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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

【中国-5】 満州事変、日中戦争を経て中華人民共和国へ(中国-7-1~7-3参照)

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【満州事変で国連脱退】   蒋介石率いる国民党は、北方の軍閥を抑え、共産党を弾圧して中国全土を支配している状況になった。この時日本は満州を持っていた軍閥の張作霖を殺害してもぎ取りにかかった。一方中国側は、日本の満州における鉄道建設権を無視して競合鉄道を建設したり、日本の鉄道建設のための調査員を殺害したりで、両者に緊張が走っていたときに起こった事件が柳条湖事件(1931/9)である。

それは日露戦争で得た満州鉄道を日本関東軍が爆破して、中国国民軍のせいにした(東京裁判で明らかになった)ことで、関東軍と中国国民軍との間で起こった軍事衝突事件である。この事件を口実にして、日本軍は満州に攻め入った。そして東北地方を支配して満州国を建設した。国連のリットン調査団の調査(1932/2月に調査開始、9月に報告)により日本軍事行動は非難され、国連を脱退。これを満州事変という。
  ・リットン:英伯爵1876-1947 
    日本は英が中東で傀儡政権を作ったのと同じことを満州で行った 
    サイクス・ピコ秘密協定 
    ヴァルフォア宣言        

一方国民党・蒋介石は日本に対して抵抗することはなく、アメリカの支援を得て共産党への攻撃を行った。共産党は瑞金から内陸の延安に本拠地を移して12000kmを逃避しながらも、統一と日本対抗を提案した。この時民衆は国民党への不満を募らせ、1935年12月には一二・九学生運動を起こした(日本打倒)。しかし国民党はこれを武力で弾圧した。

この頃、共産党はここ延安で自給自足の生活を行い、毛沢東や周恩来は革命理論(暴力あるのみ)を展開していた。上海で女優だった江青はこのとき延安で毛沢東と結婚した。

張作霖の子・張学良1901-2001は西安に居た蒋介石を説得をしつつも、軍で囲んで監禁幽閉した。そして共産党のリーダー周恩来1898-1976と和議を結ばせた。(西安事件1936/12)これで第二次国共合作が成立して、抗日民族統一となった。

【海軍将校による犬養暗殺515事件 1932-5-15】  国連のリットン調査団の調査期間中の1932/5/15に軍人による犬養毅首相の暗殺事件が起きている(515事件)1923年関東大震災、1929年世界恐慌などで日本の経済が疲弊すると、大企業は政財界・軍と結びつき、国民からの不満がつのります。そんななか政府は軍艦を製造して軍備を拡大すると益々国民は疲弊する。こうした状況は日本だけではなく・・・かくして1930/4にロンドン軍縮条約が結ばれ軍艦の建造は欧米の7割に決められた。この政府の対応に軍は不満を持っていたときに新しく政権を握ったのが犬養政権である。関東軍が政府の考えとは違って満州を攻めて、ほぼ占領したことを、犬養政府が後押しするような形になった。こうした政治に大いに不満を持っていたのが海軍の若い将校たちである。民意を反映せずに企業と癒着し、天皇の意に背いて軍縮に調印するような政府は許せないとして起こったのが515事件で、犬養毅1855-1932は暗殺された。

慶應義塾の三田演説館での演説で知られる犬養毅は、福沢諭吉1835-1901とともに議会政治の必要性を訴えた。当時は言論の時代で、自由民権運動が高まる中、大隈重信1838-1922が立憲改進党、板垣退助1837-1919が自由党を結成する。1889年に大日本帝国憲法発布、1890年に帝国議会開設され、選挙権は僅かに1%であったが、犬養は大隈の立憲改進党とともに歩み始める。ここに立ちはだかったのは藩閥勢力である。薩長の独断的な政治を行う藩閥は立憲運動を弾圧してきたことで世の中は混迷する。やがて両者は1904年の日露戦争勝利に伴う満州鉄道権益を発端に対立。政府側・長州の山県有朋1838-1922は兵力を増強、利権拡大を主張、犬養はこれを大批判するのである。国力に見合わない軍事計画は失敗だと。時の首相は西園寺公望1849-1940、伊藤博文1841-1909暗殺 を引き継いで藩閥勢力となれ合って政権を担当したが、軍部拡張を西園寺が拒むと、山県有朋は西園寺内閣を総辞職に追い込んだ。 

後任には桂太郎が選ばれたが、これに対して犬養は立憲主義を掲げて藩閥の横暴に対抗したのである。かくして1912年大正政変の幕が開いた。犬養毅は敵方の立憲政友会を引き入れ、天皇の御意思に逆らって憲政擁護運動を展開推進する。日露戦争後の重税緩和をアピールしたことで、民衆は熱狂した。かくして桂太郎は辞職、犬養は憲政の神様と称えられた。しかし戦いはこれからである。1914年第一次世界大戦勃発、空前の好景気となり一部階級のみが潤ったが民衆は物価高騰に苦しむ。1918年の米騒動を契機に各地で暴動が起こり、犬養毅は民衆に開かれた政治を目指す。

1919年選挙権拡大を提唱するが政友会・原敬1856-1921暗殺 により棚上げ、閣僚は軍部により占められ立憲運動は停滞する。1922年立憲国民党は解散となる。ここで犬養毅は憲政会の加藤高明1860-1926、政友会の高橋是清1854-1936暗殺 と手を組んだ。かくして1924年に護憲三派内閣が成立した。そして1925年には普通選挙法が成立(25歳以上の男子全員)したのである。これで71歳のナショナリズム犬養毅は政界を引退した。

1928年満州で関東軍が独断で実力者・張作霖を爆殺、この暴走で翌年田中内閣は総辞職、民政党内閣が誕生すると世界恐慌が襲ったことで民衆の生活を直撃する。このときに政友会が犬養毅を呼び戻したことで総裁に就任した。止まらない軍の暴走は首相暗殺を企てるが未遂に終わった。この時犬養毅は西園寺公望に軍を抑える案を持ちかけるが混迷する。天皇の意思もあって民政党との協力内閣であったが犬養毅は政友会単独内閣の首相に就任する1931年。かつて助けたことのある革命家・孫文との人脈を通じて、孫文の子・孫科と通じて、暴走する軍を止めようと考えた。

ところが、これを内閣書記官長が妨害、翌年1932年に上海事変が勃発したことで、犬養毅の中国との和平交渉は亀裂した。1932年5月1日犬養毅はラジオで和平を訴え、軍の侵略主義を否定したのであるが、5月15日、海軍将校9名が首相官邸を襲撃し、犬養毅は暗殺された。これで軍主導の内閣になり戦争の道に突き進むのである。

