンド--ティムールの末裔、母親はジンギスハンの末裔。

     → ティムール帝国サマルカンド政権(ウズベク族が侵攻)を逃げ出して、ティムール復興を目指す

       インドのロディー朝を打倒(パーニーパットの戦い)

       モンゴル帝国再建が目的:モンゴル---ムガル

       少数のイスラム系バブールが大多数のヒンドゥー教徒を治めるのは困難 

2代 : フマユーン1508-1556---アフガン人による侵攻でイラン(サファビー朝)に逃亡

3代 : アクバル1542-1605 ---イランに父親フマユーンを引き取りに行くことでサファビー朝と親交(ペルシャ文化流入)

                ムガル帝国の公用語はペルシャ語

            シズヤ廃止しイスラムとヒンドゥーを融和(懐柔)

            中央集権的統治(マンサブダール制:階級制)を行う

            これはイクター制に似ていて禄を官僚に与えて徴税権をを給与として受け取る

            80%以上のヒンドゥー教徒から税金が入ってこないので質素倹約

            都をアグラに移す

4代 : ジャハン・ギール1569-1637---文化に熱中するバカ息子

5代 : シャージャハーン1592-1666---ムムターズ・マハル1595-1631を妃とするバカ息子

     総大理石の壮大な墓を妃のために建造した

     建設開始は1632年、完成は1653年。これがタージマハルである。

     フマユーン廟@ニューデリーを真似て建造

     シャージャハーンの墓はヤムナ川挟んで黒大理石でタージマハルと同様に建設を開始

     しかし建設の途中で3男によってアグラ城に幽閉される。かくして財政難を招く

 

6代 : アウラングゼーブ帝1618-1707---ムガール帝国の衰退を招いたシャージャハーンの三男

     贅沢禁止の厳格なスンニ派

     長男次男は父親と同じく悪政を敷いたため争って殺害、父親を幽閉した。

     アウランガバードという都市を造営

     バスコ・ダ・ガマがカルカッタに漂着して商品経済が浸透するが、財政は苦しくジズヤ税を復活。

     すると反乱が起きて英も侵略してきた。英はアンボイナ事件などで蘭と対立しインドに目を向けたが次は仏と対立する。カーナティック戦争、プラッシー戦争で勝利して仏は撤退すると徴税権を得て支配力を高めた(カルカッタ、ボンベイ、マドラス)。ここで東インド会社のインド人傭兵が鉄砲の薬包問題で反乱を起こして1858年にムガル帝国は滅亡、東インド会社は解体となる。

【1623】 アンボイナ事件:

     オランダ領・アンボイナ島(モルッカ諸島)にある英国東インド会社をオランダが襲撃して商館員を皆殺しにする

     これによって英香辛料貿易は頓挫し、オランダが利権を独占

1521年マゼランが到着したモルッカ諸島は香辛料の最重要地域、当時ポルトガル人が既に治めていた。1580年、ポルトガルは世界の王者スペインに併合。ところが1588年スペイン艦隊が英に敗れ、スペインが衰退するとオランダが台頭。1595年英東インド会社設立(エリザベス1世のレヴァント会社の後押し)の2年後にはオランダ東インド会社が設立された。お互い競争するが、香辛料では利益は薄かった。かくして英蘭は1619年に休戦協定を結ぶ。こんなときにアンボイナ事件は起こった。当時日本は英との交易を見限りオランダと交易していた。そして浪人たちの多くは蘭領に出稼ぎにいく。1623年日本人浪人はモルッカ諸島で英の傭兵として城壁を調査、すると蘭側はこれを不審に思って拷問する。蘭クーン総督の暗殺計画を暴露したということで惨殺(無実の罪だろう)。これによって英はモルッカ諸島を撤退し、平戸の英商館も1623年に閉鎖。以降ここは20世紀迄蘭の植民地となる。禍根を残したことで、この30年後に蘭英戦争が起こった。

 

【1877 ビクトリア女王がインド帝国の女王即位】   東インド会社は解体となり、インド総督府が分割統治を行う。

【インドの哲学は梵我一如】  ヴェーダ最大の哲人・ヤージュニャヴァルキアBC750-700頃? 「ブラフマン(世界)とアートマン(自分)が同一だと知った人間は苦悩から解放されて究極の心理に到達する」  対して釈迦は「アートマンは存在しない」つまり目的を見失って踊らされていませんか?と言った。この釈迦の死後、仏教組織は大混乱する。そうしたなかで戒律に厳しい上座部仏教と多くの人に開かれた大乗仏教(ナーガールジュナ)に分かれた。そこで生まれた空の哲学から「0」の概念が生まれた。「色即是空・空即是色」これは全てのものは実体がない・・・という意味である。しかし物事が存在すると思ってしまうことを「分別知」という。これさえも無い・・無分別知を悟ることが究極の悟り。。。

