【満州事変で国連脱退】 蒋介石率いる国民党は、北方の軍閥を抑え、共産党を弾圧して中国全土を支配している状況になった。この時日本は満州を持っていた軍閥の張作霖を殺害してもぎ取りにかかった。一方中国側は、日本の満州における鉄道建設権を無視して競合鉄道を建設したり、日本の鉄道建設のための調査員を殺害したりで、両者に緊張が走っていたときに起こった事件が柳条湖事件(1931/9)である。
それは日露戦争で得た満州鉄道を日本関東軍が爆破して、中国国民軍のせいにした(東京裁判で明らかになった)ことで、関東軍と中国国民軍との間で起こった軍事衝突事件である。この事件を口実にして、日本軍は満州に攻め入った。そして東北地方を支配して満州国を建設した。国連のリットン調査団の調査(1932/2月に調査開始、9月に報告)により日本軍事行動は非難され、国連を脱退。これを満州事変という。
・リットン:英伯爵1876-1947
日本は英が中東で傀儡政権を作ったのと同じことを満州で行った
サイクス・ピコ秘密協定
ヴァルフォア宣言
一方国民党・蒋介石は日本に対して抵抗することはなく、アメリカの支援を得て共産党への攻撃を行った。共産党は瑞金から内陸の延安に本拠地を移して12000kmを逃避しながらも、統一と日本対抗を提案した。この時民衆は国民党への不満を募らせ、1935年12月には一二・九学生運動を起こした(日本打倒)。しかし国民党はこれを武力で弾圧した。
この頃、共産党はここ延安で自給自足の生活を行い、毛沢東や周恩来は革命理論(暴力あるのみ)を展開していた。上海で女優だった江青はこのとき延安で毛沢東と結婚した。
張作霖の子・張学良1901-2001は西安に居た蒋介石を説得をしつつも、軍で囲んで監禁幽閉した。そして共産党のリーダー周恩来1898-1976と和議を結ばせた。(西安事件1936/12)これで第二次国共合作が成立して、抗日民族統一となった。
【海軍将校による犬養暗殺515事件 1932-5-15】 国連のリットン調査団の調査期間中の1932/5/15に軍人による犬養毅首相の暗殺事件が起きている(515事件)1923年関東大震災、1929年世界恐慌などで日本の経済が疲弊すると、大企業は政財界・軍と結びつき、国民からの不満がつのります。そんななか政府は軍艦を製造して軍備を拡大すると益々国民は疲弊する。こうした状況は日本だけではなく・・・かくして1930/4にロンドン軍縮条約が結ばれ軍艦の建造は欧米の7割に決められた。この政府の対応に軍は不満を持っていたときに新しく政権を握ったのが犬養政権である。関東軍が政府の考えとは違って満州を攻めて、ほぼ占領したことを、犬養政府が後押しするような形になった。こうした政治に大いに不満を持っていたのが海軍の若い将校たちである。民意を反映せずに企業と癒着し、天皇の意に背いて軍縮に調印するような政府は許せないとして起こったのが515事件で、犬養毅1855-1932は暗殺された。
慶應義塾の三田演説館での演説で知られる犬養毅は、福沢諭吉1835-1901とともに議会政治の必要性を訴えた。当時は言論の時代で、自由民権運動が高まる中、大隈重信1838-1922が立憲改進党、板垣退助1837-1919が自由党を結成する。1889年に大日本帝国憲法発布、1890年に帝国議会開設され、選挙権は僅かに1%であったが、犬養は大隈の立憲改進党とともに歩み始める。ここに立ちはだかったのは藩閥勢力である。薩長の独断的な政治を行う藩閥は立憲運動を弾圧してきたことで世の中は混迷する。やがて両者は1904年の日露戦争勝利に伴う満州鉄道権益を発端に対立。政府側・長州の山県有朋1838-1922は兵力を増強、利権拡大を主張、犬養はこれを大批判するのである。国力に見合わない軍事計画は失敗だと。時の首相は西園寺公望1849-1940、伊藤博文1841-1909暗殺 を引き継いで藩閥勢力となれ合って政権を担当したが、軍部拡張を西園寺が拒むと、山県有朋は西園寺内閣を総辞職に追い込んだ。