 

   

【盧溝橋事件 1937-7】  北京郊外の盧溝橋で発砲事件1937/7が発生した。日中どちらが先に発砲したのか・・・ということが問題となり、日中戦争が勃発。日本は当時の首都・南京を占領して汪兆銘の親日政府を樹立し、南京を失った国民軍は重慶に移して抗戦する。国共合作(国民党と共産党が二度目の合流)の目的は南京の日本政府を倒すことであったが、第二次世界大戦で日本が負けたことにより、日本軍は降伏の書類を差し出して引き揚げた1945年。すると共産党と国民党は、共通の敵を失ったことで再び戦いはじめ共産党が勝利する。国民党は台湾に逃亡して中華民国政府を維持する。また、1949年に中国共産党は中華人民共和国を樹立し、(主席は毛沢東、首相は周恩来)ソ連と同盟を結んで社会主義国として出発。毛沢東は農業の集団化をして大躍進運動をはかったが失敗した。また、工業化は英国並みにしようとするが、これも失敗。劉少奇が代わって国家主席となって計画経済を見直したが、毛沢東の反感をかって、毛沢東は劉少奇や鄧小平を批判して、多くの逸材を粛清する(紅衛兵を使った攻撃)という文化大革命を起こした。

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【中国-4-3】 20世紀 日清戦争の末に清滅亡し、孫文は初代中華民国臨時総統

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【日清戦争の勃発 1894-8】  アヘン戦争の最中、清国内に起こったのが太平天国の乱、洪秀全は乱れた世を直そうと反乱を起こし、義勇軍、米英軍がその鎮圧を行った。英軍はお茶、アヘンの輸出入自由化が目的であって清国滅亡までは望んでいない。かくして洪秀全などの改革側は米英の技術を学んで近代化を図ることとなる。ところで、李氏朝鮮に於いて、1882年に壬午軍の乱が発生。これは時の高宗王の王妃の改革に対して、王院君が反乱を起こしたものである。また、1884年には甲申の政変といって、王妃の改革に対する金玉均の反乱が発生する。しかしいずれの反乱も清国、日本国によって鎮圧された。1885年の天津条約には清からは李鴻章1823-1901が、日本からは伊藤博文1841-1909が調印にあたり、日清両軍の今後一切の李氏朝鮮からの撤兵を条件とした。ところが、1894年に起こった甲申農民戦争の鎮圧のために李氏朝鮮の依頼により清国兵が介入した(天津条約違反)ことで、日本は朝鮮半島に乗り出して日清戦争1894へと発展する。

【李氏朝鮮の独立 1897】  日清戦争で清国が敗退したことで、李氏朝鮮は独立して大韓帝国1897-1910となり、遼東半島は日本に割譲された。世界は清の弱体化を知ると、ロシア、独、仏は日本に対して三国干渉を行い、日本の勝利に伴う下関条約により割譲された遼東半島を清国に返還することを要求してきた。この結果としてロシアは清国から鉄道敷設権を得る。またロシア、日本、独、英、仏は清国の領土借地権を得た。これは実質上の清国分割であり、それに気づいた光緒帝らは、立憲君主を伴った政治体制の改革が必要であることを思い知るのである。

【孫文の辛亥革命 1911】  一方で、各国による借地化で不満を持った義和団が反乱を起こし(1899-1901)、列強に宣戦布告をするが、あえなく鎮圧されて北京議定書1901で清国は改革を迫られる。各地に上海租界などのような租界が開かれ、英不動産会社、蘭領東インド商業銀行が進出し、世界中からビジネスチャンスを求めて商人が押し寄せた。祖界では苦力と呼ばれた中国人労働者が奴隷の様に酷使された。(苦力貿易)

このときに現れたのが日本に亡命していた三民主義(人民が政治を管理する)を掲げた孫文1866-1925である。辛亥革命1911-1912によって清国の南半分を中華民国(主都は南京)とした孫文は、初代中華民国臨時総統 / 中国国民党総理に就任した(1912/1)。これによって中国初の議会政党・国民党が成立した。革命を手助けしたのは清朝の軍隊の将校たちで、孫文の盟友・黄興が革命軍司令官となり、武漢から全土に広がった。辮髪(満州族の習慣)や纏足といった古い習慣は廃止され、チャイナドレスが流行した。

これに対して清国は袁世凱を中華民国・南京に送り込んで対抗しようとするが、孫文は袁世凱を臨時総統に就任させる代わりに清国を攻めさせて宣統帝廃位(1912/2)に追い込んだ。(清国滅亡し、6歳の溥儀は退位) 袁世凱1859-1916が独裁政治を実施するようになると、孫文の国民党(宋教仁1882-1913を総理とする)と対立して宋教仁を暗殺し、国民党を弾圧し始めた。1921年7月には中国共産党という非合法組織がつくられ、ロシア革命のような都市労働者による革命を目指した。というのも孫文の国民党の勢力は弱く、社会は混乱していたのである。各地に残っていた清朝の軍隊が独自の勢力を持ち、軍閥と呼ばれて孫文を脅かした。

孫文は軍閥を打倒すべく、軍隊を創設した。教育を行ったのは周恩来、校長となったのは国民党の蒋介石である。1925年、孫文が死去すると蒋介石は軍閥打倒の戦いを開始した。この時蒋介石は宋美齢と結婚する。宋美齢は上海に地盤を置く浙江財閥の娘で、孫文の妻・宗慶齢の妹である。この結婚で蒋介石は潤沢な資金を得て、孫文の後継者としての地位を確立した。1928年、軍閥を征して中国統一が成し遂げられ、天安門には孫文の肖像が掲げられた。

1875年 : 江華島事件 日本と朝鮮の武力衝突

1882年 : 李王朝使節金玉均、朴泳孝が来日----改化派、近代化を目指して福沢諭吉に学ぶ:独立党結成
      明治政府は李王朝を独立国とみなしていた
      彼らは改革を日本に依頼
      当時の清国は家柄で身分は決定、社会的に成功する道はなかった----門閥制度
      福沢諭吉も1850年頃の中津藩の門閥制度に疑問を持っていた
      福沢諭吉は李朝の若者を慶応義塾@1858に入塾させた