 

 

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エジプト史跡を巡る-20 メンフィス博物館

2020年08月07日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

ラムセス2世@メンフィス博物館

 

古代エジプトに於いて最も権勢を振ったファラオがラムセス2世

エジプト新王国19王朝のファラオで在位はBC1290-1224年

 

 

 ラムセス2世像のスフィンクス像

 

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中正紀念堂@台北

2020年05月22日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 中正紀念堂は、台北市中正区に位置する初代総統・蒋介石の顕彰施設で、中国の伝統的な宮殿陵墓式が採用されている。「中正」とは蒋介石の本名で、蒋介石が1975年に死去した際、行政院は国民の哀悼の意を表す紀念堂の建設を決定した。一方、この近くに二二八国家記念館という建物があり、これも蒋介石に因縁深い。

 ところで、この蒋介石について歴史的な背景を少し説明する。1894-1895に起こった日清戦争によって日本は清という大国を破って勝利する。其の時に日本は台湾を統治することとなる(下関条約調印は4/17、総督府設立は6/17)。要は台湾が日本の植民地となったとも言えるが、数十万人の日本人が台湾へ赴き、総督府主導で鉄道、農工業、学校教育、アヘン中毒患者撲滅、徴兵制などを整備した。総督府というのは、台湾を統治するために設置された日本の出先官庁である。例えば総督府・鉄道課では台北、台中、台南、高雄などの主要都市に駅舎を建設し鉄道で結んだから、これらの駅舎は現在日本にあるJRの駅構造とそっくりである。それから約50年間にわたって統治整備したが、第二次世界大戦に敗北すると、日本は台湾から撤退した。その時に中国大陸の共産党と争っていた国民党の蒋介石が、台湾に流れ着くような形で台湾の統治を始めた(1950年)。ところがこの国民党の政策は酷かったという。国民党官僚や軍人の汚職が酷く、台湾国民のストレスがつのっていた。(中国共産党による中国統治はもっと酷いけど・・・) そしていよいよ台湾国民の反発の中、発生したのが二二八事件である。これをきっかけに国民の抗議、デモが台湾全土に広がった。すると国民党党首・蒋介石は抗議者を逮捕・拷問、さらには殺害をしたという。この政権は約20年続くが体調不良などによりやがて姿を消すこととなる。ちなみに次に台湾を統治したのは民進党の李登輝、現在は蔡英文という女性が統治している。

 さて、ここで紹介するのは蒋介石を記念する中正記念堂と、蒋介石により弾圧された国民の名誉回復のため建設された二二八国家記念館である。いずれも台北にあり、台北のメトロ・中正記念堂駅を隔てて、それぞれが東西に位置している。しかしその規模は全く違う。二二八国家記念館は、日本統治時代に、台湾総督府が各種の近代化教育の実施推進のために建設した台湾教育会館が再利用されたもので、1993年には三級古蹟に指定され、2006年に現在の姿となった。 

中正記念館

 

二二八国家記念館

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エジプト史跡を巡る-19 エジプト史跡巡り 番外編

2019年10月28日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

エミレーツ航空

関空-ドバイ-カイロ

 

 

プライオリティ・パスで入るラウンジ@ドバイ

 

 

メリディエン ホテル@ギザ

  

 

カイロの夜

 

 

パピルスの店@カイロ

死者の書

古王朝の時代、死後の世界に於ける安楽な生活を送ることができたのは王や王族。ピラミッドの玄室壁面にヒエログリフを書き残した。次の中王朝の時代には死後の世界が王族以外の者にも開かれ、柩の底や外側などに経文を書いた。これが「柩文」と呼ばれる。そのあと、新王朝の時代に入って巻物(パピルス)に経文が描かれるようになった。これがいわゆる『死者の書』といわれるもので、死後に迎えるであろうさまざまな障害や審判を乗り越えて、無事楽園に到達するためのガイドブックであった。

死者・アニは14人の裁判官の前に座る

死者である書記生のアニは、妻ツツの後に従ってマーアトの広間に入る

アヌビス神は使者の良心を表す心臓を天秤の上にかける

もう一方には法と真実の象徴である羽毛をかける

2つが等しくなかったら有罪の宣告を受けるのである

秤の右手の方には、筆記用具を持ったトト神が控えて、審判の記録を書き留めようと待ち構えている。

トスの後には怪獣が控えており、審判で有罪になった死者をただちに食べるために体勢を調えている

秤にある心臓は真実であり、汚れのないことが証明されました

ホリス神が死者を天国に連れて行く

天国には冥界の神・オシリスと葬祭の神・ネフティスがいる

 

スフィンクスとクフ王のピラミッド

  