後任には桂太郎が選ばれたが、これに対して犬養は立憲主義を掲げて藩閥の横暴に対抗したのである。かくして1912年大正政変の幕が開いた。犬養毅は敵方の立憲政友会を引き入れ、天皇の御意思に逆らって憲政擁護運動を展開推進する。日露戦争後の重税緩和をアピールしたことで、民衆は熱狂した。かくして桂太郎は辞職、犬養は憲政の神様と称えられた。しかし戦いはこれからである。1914年第一次世界大戦勃発、空前の好景気となり一部階級のみが潤ったが民衆は物価高騰に苦しむ。1918年の米騒動を契機に各地で暴動が起こり、犬養毅は民衆に開かれた政治を目指す。
1919年選挙権拡大を提唱するが政友会・原敬1856-1921暗殺 により棚上げ、閣僚は軍部により占められ立憲運動は停滞する。1922年立憲国民党は解散となる。ここで犬養毅は憲政会の加藤高明1860-1926、政友会の高橋是清1854-1936暗殺 と手を組んだ。かくして1924年に護憲三派内閣が成立した。そして1925年には普通選挙法が成立(25歳以上の男子全員)したのである。これで71歳のナショナリズム犬養毅は政界を引退した。
1928年満州で関東軍が独断で実力者・張作霖を爆殺、この暴走で翌年田中内閣は総辞職、民政党内閣が誕生すると世界恐慌が襲ったことで民衆の生活を直撃する。このときに政友会が犬養毅を呼び戻したことで総裁に就任した。止まらない軍の暴走は首相暗殺を企てるが未遂に終わった。この時犬養毅は西園寺公望に軍を抑える案を持ちかけるが混迷する。天皇の意思もあって民政党との協力内閣であったが犬養毅は政友会単独内閣の首相に就任する1931年。かつて助けたことのある革命家・孫文との人脈を通じて、孫文の子・孫科と通じて、暴走する軍を止めようと考えた。
ところが、これを内閣書記官長が妨害、翌年1932年に上海事変が勃発したことで、犬養毅の中国との和平交渉は亀裂した。1932年5月1日犬養毅はラジオで和平を訴え、軍の侵略主義を否定したのであるが、5月15日、海軍将校9名が首相官邸を襲撃し、犬養毅は暗殺された。これで軍主導の内閣になり戦争の道に突き進むのである。
【盧溝橋事件 1937-7】 北京郊外の盧溝橋で発砲事件1937/7が発生した。日中どちらが先に発砲したのか・・・ということが問題となり、日中戦争が勃発。日本は当時の首都・南京を占領して汪兆銘の親日政府を樹立し、南京を失った国民軍は重慶に移して抗戦する。国共合作(国民党と共産党が二度目の合流)の目的は南京の日本政府を倒すことであったが、第二次世界大戦で日本が負けたことにより、日本軍は降伏の書類を差し出して引き揚げた1945年。すると共産党と国民党は、共通の敵を失ったことで再び戦いはじめ共産党が勝利する。国民党は台湾に逃亡して中華民国政府を維持する。また、1949年に中国共産党は中華人民共和国を樹立し、(主席は毛沢東、首相は周恩来)ソ連と同盟を結んで社会主義国として出発。毛沢東は農業の集団化をして大躍進運動をはかったが失敗した。また、工業化は英国並みにしようとするが、これも失敗。劉少奇が代わって国家主席となって計画経済を見直したが、毛沢東の反感をかって、毛沢東は劉少奇や鄧小平を批判して、多くの逸材を粛清する(紅衛兵を使った攻撃)という文化大革命を起こした。