1884年 : 甲申事変:独立党クーデター失敗、粛清
      李王朝の高宗の父・大院君と高宗の妻・閔妃との抗争
      閔妃が大院君を追放して身内を要職につけて権力を握る
      大院君が兵士を集めて反乱を起こすが失敗----日本公使館襲撃 日本人外交官死亡
      独立党の開化は邪魔
      閔妃一派は清に援助を依頼----清による支配からは脱却できなくなる
      日本は半島に大きく関与開始
      独立を目指す金玉均は井上薫、渋沢栄一、後藤象二郎、大隈重信、伊藤博文に相談
      
      

1894年 : 日清戦争
      

1904年 : 日露戦争

1910年 : 韓国併合 朝鮮植民地化

1913年 : 国民党・宗教仁暗殺--孫文亡命to東京

1914年 : 第一次世界大戦 日本は独に宣戦、独領の青島占領

                      →青島には現在もドイツ風の建物街が残っている

1916年 : 袁世凱死亡

      文学革命 陳独秀(北京大学教授)/魯迅/胡適 VS 軍閥政権(日本がバック) ⇔ 孫文(日本に逃亡)

1919年 : コミンテルン開催

      3/1 三・一独立運動 日本統治時代の朝鮮独立運動 ソウルに記念館がある

                 日本は武断政治をやめて融和的文化政治に切り替えた

      4/12 関東軍設立

      五四運動 By学生 VS 軍閥政権(段祺瑞) 

      中国国民党創設 By 孫文(バックは民族資本家 三民主義) : 軍閥政権打倒目的

                        → チャーリー宋:宋美齢

      第二次天安門事件@1989 のスローガンと酷似

1921年 : 中国共産党創設 By 陳独秀(バックは労働者、農民)     : 軍閥政権打倒目的

        国民党 :バックは資本家

        共産党 :バックは労働者

        軍閥政権:バックは日本

 

1924年 : 第一次国共合作@広州 By 孫文 ⇔ 日本+軍閥

1925年 : 北伐途中で孫文死去 後継者は汪兆銘? 蒋介石(反共の軍人 日本の軍隊を学んだ軍人)

      【汪兆銘】

         一族の出身は周恩来と同じ浙江省 紹興酒の町

         21歳で科挙合格    

         日露戦争での日本勝利に歓喜

         孫文の就任宣言書の草案

         31歳で仏留学  

         孫文の死後は蒋介石と対立

         共産党を容認して武漢政府樹立

         蒋介石に逮捕令 By共産党員虐殺

         満州事変では蒋介石と手を組む

         日本の傀儡政権首班 @南京国民政府 

      スポンサーは浙江財閥(金融資本)中心人物は宋嘉澍(宋靄齢、宋慶齢、宗美齢の父)

            → この財閥から日本の政治家に賄賂あり(軍閥-孫文-浙江財閥-日本政治家)

1927年 : 北伐後(軍閥が一掃されると)、蒋介石は共産党の弾圧を開始した(上海クーデター)

      国共分離

      南京国民政府樹立

      蒋介石は共産党の背後にいるソ連を警戒し、4000人以上の共産党員が処刑。この頃から日中戦争が勃発。

1928年 : 蒋介石北伐開始、張作霖(弱体軍閥政権) 爆殺される By 関東軍

        蒋介石(国民党)は張作霖の子・張学良(軍閥)と組んだ

        本格的に本格的に共産党(毛沢東@瑞金)打倒のため瑞金に向かう@1934 ⇒ 英米支援

        共産党(毛沢東@瑞金)は延安に逃亡 → 蒋介石は追いかけた!!

        共産党のバックにはソ連

1929年 : 幣原喜重郎の外交開始:満蒙権益を支持

      満鉄並行路線の建設

      旅順、大連の返還

      租界の一部返還  ----- 中国側は拒絶 

1931年 : 9/18 南満州鉄道爆破事件(柳条湖事件 9・18事件)
          主導したのは石原莞爾1889-1949(軍事思想家)と板垣征四郎1885-1948(関東軍参謀長、陸軍大臣)
                                  →・東京裁判では戦犯にならなかったことに激怒
                                   ・東条英機1884-1948とは対立
                                   ・ミッドウエー海戦惨敗後に東条英機から相談受ける
                                   ・膀胱がんで死亡

          日本が持つ南満州鉄道を張学良が爆破した・・・ということにする

         → 満州事変の始まり

           蒋介石は国際連盟に提訴 9/21

           国際連盟中国を承認 10/24   --- 日本軍撤兵通告

           連盟調査By吉田茂の案     --- 連盟による調査員派遣要請By幣原 

           関東軍が錦州攻撃       --- 欧米への情報漏洩に軍が激怒 11/29

           内閣総辞職 幣原外相退任 12/13

           幣原は昭和20年に首相に就任 米の傀儡でしょ?? --- 類を見ない日本国憲法発布

           1946/1/24 幣原・マッカーサー会談

           戦争放棄が信用を無くした日本が信用を取り戻す唯一の方法 By幣原

1932年 : 1/28 上海事変 日中衝突@上海共同租界  

      2/  満州国成立(首都は新京)  満州人の中国からの独立のように トップは宣統帝溥儀

         を置くことによって日本の満州統治を満州人による満州統治かのように見せる 

      国連から「英リットン調査団」が査察 → 満州国は認めないが日本の利権は認める

      蒋介石の中国政府は激怒、国連に訴えるも・・・蒋介石は共産党瑞金を攻撃中

1933年 : 日本は国連脱退 By国連が満州国を否認

      5/31 塘沽(たんくう)停戦協定 蒋介石は日本による満州国拡大を認める

         日中の軍事衝突・満州事変は停止(共産党打倒を優先)

1934年 : 蒋介石は、本格的に共産党(毛沢東@瑞金)打倒のため瑞金に向かう@1934 ⇒ 英米支援

1935年 : 冀東防共自治政府設立 By 日本

      ソ連等の共産圏南下を防ぐという意図 (蒋介石に共産党攻撃をさせやすくする意図)

      

1936年 : 西安事件@長安 --- 国共軍が手を組んで抗日

      張学良は周恩来と同盟を結び、蒋介石を拘束監禁

      蒋介石1887-1975の拘束監禁を知った宋美齢1898-2003(蒋介石の妻)は、張学良1901-2001に近づいて牽制

      すると、蒋介石は解放された。宗美齢と張学良は恋仲との噂ある

      宋美齢は孔祥熙1880-1967(宋美齢の姉・靄齢1889-1973の夫)と組んだ結果・・蔣介石は反日活動家となる

      つまり、バラバラだった国民党、共産党、軍閥が抗日すべく統一

      かくしてついに始まった!!