 

ラクダ

 

 

赤いピラミッドの守衛さん

 

考古学的にはお宝の山@階段ピラミッド横の遺跡

 

 

エジプト絨毯を織っている

  

 

エジプト航空でアスワンに到着

  

 

 ヌビア砂漠

 

 

ヌビア料理

 

 

アブシンベル神殿前のヌビア人

 

 

船に乗る

 

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エジプト史跡を巡る-18 エジプト史跡巡り@モハメッド・アリー・モスク

2019年10月28日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【モハメッド・アリー朝は1805年に自立】   モハメッド・アリー1769-1849はオスマン帝国のエジプト総督で、ワッハーブ派のワッハーブ王国を滅ぼしてスーダンを併合。またギリシャ独立戦争ではオスマン帝国側で参戦している。1831年の第一次エジプト(+英仏)・トルコ(+露:不凍港が欲しい)戦争ではエジプトが勝利するが、第二次では敗れて、ロンドン会議でシリアを奪われた。

エジプトの近代化に成功。エジプト木綿を栽培して資金をつくり、やがてエジプトをオスマン帝国から独立させる。1854年には仏レセップスとスエズ運河を建設、1869年に完成するが1875年には経営不振により運営権をイギリスに売却している。これによりエジプトは英の影響下に置かれて1882年には保護国化する。

 

 

 

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エジプト史跡を巡る-17 ルクソール神殿@古代都市テーベ

2019年10月28日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 ルクソール神殿は、ルクソール(古代のテーベ)東岸にある神殿複合体。もともとカルナック神殿の中心を形成するアメン大神殿の付属神殿として、エジプト第18王朝(紀元前1550-1295年頃)ファラオのアメンホテプ3世によって中心部分が建立された。やがて、ラムセス2世が、年に一度ナイル川の増水期に、南のハレムといわれたルクソールに船で訪れて妻子と過ごすオベト祭のために増築がなされた。神殿の後方には、アメンホテプ3世およびアレクサンドロス3世(紀元前332-323年)によって構築された祠堂がある。ローマ時代には、神殿およびその周辺は軍の要塞となり、その領域はローマ政府の基地であった。アメン大神殿とはスフィンクスの参道で結ばれていた。神殿入口となる第1塔門の前には1対のラムセス2世(紀元前1279-1213年頃[3])の坐像、その手前にはオベリスク(H25m、ラムセス2世の偉業が刻まれている)が立っている。オベリスクは本来左右2本あったが、1本はコンコルド広場に移された。塔門には古代エジプトの歴史が彫られている。ヒッタイト軍との戦争・カデシュの戦いが描かれている。

イアフメス1世第18王朝①        -BC1546 
   ┣アメンホテプ1世②        -BC1524 カルナック神殿を建設 
ネフェルトイリ ┗トトメス1世③    -BC1518 ヌビア遠征 アメン大神殿の造営継続  
          ┣トトメス2世④   -BC1504 
       ヌトネフェルト ┣トトメス3世⑥         -BC1425 ハトシェプスト補佐 カルナック神殿増築KV34  
             イシス
 ┣アメンホテプ2世⑦   -BC1419 エジプト帝国を維持 KV35 
                ハトシェプスト
┣トトメス4世⑧  -BC1388 アメン神官団の影響力の排除 
                  
 ティアア┣アメンホテプ3世⑨       -BC1349(第9代) メムノンのモデル WV22 
                    
ムテミヤ┣アメンホテプ4世⑩    -BC1333(アクエンアテン)アトン神を崇拝KV55? 
                        ┃ ┃ ┣ツタンカーメン⑫-BC1324 首都をテーベに戻す KV62  
                        ┃ ┃キヤ  ┣--   ┗アイ⑭   -BC1319
                        ┃ ┣アンケセナーメン   ┗ホルエムヘブ⑮(KV57 第18王朝最後)
                        ┃ネフェルティティ       ┗ラムセス1世① -BC1295-1294
                        ┣スメンクカーラー⑪    -BC1334 本拠地メンフィス KV55? 
                       