1937年 : 盧溝橋事件7/7 勃発

      第二次中共合作成立7/8 : 日本に対抗する中国

【第一次南京事件 1927】  この頃に第一次南京事件が発生している。袁世凱は張勲1854-1923(清国・宣統帝に忠誠を誓った軍人)を南京に送り込み、南京城を攻めさせている。この時の1っか月(3日という説もある)に渡る略奪、強姦などで、外国人を含む南京市民4000人を殺害している。この行動を鎮圧と称して軍功が与えられている。そして、1915年には袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ中華帝国大皇帝に即位した。翌年袁世凱は病死して段祺瑞1865-1936が後継者となった。

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【中国-4-2】 19世紀 アヘン戦争、上海繁栄、太平天国の乱による清国衰退

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【中国に於ける漢民族のナショナリズム:民族主義が高まる】  

・満州人による清の専制政治に不満を抱く漢民族
・アヘンに毒されて不満を抱く
・銀流出に歯止めがきかずに不満を抱く
・清(1616-1912)の全盛 
  第4代康熙帝1654-1722  
  第5代雍正帝1678-1735  
  第6代乾隆帝1711-1799  
         茶、絹、陶磁器貿易交渉するが却下
  

1840  アヘン戦争 
    【原因】 
     ・英は清から茶、絹、陶磁器を輸入   : 輸出はほとんどなく貿易赤字→銀放出 
     ・英はインドで製造したアヘンを清に輸出: 密移出 銀流出抑制政策 
     ・清はアヘンの全面禁輸、販売を禁止 
     ・英商人保有のアヘンを没収・処分  
    【結果】 
     ・英勝利 
     ・南京条約@1842 
     ・香港割譲 
1842  英産業資本家は清市場を開放→5-開港(広州、廈門、福州、寧波、上海) 
1845  上海の外国人居留地に 英租界設置(治外法権)1848拡張 
1847  上海の外国人居留地に 米租界設置(治外法権)1863拡張 
1849  上海の外国人居留地に 仏租界設置(治外法権)1861、1914拡張         
1851  太平天国の乱@1851-1864
1856  アロー戦争 対英仏:11-開港 → 自由貿易開始 
      莫大な賠償金 銀流出     
1863  上海の外国人居留地に 英米租界合併(治外法権)1893拡張  1920代上海は最盛期(人口世界最大300万)  
      【租界】
     ・東洋のパリと呼ばれて繁栄
     ・複数の国による統治が複雑(法、制度)
     ・犯罪が増加
     ・青幇(秘密結社、ボスは杜月笙1888-1951)によってアヘンが蔓延@1920代
     ・解体@1943

1861  洋務運動    
     ・中体西用(表面的西洋化) 造船所 軍需工場 インフラ整備
     ・第10代同治帝1856-1875/西太后1835-1908 
     ・国際法の重要性に気づく :未開国は文明国と戦えない現実
     
     
     
   

1884  清仏戦争@ベトナム

1894  日清戦争@朝鮮

1898  変法運動 
     ・戊戌の変法 
     ・第11代光緒帝1871-1908(西太后の妹・愛新覚羅氏の子)
     ・戊戌の政変 : 憲法よってそがれる帝政を嫌った周りの政治家は、光緒帝の政策阻止のため西太后を担ぎ出す
              保守派のクーデター
     ・中国分割

1899  義和団事件
     ・外国人排斥運動@山東省(孔子の地:独持ち)
        キリスト教布教活動が活発だった地 扶清滅洋
        清王朝は手助けする

1901  光緒新政  : 民族、民権、民生主義革命

1911  辛亥革命  : 民衆暴動                

【中国-7へ続く】

【中国マフィア青幇とは?】  

 ・大運河で米を南の穀倉地帯から北側へ運搬する組織
 ・帰りは塩の密運搬を実施
 ・アヘン戦争@1840で開港へ海外から来航
 ・大運河による資材運搬は衰退する一方で上海は繁栄する
 ・青幇の労働者は失業し、上海へ流入して組織化する(青幇、洪幇)
 ・組織化された青幇のボス・杜月笙1888-1951は浙江財閥と連携
 【上海を拠点とした金融資本家(アヘン売買で富)】
   ・浙江財閥   :その一人がチャーリー宋1863-1918(宋美麗1898-2003は娘)  
            青幇を利用して共産党と闘争
             →青幇に密なる軍人が蒋介石(共産党虐殺 妻は宋美齢)
            蒋介石は孫文の革命軍司令官となり軍閥を打倒(北伐)
             →蒋介石は青幇の杜月笙を利用して上海クーデター@1927
             →援蔣ルート確保は杜月笙@日中戦争
            日本は蒋介石国民党と戦う(日本の共産主義者が仕向けたか?)
             →モスクワ&米共産党スパイの思惑
             →日本と蔣介石国民党を戦わせて一気に中国&日本共産化?
            やがて毛沢東共産党が蘇る
             →日本は蒋介石国民党と和解すべきだったが・・・・石原莞爾主張
             →近衛内閣の思惑?? 作戦ミス??
             →近衛内閣風見章が和解を潰す・・・思惑通りか・・
            西安事件@1936で共産党討伐の蒋介石を監禁
            蒋介石は台湾(現在も青幇支配)、上海、シンガポールへ分散逃亡
            このとき杜月笙は香港に亡命
   ・サッスーン財閥:英ユダヤ人サッスーン1792-1864
            東インド会社
            孫はロスチャイルド家娘と結婚
   ・ジャーディン :東インド会社所属の英船医1784-1843
            ジャーディン・マセソン商会@1832
            英議会に献金
            グラバー支店、横浜支店
            英公使館焼き討ちの長州五人衆を欧米招待(飼い慣らす)
            サッスーン財閥とともに香港上海銀行創設
   ・W/デラノ   :ラッセル商会
            紅幇(明復興を願った太平天国建国--失敗)と取引
            ルーズベルト32代大統領の母方の祖父
 
   

【英国の三角貿易で銀流出防止】  

1616   清国は1616年に満州にて建国され、モンゴルを含めて1912年迄の約300年間統一していた王朝である。

1840   しかしアヘン戦争1840-1842をきっかけにして70年後には滅亡することになる。
     ・清国と英国間で取引されていたのはお茶。
     ・清の貿易港は広州で、公行という商社が独占していたため、英国は自由貿易を要請していたが清皇帝に拒否される状態であった。
     ・そこで英国が始めたのが三角貿易である。
     ・当時英国の植民地であったインドからベンガル地方の良質なアヘンを清国に輸出させ、清国からはお茶を輸入する。
     ・そして英国はインドに毛織物などを輸出する。
     ・それぞれ対価として銀を受け取ることによって、英国は銀の一方的な清国への流出を防いだ。

【1840年、アヘン戦争勃発】  
     ・アヘンに毒された清からはどんどん銀が流出することによって清国民の不満が高まった
     ・取り締まりの権限を持った特命大使・林則徐が積み荷のアヘン1400トンを廃棄
     ・英国外交官が殴打事件によってマカオに避難する
     ・それを武力で封鎖するなど問題はどんどん拡散していよいよ1839/9月には英国艦船による砲撃にまで発展
     ・アヘン戦争が始まった。
     ・英国は主都天津まで北上し、林則徐を罷免させて停戦するも、1842年には広東を占領。
     ・このように連勝を重ねて終戦を迎えて南京条約を締結した。
     ・条件は
       ①公行(お茶の独占商社)を廃止、
       ②香港割譲、
       ③上海等の5港を開港、
       ④2100万ドルの賠償金であった。

【1856年、第二次アヘン戦争(アロー号事件)】 
     ・緊張状況下でアロー号にのった中国海賊が清国の取り締まりに会ったときに、掲げていた英国旗を折り捨てたという。
     ・これがきっかけで第二次アヘン戦争1856-1860(アロー号事件が)発生。
     ・天津港の開港を目論んだ英国であったが休戦(天津条約)。
     ・帰還しようとした英国艦船に対して清国が発砲したために再戦、結果英国の勝利は北京条約で終わった。
     ・この時ロシアが仲裁役を行っている。
     ・北京条約の条件は、
       ①アヘン貿易の公認、
       ②天津など11港の開港、
       ③英国公使の北京駐在、
       ④キリスト教の自由布教、
       ⑤九竜半島の南を割譲などである。
       またロシアは沿海州を得てウラジオストクを建設している。

【アヘン戦争中の中国国内】   
     ・アヘン戦争の最中、清国内に起こったのが太平天国の乱、
     ・洪秀全は、滅満興漢(満州を滅ぼして漢人の国を興そう)を掲げて、アヘン、纏足・辮髪といった満州の伝統を禁止
     ・乱れた世を直そうと反乱を起こた。
     ・これに対して清軍は対応鎮圧できず、義勇軍、米(ウォード)英(ゴードン)が立ち上げた常勝軍がその鎮圧を行った。
     ・これによって洋務運動(中国の体制維持して西洋の技術を使う)が起こり工場、鉄道など西洋化。
     ・軍閥に吸収されて失敗する。

【1875年、江華島事件で大院君と高宗が追放】   
     ・英軍はお茶、アヘンの輸出入自由化が目的であって清国滅亡までは望んでいない。
     ・かくして洪秀全などの改革側は米英の技術を学んで近代化を図ることとなる。
     ・ところで、李氏朝鮮に於いて、1875年に江華島事件が勃発。
     ・大院君と息子の朝鮮国王・高宗が追放されて、日本と朝鮮が武力衝突。

【1882年、壬午軍の乱で王院君が反乱するが失敗】   
     ・壬午軍の乱が発生。
     ・これは時の高宗王の王妃・閔妃の改革に対して、王院君が反乱を起こしたものである。
     ・また、1884年には甲申の政変といって、閔妃の改革に対する金玉均の反乱が発生する。
     ・しかしいずれの反乱も清国、日本国によって鎮圧された。
     ・穏健改革派の王妃政権と急進派の金玉均が対抗して甲申事変を起こすが失敗。

【清国が天津条約違反したことで日清戦争勃発】    
     ・1885年の天津条約
     ・清からは李鴻章1823-1901が、日本からは伊藤博文1841-1909が調印
     ・日清両軍の今後一切の李氏朝鮮からの撤兵を条件とした。
     ・ところが、1894年に起こった甲申農民戦争の鎮圧のために李氏朝鮮の依頼により清国兵が介入した(天津条約違反)
     ・日本は朝鮮半島に乗り出して日清戦争1894へと発展する。

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【中国-4-1】 17世紀 清 -満州人(女真人)の国-- 愛新は騎馬民族・金 覚羅は女真の氏族

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【清 満州人の国】1644-1912 満漢併用制 皇帝は長子相続ではない

   清の人口は100万人 (明の人口は1億人であった)で元々の明の人民を治めるには、明の遺産を利用するしかなかった

1世紀頃 ロシアのツングースカ川流域にツングース系民族がいた   
     ┣貊  → 高句麗建国@6世紀  
     ┃      ┗唐と新羅によって7世紀に滅亡
     ┗靺鞨   
      ┣粟末靺鞨 → 渤海を建国@698   
      ┃        ┣日本と交易:遣渤海使  
      ┃        ┗遼(モンゴル系民族契丹の国)により滅亡@926
      ┗黒水靺鞨 → 女真族が金を建国@1115  
               ┣熟女真の完顔阿骨打が建国 
               ┃ ┗海賊化した女真族が日本に襲来:刀伊の入寇@1019   
               ┣砂金で強大化   
               ┣遼を滅亡@1125 
               ┣宗の王を連れ去る@1126
               ┗モンゴルにより金滅亡@1279
1279 以降の女真は元王朝、明王朝の下で散々 
       ┣建州女真 
       ┣海西女真
       ┗野人女真
1592 朝鮮出兵By豊臣秀吉により明の内政弱体        

1588 女真の建州女直が統一

1593 マンジュ国建国していたヌルハチは女直との戦いで勢力拡大

   金の女真人は、昔五大十国・北宋時代に北宋を滅ぼしていたことから、漢民族にとっての脅威

   文殊菩薩を愛するヌルハチは建国名をマンジュ(語源は文殊)とした

   これが訛って満州となる

1616 女真族(辮髪が伝統)のヌルハチ1559-1626が満州で後金を建国

   ヌルハチ:愛新覚羅氏 (愛新:金国 覚羅:氏族)   
    ┣ドルゴン 内モンゴル征服 朝鮮、ミャンマー、タイ、ベトナム柵封  
    ┃     万里の長城を超えて北京侵攻(長城の護衛将軍・呉三桂の寝返り)✖ VS 〇李自成(明の農民指導者)
    ┗     呉三桂は藩王となり領地を貰う
    
                ⑭万暦帝   
                  ┣⑮泰昌帝   
1644 北京は順の李自成に陥落させられ、 ┗⑰崇禎帝は万歳山で自殺福王朱由崧   
                    ┗福王・朱由崧 