ティイ

 

ラムセス1世①       -BC1295-1294(KV16 第19王朝の第1代ファラオ ホルエムヘブの忠実な腹心) 
  ┣
セティ1世②      -BC1294-1279(KV17)ヒッタイトを押し戻しヌビアへ遠征 王家の谷に墓建設 
 シトレ ┣ラムセス2世③  -BC1290-1224(KV7)ヌビアに遠征 アブシンベル神殿を造営  
  
  トイ ┣カエムワセト(KV5)神官職 
      ┣
メルエンプタハ④         -BC1212-1202(KV8)60歳を超えての即位 
      ┃  ┃ ┣アメンメセス⑤    -BC1202-1199(KV10) 
      ┃  ┃タカト 
      ┃  ┣セティ2世⑥      -BC1202-1193
      ┃  ┃ ┃ ┣
      ┃  ┃ ┃タウセルト女王⑧    -BC1185(KV14 第19王朝最後)
      ┃  ┃ ┃ ┗セトナクト①    -BC1185-1182(KV14 第20王朝初代) カルナック神殿建設
      ┃  ┃ ┃   ┣ラムセス3世②  -BC1186-1152(KV11)海の民撃退(ジャヒの戦) カルナック神殿造営
      ┃  ┃ ┃メレネーゼ┃  ┃  ┣ラムセス4世③    -BC1151-1145(KV2)父が暗殺され、混乱を収束即位
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┃ ティイ ┣ラムセス5世④ -BC1145-1141(KV9)アメンの神官団の台頭 天然痘で死去
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┃   テントオペト
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┣ラムセス6世⑤       -BC1141-1133(KV9)クーデターで王位簒奪し、王墓も奪う
      ┃  ┃ ┃     ┃ イセト  ┣ラムセス7世⑥   -BC1133-1126(KV1)治世記録無
      ┃  ┃ ┃     ┃   ナブケスベッド
      ┃  ┃ ┃     ┣ラムセス8世⑦          -BC1125-1126(王墓不明 同王朝で最も不明瞭な支配者)
      ┃  ┃ ┃    ティエ  ┗ラムセス9世⑧      -BC1126-1108(KV6)
      ┃  ┃ ┃           ┣ラムセス10世⑨    -BC1108-1098(KV18未完成)
      ┃  ┃ ┃          ??
  ┣ラムセス11世⑩ -BC1098-1070(KV4)第20王朝終焉
      ┃  ┃ ┃             ??
      ┃  ┃ ┣サプタハ⑦  -BC1193-1187(KV47)政治の実権はタウセルトとバイが握る
      ┃  ┃ ┃
      ┃  ┃ ┃
      ┃  ┃ ??
      ┣イシスネフェルト2世
   
  イシスネフェルト1世

この頃テーベはアメン大司祭国家となりエジプトには南北二つの王家が並立する

カルナック神殿まで続く参道には羊のスフィンクスが並ぶ

ルクソール神殿第一塔門の前にはラムセス2世の石座像とオベリスクが立つ。ラムセス2世は9本のオベリスクを建造しているが、5本はローマ、1本はパリ。石像の肩にはラムセス2世のカルトゥーシュが刻まれている。

 

 

ラムセス2世の第一中庭とモスク

 

 

 

第二塔門前に立つラムセス2世の石像

 

 

ラムセス2世の台座のレリーフは上下エジプトの統合を意味している

BC17世紀頃、エジプトは下エジプト(異民族ヒクソスに支配さてていた)と上エジプトに分かれていた

両者間に戦争が起こり、BC1550年ごろ土着のエジプト人が、ヒクソスを支配層から追い出してエジプト新王国時代に入る(第18王朝期)

上下エジプトを統一したエジプト王はナイル川流域だけではなく、アジアのシリア方面にも進出するようになる

この時の王・トトメス3世は、シリアの属国も支配し、エジプト史上最大の帝国を築いた

 

 

アメンヘテプ3世の大列柱 東西の壁面には供え物の牛など、オペト祭の様子が刻まれている。中庭の奥にはオペト祭で使われた船を安置するところがある。この中庭はアレクサンダー大王によって再建されたことから大王のレリーフが残されており、アレクサンダーの中庭とも呼ばれている。

 

 

ラムセス2世とネフェルタリ妃

ツタンカーメンとアンケセナーメン妃という説明であったが・・・

 

 

 

アメンヘテプ3世の第二中庭 向こう側は列柱室

 

 

 

アレクサンドロス大王の間

 

 

大王の間の壁レリーフ

 

 

 

葡萄から赤ワインを作っている

  

 

至聖所

 

 

 

ルクソール神殿

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エジプト史跡を巡る-16 カルナック神殿@古代都市テーベ

2019年10月28日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 カイロから南へ650kmナイル川を登るとルクソールという古代にはエジプトの首都であった都市がある。ナイル川の東側にはカルナック神殿(現存する世界最大の古代神殿で、東京ドーム22個分)、ルクソール神殿があり、西側には王家の谷がある。カルナック神殿は新王国時代(紀元前1550-1069年頃)に繁栄した古代の首都テーベに建てられ、中心的な存在であるアメン神殿、ムトの神域、メントゥの神域から成る。紀元前1965-1920年頃の統治(中王国時代第12王朝のセンウセレト1世の頃)にはじまり、プトレマイオス朝の時代(紀元前332-32年)まで継続された。第18王朝(紀元前1550-1295年頃のファラオ系図は以下)には増改築が繰り返され、崇拝の中心地であった。このように歴代の王達がアメン神に忠誠を誓い、アメン神の加護を得るために増設していった。