   清成立

   副都の南明官僚---南明政権樹立(福王・朱由崧が即位@1644)弘光帝    

1645 清軍の侵攻を受けて南京が陥落 

1646 魯王・朱以海 唐王朱聿鍵が即位し(隆武帝):南明分裂 

   魯王・朱以海は鄭成功1624-1662を頼って亡命

   鄭成功:日本で生まれ田川福松(父は海賊) : 滅亡の明を擁護、台湾に渡って鄭氏政権の祖となる

       東インド会社蘭を打ち払った英雄  : 孫文、蒋介石と並ぶ国民の父

1673 三藩の乱 :第4代康熙帝は南明政権および台湾を制圧

1759 清は以下を制圧

   ・チワン族  :漢民族61% ┓ 

   ・トルキスタン:漢民族79% ┃(回族--ウイグル族)

   ・外モンゴル :漢民族61% ┣ 漢民族による入植で過半数以上になった経緯がある

   ・内モンゴル :漢民族79% ┛

   ・新疆ウイグル:ウイグル族45% 漢民族41% →補助金移民政策中

   ・チベット  :漢民族06% →増やすのは不可能By高地

   ・青海 

   チベットの仏教を保護 : 反乱防止

   しかし新疆ウイグル・藩部統一は困難なため自治を与えた

1882 ルキスタン(新疆ウイグル自治区)を直轄にする :当時から支配は困難であった

④康熙帝1661-1722は理想的な皇帝として知られ、1685台湾占領、三藩の乱鎮圧、ネルチンスク条約(ピョートル1世と国境確定)
 ┗⑤雍正帝1722-1735    : キャフタ条約(ロシアとの国境確定)、キリスト教禁止、軍機処設置、地丁銀制導入
    ┗⑥乾隆帝1735-1795 : 愛新覚羅弘暦  最盛期 
       ┗⑦嘉慶帝1760-1820   
          ┗⑧道光帝1782-1850  
             ┗⑨咸豊帝1831-1861  
                ┗⑩同治帝1856-1875  
                   ┗⑪光緒帝1871-1908  愛新覚羅
                      ┗⑫宣統帝1906-1967 愛新覚羅溥儀 

愛新覚羅とは「愛新:金国 覚羅:氏族」 初代は女真族(辮髪が伝統)のヌルハチ1559-1626 満州で後金を建国

14世紀から17世紀にかけて世界に羽ばたいた漢民族の明王朝を目指す習近平にしてみれば、今の中華人民共和国を14世紀に戻したい

赤の部分が現在も問題が起きている、チベット、新疆ウイグル地区、モンゴル地区である。

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【中国-4-0】 共産主義の国・モンゴル国 中国共産党に牛耳られている内モンゴル自治区

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【モンゴル国の歴史】

 ・1759 清は以下を制圧  
   ・チワン族  :漢民族61% ┓   
   ・トルキスタン:漢民族79% ┃(回族--ウイグル族)  
   ・外モンゴル :漢民族61% ┣ 漢民族による入植で過半数以上になった経緯がある  
   ・内モンゴル :漢民族79% ┛  
   ・新疆ウイグル:ウイグル族45% 漢民族41% →補助金移民政策中  
   ・チベット  :漢民族06% →増やすのは不可能By高地  
   ・青海  
 ・19世紀 清の支配下  
 ・20世紀 反漢暴動頻発   
 ・1911 ハルハ(外モンゴル)の王侯は清からの独立宣言 
 ・1921 ソ連赤軍の支援でボグド・ハーン1869-1924推薦   
 ・1924 コミンテルン指導でモンゴル人民共和国成立(ソ連に次ぐ社会主義国)  
 ・1939 日本と戦争  
 ・1945 満州国征圧、中国から独立承認   
 ・1945 ハーフンガー1908-1970(満州国官僚) 内外モンゴル民族の合併統一を唱えた民族独立運動 内モンゴル人民解放宣言  
      (モンゴル人は内モンゴルを南モンゴルと言っている)  
 ・1946 東モンゴル自治政府の成立
 ・1949 内モンゴル自治区の実権はウランフ1906-1988に代表される延安共産派が握る(共産化)
     毛沢東は日本、国民党を退けるために内モンゴルの協力が必要----自治認める
 ・1966 ~1976 内モンゴル人民革命党粛清事件 3万人虐殺 墓標なき草原@2018・著楊海英1964-
     内モンゴル独立運動に対する中国共産党による弾圧(文化大革命の時期)
 ・1982 胡耀邦は内モンゴル人民革命党粛清の誤りを認める 
     内モンゴル人は学校で中国語を習うが日常はモンゴル語 
 ・1992 モンゴル人民共和国は民主化により崩壊----モンゴル国に改名
 ・2024 現在の内モンゴル教育
      中国共産党の教科書使用
      モンゴル語使用禁止
      モンゴルの歴史はほとんど習わない
      中華民族の一部であるモンゴル民族の歴史は中国の歴史という風に習う(中国継続の歴史)
 ・現在  内モンゴル自治区主席はブ・シャオリン1958-:ウランフの孫
      真の実力者は中国共産党の李紀恒1957- 
      そしてモンゴル民族という騎馬民族は匈奴の末裔 
      したがって現在習近平は内モンゴルの騎馬民族を虐殺して根絶やしすることを考えている。

 

 

   

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【中国-3-3】 14世紀 明 -漢民族は世界で最初に大航海を実施@1405

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【明 漢民族の国】1368-1644 

元:科学はイスラムから  

明:科学はヨーロッパから イエズス会

1358 ①洪武帝1328-1398 元をモンゴルに追いやって明王朝を建国     
    ┃        (紅巾族の朱元璋 元々は貧農--王朝始まって以来の事---チャイニーズ・ドリーマー)
    ┃
        絶対王政の確立:宋時代のシステム化  
    ┃        
一世一元の令 :年号は洪武---マインドコントロール   
    ┃        息子に地方を任せる 
    ┃   
   
 ┣皇太子・朱標1355-1392   
    ┃ ┗②建文帝 1377-1402  
    ┗③永楽帝1360-1424:宦官制 南海遠征@1405-1433 By 鄭和1371-1434               
      ┃            →本当の大航海時代             
      ┃        父は洪武帝 四男                
      ┃        靖難の変:建文帝を討つ--朱子学違反→儒学者排除→宦官制          

      ┃        最盛期 首都を南京から北京に遷都
      ┃        鄭和1371-1434(ムスリム)は永楽帝の宦官として仕え、軍功を上げて重用された   
      ┃
      ┗④洪熙帝1378-1425 
        ┗⑤宣徳帝1399-1435 
          ┣⑥⑧正統帝:土木の変@1449オイラト族)で捕縛されるが弟に助けられる 弟を幽閉   
          ┃      衰退の時代
          ┣⑦景泰帝1428-1457
          ┣朱祐杬1476-1519
          ┃ ┗⑫嘉靖帝1507-1567
          ┃   ┗⑬隆慶帝1537-1572
          ┃     ┗⑭万暦帝1563-1620
          ┃       ┗⑮泰昌帝1582-1620
          ┃         ┣⑯天啓帝1605-1627
          ┃         ┗⑰崇禎帝1611-1644
          ┗⑨成化帝1447-1487  
            ┃   
            ┗⑩弘治帝1470-1505
              ┗⑪正徳帝1491-1521 
                ┗✖ 

    この頃明皇帝の権威が下がる(北虜南倭の時期) 
     北虜:オイラト、タタール  
     南倭:倭寇     

1550  北京方位(タタール・モンゴル族)@ ⑫嘉靖帝

    タタール・アルタン王はオイラト族、チベット族を侵攻制覇:ダライ・ラマ(大きな海の偉い人)と名付けたのはアルタン王

1582  一条鞭法@ ⑭万暦帝 :納銀税制(メキシコ、日本からの銀)盛期

1592  秀吉の朝鮮出兵 : 明の戦費浪費 @ ⑭万暦帝

              李氏朝鮮を応援して財政悪化

1644  李自成の乱がおきて⑰崇禎帝の自害により明は滅びる。

    3人の妻、子供を殺して裏山・(景山)で首つり自害

鄭和(ていわ)の遠征 1405-1433  :習近平が狙っているのはこれ

  圧倒的な大艦隊で数は208隻、延べ乗組員27000人 が、
   明に帰還したのは2000人だったという 
   多くは訪問先に移住(南洋華僑)

 航海先        ; バレンパン、マラッカ、アユタヤ、セイロン、ペルシャ湾、マリンディ、ベンガル
 最後の7回目の航海先 : スラバヤ/サムドラ/セイロン/ホルムズ/モルディブ/東アフリカ/メッカ

11

万里の長城 

 繋げたのは①永楽帝402-から⑭万暦帝1572-である

 ちなみに秦の始皇帝が整備した長城は、匈奴が馬で飛び越えることができない程度

紫禁城@北京 1402-1421@明の永楽帝が創健 → 清時代に拡大造営

 紫微星(金星)→紫微宮→紫禁城

 赤い壁:故宮シンボル 邪気を払う色 邪気を払う龍 水の龍

 黄色い屋根:尊い色 皇帝の色 伝説の動物:鳳凰が率いる 

 故宮博物館の前身

 天安門がある城(全部で門は11ある)

 500年間で24人の皇帝が支配した

 太和殿天上には玉を咥えた龍 : 軒轅鏡(けんえん)

 白磁器の最高傑作 最上景徳鎮

 世界最大の玉@新疆ウイグル地区に夏王朝時代の彫刻

 チベット仏教仏像多数 

 刺繍と竹細工 From 楚州 南の国への敬意

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【中国-3-2】 13世紀 元 -最強の騎馬民族モンゴルは欧州・中東迄制覇した

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【元 モンゴルの国】1271-1368

【モンゴルの家系】

ハン(首長は投票で選ばれる:武力ではなく人徳が重要 世界初の民主主義@モンゴル )

ところがフビライは武力制圧により第5代即位@元

①チンギス・ハン1162-1227(全モンゴル部族統一) 映画:蒼き狼  
 ┃   ナイマンを滅ぼす@2006   
 ┃   ホラズム・シャー朝(シルクロード牛耳る)を滅ぼす:ハンの使節団500人は虐殺されたという(オトラル遺跡:カザフ)
 ┃   西夏を滅ぼす   
 ┃
 ┣ジュチ1177-1225    
 ┃  ┗バトゥ1207-1256  : キプチャク・ハン国 
 ┃   キエフ公国@1240ポーランドを滅ぼす(ワールシュタットの戦い@1241):②オゴタイの期待に応える
 ┃      
 ┣チャガタイ1185-1224  : チャガタイ・ハン国(父から相続)    
 ┣②オゴタイ1186-1241  : オゴタイ・ハン国   
 ┃  ┃  金を滅ぼす  
 ┃  ┣③ダユク
 ┃  ┗カシン1209-1234  
 ┃    ┗ハイドゥ?-1301 (1266-ハイドゥの乱:フビライの即位を認めない)   
 ┗トゥルイ 1192-1232     
     ┣④モンケ 1209-1259
    ┃  チベット、大理を滅ぼす 南宋落とせず マムルーク、朝鮮遠征
    ┃ 
     ┣⑤フビライ1215-1294 :選挙なしで即位 領土は「元」
    ┃  高麗、日本へ遠征(南宋落とすための拠点--失敗)
    ┃
    ┣フラグ  1218-1265 :イル・ハン国 
    ┃  イスラム・アッバース朝へ遠征バグダッド滅ぼす エジプト・マムルーク朝攻めは失敗:十字軍の策略か?   
    ┗アリクブケ1219-1266(フビライが殺害) 

1351-1368 紅巾の乱:漢民族の反乱

      漢人、南人が支配層になれない差別が反乱を起こす

      紅巾族の朱元璋(明の初代皇帝)は元を北側に追いやって(北元)明を建国 

 

   

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【中国-3-1】 10世紀 五代十国--北宋--南宋

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【五代十国から北宋】 907-1127  

907 唐滅亡

916 初代皇帝・朱全忠が後梁を建国
        ┣②朱友珪886-913 父殺し 
        ┗③朱友貞888-923 兄殺し
   → 朱温といって唐に寝返り朱全忠の名を貰った

927 契丹が遼を名乗

947 世宗@後周で即位@954

960 初代皇帝・趙匡胤927-976により北宋ができる。
        ┗②太宗939-997  趙匡胤の弟 
          ┗③真宗968-1022
            ┗④仁宗1022-1063
              ┗□□□
                ┣⑧微宗1082-1135   金の捕虜
                ┃ ┗⑨欽宗1100-1161 金の捕虜
                ┗高宗--臨安に逃亡

   開封@河南省:北宋王朝の都 12世紀迄

   開封は人口100万人の世界最大 文治政策、山水画(李成、董源)   