イアフメス1世第18王朝①        -BC1546 
   ┣アメンホテプ1世②        -BC1524 カルナック神殿を建設 
ネフェルトイリ ┗トトメス1世③    -BC1518 ヌビア遠征 アメン大神殿の造営継続  
          ┣トトメス2世④   -BC1504 
       ヌトネフェルト ┣トトメス3世⑥         -BC1425 ハトシェプスト補佐 カルナック神殿増築KV34  
             イシス
 ┣アメンホテプ2世⑦   -BC1419 エジプト帝国を維持 KV35 
                ハトシェプスト
┣トトメス4世⑧  -BC1388 アメン神官団の影響力の排除 
                  
 ティアア┣アメンホテプ3世⑨       -BC1349(第9代) メムノンのモデル WV22 
                    
ムテミヤ┣アメンホテプ4世⑩    -BC1333(アクエンアテン)アトン神を崇拝KV55? 
                        ┃ ┃ ┣ツタンカーメン⑫-BC1324 首都をテーベに戻す KV62  
                        ┃ ┃キヤ  ┣--   ┗アイ⑭   -BC1319
                        ┃ ┣アンケセナーメン   ┗ホルエムヘブ⑮(KV57 第18王朝最後)
                        ┃ネフェルティティ       ┗ラムセス1世① -BC1295-1294
                        ┣スメンクカーラー⑪    -BC1334 本拠地メンフィス KV55? 
                       
ティイ

 

ラムセス1世①       -BC1295-1294(KV16 第19王朝の第1代ファラオ ホルエムヘブの忠実な腹心) 
  ┣
セティ1世②      -BC1294-1279(KV17)ヒッタイトを押し戻しヌビアへ遠征 王家の谷に墓建設 
 シトレ ┣ラムセス2世③  -BC1290-1224(KV7)ヌビアに遠征 アブシンベル神殿を造営  
  
  トイ ┣カエムワセト(KV5)神官職 
      ┣
メルエンプタハ④         -BC1212-1202(KV8)60歳を超えての即位 
      ┃  ┃ ┣アメンメセス⑤    -BC1202-1199(KV10) 
      ┃  ┃タカト 
      ┃  ┣セティ2世⑥      -BC1202-1193
      ┃  ┃ ┃ ┣
      ┃  ┃ ┃タウセルト女王⑧    -BC1185(KV14 第19王朝最後)
      ┃  ┃ ┃ ┗セトナクト①    -BC1185-1182(KV14 第20王朝初代) カルナック神殿建設
      ┃  ┃ ┃   ┣ラムセス3世②  -BC1186-1152(KV11)海の民撃退(ジャヒの戦) カルナック神殿造営
      ┃  ┃ ┃メレネーゼ┃  ┃  ┣ラムセス4世③    -BC1151-1145(KV2)父が暗殺され、混乱を収束即位
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┃ ティイ ┣ラムセス5世④ -BC1145-1141(KV9)アメンの神官団の台頭 天然痘で死去
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┃   テントオペト
      ┃  ┃ ┃     ┃  ┣ラムセス6世⑤       -BC1141-1133(KV9)クーデターで王位簒奪し、王墓も奪う
      ┃  ┃ ┃     ┃ イセト  ┣ラムセス7世⑥   -BC1133-1126(KV1)治世記録無
      ┃  ┃ ┃     ┃   ナブケスベッド
      ┃  ┃ ┃     ┣ラムセス8世⑦          -BC1125-1126(王墓不明 同王朝で最も不明瞭な支配者)
      ┃  ┃ ┃    ティエ  ┗ラムセス9世⑧      -BC1126-1108(KV6)
      ┃  ┃ ┃           ┣ラムセス10世⑨    -BC1108-1098(KV18未完成)
      ┃  ┃ ┃          ??
  ┣ラムセス11世⑩ -BC1098-1070(KV4)第20王朝終焉
      ┃  ┃ ┃             ??
      ┃  ┃ ┣サプタハ⑦  -BC1193-1187(KV47)政治の実権はタウセルトとバイが握る
      ┃  ┃ ┃
      ┃  ┃ ┃
      ┃  ┃ ??
      ┣イシスネフェルト2世
   
  イシスネフェルト1世

                                                    この頃テーベはアメン大司祭国家となりエジプトには南北二つの王家が並立する                                          

ネクタネボ1世(第30王朝 BC380頃)の頃に建てられた第一塔門

塔門には何らレリーフは無い

セティ2世のオベリスクは無くなっている

 

 

スフィンクス参道

羊の姿をしたアムン神のスフィンクスの前足元にはラムセス2世が立っている。これを過ぎると高さ43m幅113mの第一塔門、カルナック神殿の入口が見える

  

 

第1中庭にはセティ2世のオベリスク(左)、パネジェムの巨像(元々はラムセス2世であったが、後にファラオ・パネジェムが書き換えたという)がある。足元には妻のネフェルティの像が彫られている。

パネジェムの巨像は本来はラムセス2世の像だったが、第21王朝のパネジェム1世が名前を書き換えたという。いずれも左右対称にペアで立っていたそうですが、今は片方しかない

 

第1中庭の南側にはラムセス3世の神殿がある(メディネト・ハブ)

 

 

セティ2世の小神殿

 

 

 

ホルエムヘブが建てた第2塔門(ラムセス2世の王子たちが次々と礼拝する様子が彫られている。子供は100人以上という伝説が残されている)を入るとセティ1世(建設開始)、ラムセス2世(完成)が建てた大列柱室があります

アメン大神殿の大列柱室 16列134本の石柱 中央の12本は直径3mの開花式パピルス柱(当時この上には屋根があった)は超大国エジプトが復活を遂げた象徴とも言える。この偉業はラムセス1世だけのものだと言わんばかりに、セティー1世の名が刻まれたカルトゥーシュは削り取られている。

アメン神のレリーフの多くは顔が削り取られて破壊された。これはアクエンアテンが太陽神・アトンの崇拝を人々に強要すべく破壊したという。ラムセス2世は、年に一度ナイル川の増水期に、南のハレムといわれたルクソールに船で訪れて妻子と過ごした。これがオベト祭。ところで、このアメン神、テーベの地方神でしかなかったが、太陽神ラーと集合して統一国家の最高神・アメンラーとなったことで、歴代の王はその庇護を受けようと神殿などを寄進した。その結果カルナックは大神殿となった。

 

 

 

聖池の向こうはムト神殿

 

 

 

第3塔門を抜けるとトトメス1世のオベリスク(右H=22m) と ハトシェプスト女王のオベリスク(左H=30m)

トトメス1世の娘がハトシェプスト女王

トトメス1世のオベリスクは第3塔門と第4塔門の間に右側だけが残っていて、左側は台座と断片しか残っていない

ハトシェプスト女王のオベリスクは トトメス1世が作った第4塔門の先の左側にあります

ハトシェプスト女王のオベリスクは左側だけが残っていて、右側は倒れていて台座と本体の最下部が残るのみ

 

 

ピラミディオン(頂部)を含む上部の断片は聖なる池の近くに置かれています  向こうに第3-第6塔門が見える

アメンホテプ3世が築いたのが第3塔門

  

 

トトメス1世によって作られた第5塔門はハトシェプスト女王のオベリスクの先にある

 

 

第5塔門の東側には小さな列柱室がありトトメス3世が作った第6塔門があります

第6塔門を過ぎると狭い中庭を経て大神殿の中心である至聖所に至ります

 

 

神殿の周囲には穀物庫などの煉瓦遺跡がある。農民から徴収した穀物を備蓄して、労働者に報酬として分け与えていた

その備蓄量は2万人分という

  

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エジプト史跡を巡る-15 メムノンの巨像~王家の墓

2019年10月21日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

メムノンの巨像

 メムノンの巨像は、エジプト・ルクソールのナイル川西岸にある2体のアメンホテプ3世の像。元々は、背後に同王アメンホテプ3世の葬祭殿が控えており、その入口の部分であった。右側の像は地震のヒビにより、うめき声のような音を発していた。この現象は脚色され、メムノンの死別した母への呼び声だとされた。その後、巨像は下に落ちていた像の上半身を取り付けられると、声を出すこともなくなったという。 メムノンの巨像の足元にはティイ王妃が立っている。

 台座の上面、足の前方に、2行にわたる大きなヒエログリフが沈み浮彫で刻まれ、アメンヘテプ3世のカルトゥーシュ(王名を囲む長楕円形の枠)2個と形容語句が表されている。台座の正面中央に二国の統合を表すヒエログリフが見え、両側面にはエジプト南方の民族の名が、凹凸のついたカルトゥーシュの中に刻まれて列記されている。また、各カルトゥーシュの上には、両手を背中で縛られ、上エジプト固有の植物の茎で首を括られて、一列に繋がれた囚人たちの胸部が描かれている。この茎は、台座正面の中央に見える二国の統合を表すヒエログリフから発しており、上エジプトと下エジプトの統合維持を保障するファラオへの、南方諸民族の服従を象徴している。

 

 

 

アメンホテプ3世の神殿

 アメンホテプ3世は、古代エジプト第18王朝の第9代ファラオ(在位:紀元前1388年 - 紀元前1351年)トトメス3世、トトメス4世の時代を経て最盛期に王位を継承した。アメン神を崇敬し、テーベにカルナックのアメン神殿と直結する分神殿としてルクソール神殿を建設した。同地に広大な自身の葬祭殿も建設した。

  

 

 

アメンホテプ2世の神殿

 アメンホテプ2世  在位:紀元前1453年 - 1419年 は、古代エジプト第18王朝の第7代ファラオ。父トトメス3世同様に遠征を行い、父が回復したエジプトの国威と広大な帝国を維持した。身長183センチと、現存するファラオのミイラの中では最も長身とされている。

 

貴族の墓

 エジプトの世界遺産「古代都市テーベとその墓地遺跡」のナイル川西岸、ハトシェプスト女王葬祭殿とラムセウムの間にある山の斜面に、いくつもの穴が開いているのが見える。それらは、古代エジプトの高官や神官、職人の長官などの墓であり、「貴族の墓」と呼ばれている。はじめはファラオだけが不滅という特権が与えられていた。やがて貴族や高官だけではなく個人も身分と財産に応じて王家の墓の周辺に墓を作ることが許され、マスタバ形式の墓が作られた。

 ここには、保存状態の良い素晴らしい壁画が残っており、当時の農作業や猟、建設など古代エジプト庶民の日常が描かれている。貴族の墓は6つの地区に分かれ、特にクルナ地区のナクトの墓は、ぜひ訪れたい場所とのこと。ナクトは、トトメス4世の書記で天文官だった人物。 

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エジプト史跡を巡る-14 クロコダイル博物館

2019年10月21日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 

 

 

 

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エジプト史跡を巡る-13 コム・オンボ神殿

2019年10月21日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

アスワンの北へ40kmのところにあるコム・オンボ神殿

紀元前332-32年 プトレマイオス時代

金の丘

ホルス神(左側)とセベク神(右側)のために造った二重構造の神殿

 

 

上のレリーフはマート神(太陽神ラーの娘 正義の女神)

 

神々から捧げもの(命の鍵)をもらうプトレマイオス12世

 

クレオパトラ3世 在位:BC142-131年

レリーフの左二人がいずれもクレオパトラ3世 右はオシリス神

 

左 : トト神 と ライオンの頭を持つセクメト神 が聖水でプトレマイオス12世の体を清め

右 : 太陽神とホルス神が合体したラー・ホルアクティの横でオシリス神が王冠を装着している 

 

 

右はハヤブサの頭のホルス神、二重王冠を被っている

エジプト全土で愛された天空の神で、オシリス神とイシス女神の息子

 

 

左 : ハトホル神とホルス神がオリシス神の前で祝福を受ける

右 : ハトホル神とセベク神が貢物を受ける

 

 

子供の成長を記録したレリーフ

 

ミイラの手術を施していた部屋

 

イムホテプと妊婦、医療器具

下半身だけのレリーフはイムホテプ

イムホテプは第3王朝のファラオのジェセルに仕えた宰相で、ジェセル王のピラミッドを設計した

建築家としてのみならず、内科医としても優れ、死後には「知恵、医術と魔法の神」として神格化された

イムホテプの右には妊婦の姿や医療器具が描かれている

 

 

 

 

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エジプト史跡を巡る-12 ホルス神殿

2019年10月18日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【プトレマイオス時代 BC332-BC30】

ホルス神殿

ルクソールとアスワンのほぼ中間に位置するエドフという港町に巨大なホルス神殿がある

紀元前237年にプトレマイオス3世(壁画両端)によって造られ始め、約180年後のプトレマイオス12世が完成

プトレマイオス12世は有名なクレオパトラの父

壁画はイシス神、ホルス神、プレトマイオス12世

プレトマイオス12世が被っているのはアテフ冠

上エジプトの白冠のてっぺんに太陽円盤を載せ、ダチョウの羽を両側に付けたもの

さらに羊の角に2匹の聖なるコプラ(ウラエウス)が 付いている 

 

 

 

 

左中央:ホルス神に挟まれた太陽神ラー  右:ホルス神 

 

 

 

 至聖所にある船のみこし(夢の舟) と ネクタネボ2世の名が刻まれた花崗岩製の祠

ネクタネボ2世:古代エジプト第 30王朝最後の王 (在位前 360~前 343)

エジプト最後のファラオで、エジプト南部へと逃亡して亡くなった

ネクタネボの敗走から10年弱経過後にアレキサンダー大王が登場する

以降のエジプトはペルシャ、マケドニア、プトレマイオス朝ギリシャ、ローマの属州となる

 

 

天空の女神・ヌト

 

 

 ホルス神が父オシリス神を殺したセト神と戦っているところを描いているものがいくつもあります

古代のエジプト人は彼らの王であるファラオを太陽神ラーの子、ホルスの化身だと信じていた

ファラオがこの世の王である間は、彼自身をハヤブサの姿をしたホルス神の象徴としてあらわした

ファラオは死ぬと空を渡って冥界へ行き太陽神ラーと合体するという事が壁画から解っている

 

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エジプト史跡を巡る-11 アブ・シンベル神殿

2019年10月18日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【エジプト新王国時代BC1570-BC1070】

建造主は新王国時代第19王朝の王・ラムセス2世(BC1305-1213、即位はBC1270頃) 小神殿は最愛の王妃ネフェルタリのために建造

ラムセス2世の在位:BC1290年 - BC1224年

ヌビアの谷にあるアブ・シンベル神殿の全景

ナセル湖(琵琶湖の8倍の広さの人造湖)のほとりにあるヌビア遺跡群

アスワンハイダムの建設による水没を防ぐために65mの高所に、神殿全体が移設された

 

大神殿

4体のラムセス2世は太陽が昇る東を向き、それぞれの時期を現している

左から異国の太陽、二国の王、メリアモン、アトムに愛されしラムセス

右端のラムセス2世の右足脇には王女・ネブトタウイ、正面には王女・エセネフェル、左足脇には王女・ペンタンタ

右から二番目の ラムセス2世の右足脇には王母・トゥヤ、正面には王子・アメンヘルケプシェル、左足脇には王妃・ネフェルタリ

左から二番目の ラムセス2世の右足脇には王妃・ネフェルタリ、正面には王子・リアムセス、左足脇には王女・ベケトムゥト

 左端のラムセス2世の右足脇には王女・メリトアメン、正面には王妃・ネフェルタリ、左足脇には王母・トゥヤ

中央には4体のラムセス2世像にはさまれてラー・ホルアクティというハヤブサの顔を持った太陽神

4体はラムセス2世が30歳、40歳、50歳、60歳のときの石像

ラムセス2世の足元に並ぶホルス神

神殿の入口脇には奴隷として扱われたヌビア人のレリーフ

 

 

初めて神殿に入ったのはイタリア人のジョバンニ・ヴェルツォーニ

大列柱室の8体の像は、ともオシリス神の姿で表されたラムセス2世

 

天井は3500年前当時のままの色合いが残る

 

戦争会議の様子(ラムセス2世の言う事を聞いている兵士)

 

北の壁にはカディッシュの戦い(対ヒッタイト) 敵を踏んで、もうひとりの敵と戦っている

 ヒッタイトは、インド・ヨーロッパ語族、紀元前15世紀頃アナトリア半島に王国を築いた民族。青銅器しか作れなかった時代に、高度な製鉄技術によりメソポタミアを征服した。最初の鉄器文化を築いたとされる  エジプト王セティ1世は、ヒッタイトの宗主権下にあったシリアのガディッシュ王国、アムル王国に軍を進め、両王国をエジプトの影響下に置いていた。紀元前1285年頃、ヒッタイトのムワタリ2世は、両国を奪還すべく、古代エジプトとシリアのカデシュで衝突し、ラムセス2世のエジプトを撃退する。ヒッタイトの被害者は軽微、エジプト側は甚大であり惨敗したと言える。ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた。

 

戦後ラムセス2世はヒッタイト王の娘と結婚して平和条約を結ぶ

 

 

 玉座に座する国家神・アメンラーに貢物をするラムセス2世であるが、右端のムト神は立ってラムセス2世に玉座に座るように促しているようにも見える。このようにラムセス2世が神格化していくようすもレリーフとして残されている。

 

聖なる部屋・至聖所の4体の座像

左からメンフィスの商業の主神・ブタハ、太陽神・アメン・ラー、ラムセス2世、天空と太陽の神・ラー・ホルアクティ

冥界の神でもあるプタハには朝日の奇跡、光は当たらない

また、ラムセス2世が最後にはアメン神やラー神と同格になって座っていることを表す

 

 

アブシンベル小神殿

ここは最愛の王妃ネフェルタリのために建造され、左からラムセス2世、王妃ネフェルタリが交互に6体並ぶ

石像の間には「彼女の為に太陽は輝く 生命を与えられし者 愛されし者」と書かれている

 

ハトホル(愛と美の女神)神の柱

 

ハトホル女神のガラガラと蓮の花を持つネフェルタリは神格化されて頭上には太陽

 

ラムセス2世が髪の毛を握ることで、征服を表している

 

カイロ考古学博物館所蔵の石板

 

ラムセス2世がハトホル神(牛の化身)に蓮の花をささげているレリーフ 

 

 トト神(知識、学問の神)が命の鍵を持つレリーフ

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