1004 遼との間に平和的盟約を結ぶ。

   4代皇帝仁宗1022-1063

1070 財政難から王安石1021-1086は新法の改革を行う

   司馬光1019-1086などの旧勢力(金持ち貴族、貧乏は助ける必要ない)から反発を受けて挫折。

1125 北宋は金(女真人)と手を組んで遼を滅ぼす。見返りに銀+奴隷を渡す約束をしていたが無視

   靖康の変:金が敵となって侵攻してきて蝕まれる。

   9代皇帝欽宗1100-1161

1126 靖康の変では8代皇帝・微宗と9代皇帝・欽宗が金の捕虜になって北宋は滅亡(同行した秦檜は家族で帰国)

   秦檜は、金に和平を頼まれたスパイとの噂があった

【南宋】 1127-1279

1127 8代皇帝・微宗の弟高宗は臨安に逃亡:南宋の時代に変わる (金との境界は淮河)

1142 金の威力に対して南宋は主戦派と和平派に分かれ、和平派が紹興の和約を結んで一件落着

   主戦派の岳飛は処刑された。しかし戦えば主戦派の岳飛の意見の通り勝てたかもしれないという 

   しかし今では和平派の秦檜は売国奴扱い、主戦派の岳飛は英雄扱い(北方健三の岳飛伝 中国映画・岳飛参照)である。金(女真)に金を払って平和を勝ち取るくらいだから経済は活発で銅銭の鋳造が活発に行われ、紙幣が世界で初めて発行された。かくして泉州、明州、杭州、広州が栄えて私貿易が広がり、朱子学(皇帝支配体制を支える思想)が朱熹により大成される。

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【中国-2-5】 諸子百家とは、人物、学派をいう 孔子&孟子

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

諸子百家が発達したのは春秋戦国時代、諸子とは孔子・老子などの人物、百家は儒家・道家などの学派をいう。春秋戦国時代に求められていたのは経済の発展(商工業)と人材(家柄ではなく実力万能)の確保。

儒家 : 孔子---孟子(性善説)/荀子(性悪説)
     ┣儒教の開祖 
   
     ┣BC552-BC479@戦国時代の魯
           
     ┃             ┗周王朝武王の弟周公旦の息子・伯禽?-BC997  
     ┣周の首都洛邑へ留学@34才---師匠は老子(李耳BC571-BC471)
   
     ┣斉へ行くが失望@35才---君君臣臣父父子子           
     ┃┗名宰相・晏嬰BC578-BC500     
     ┣40才にして惑わず・・・実は惑う孔子  
     ┣魯で役人職に就く@52才 ⇔ 少正卯?-BC496(政敵だが人徳のある人物)    
     ┣50才にして天命を知る 大司寇@54才---少正卯を誅殺---弟子から非難囂々           
     ┃             ┗論語に記載ない 
     ┣政治家辞職@55才(追放された)     
     ┣放浪の旅@6-諸侯 衛宗曹鄭陳蔡---採用されず  
     ┣60才にして耳従う というが実際には従わない  
     ┣魯に帰郷@68才---弟子育成  
     ┣最晩年---多くの名言---実は自分の反省 
     ┣自分で本を書いてはいない  
     ┣論語:孔子の死後に弟子が書いた言行録---後に政治の道具として利用される           
     ┃ ┗教えを受け継いだ中国人は誰も居ない 
     ┗受け継いだのは日本人
     
法家   : 孟子(性善説)   と  荀子(性悪説)の二派にわかれる           
     ┃   ↓             ↓        
     ┃・儒家--徳治主義      法家--法治主義        
     ┃・伝統的                  
     ┃・君主の自由        
     ┃・春秋時代         戦国時代        
     ┃・不文法          成文法 :初は子産@BC536        
     ┃・封建制度;既得権益    俸禄制度:有能重視        
     ┃        
     ┣商鞅BC390-BC338@衛--傍系の王子                    
     ┃・魏(晋分裂)の役人となる                  
     ┃ 李克(孔子の弟子で名宰相)を師とするが宰相になれず                 
     ┃・秦へ行く:当時は孝公(6代後が秦の始皇帝 嬴政)                 
     ┃ 法の重要性を説く---差庶長任命(大臣クラス)        
     ┃ 第一次変法@BC356---戸籍、什五の制、爵位               
     ┃ 第二次変法@BC350---洛陽から咸陽(長安)に遷都                
     ┃            県制---官僚が治める    
     ┃            度量衡、新田開発   
     ┃ 呉城の戦い@BC340---魏に勝利して領地獲得---商鞅と名乗る               
     ┃ 孝公死亡@BC338 ---恵文王即位→商鞅逃避@函谷関   
     ┃ 商鞅死亡@BC338 ---死体を八つ裂きの刑&族滅By恵文王    
     ┃ 

法家 : 韓非子(秦の始皇帝に仕えた天才)、李斯(韓非子を恐れた)

墨家 : 墨子(儒家を批判し無差別愛を主張)

縦横家: 蘇秦の合従策 張儀の連衝策

【中国の哲学】

老子 : 道/無為自然:無分別知の境地

荘子 : 難解な老子思想をわかりやすく解説した 朝三暮四 胡蝶の夢 戒律も方便

 

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【中国-2-4】 3世紀 秦の始皇帝は元々イスラエル人?

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【秦の先祖は馬ゆかりの非子】   紀元前9世紀、非子という人たちが住んでいた小さな国で多くの馬が育てられ国王に献上された(By司馬遷)。育った馬を見て喜んだ王は非子に秦という国を授けた。この非子が秦の始皇帝からさかのぼること37代前の祖先だという。この地域は草、水、塩分が豊富で、現在も馬の産地で取引がされている。彼ら秦の先祖は西戎(野蛮な民族と思われていたが、金銀の細工がほどこされた墓、遺跡から見直されつつある)という遊牧民で、馬の飼育に長けていたことで戦いに勝ってきた。

【秦の始皇帝は趙政】   秦の始皇帝259-210・・・と皆さんは言う。秦という国を拡大統一した初代皇帝という意味だが、誰? 案外その名前は知られていない。趙の首都で生まれたため「趙政」という。北の寒冷地の遊牧民でり騎馬民族であった匈奴には攻撃しなかったようで、守りだけは固めた。それが現在でも残っている万里の長城である。長さは6000kmを超えるものであるが、すべてが写真で見るような立派なものではなく、地方のほとんどの部分は馬が飛び越えることができない程度の簡素なものらしい。また、秦の始皇帝の墓といえば、西安市(シルクロードの出発点)のすぐ東にある兵馬俑。(写真は兵庫県太陽公園にある兵馬俑の現場を再現したもの)本来は色彩豊かな ものであった。因みに武器(弩というボウガンのような弓の武器など ヌー族が得意)を手にしたものは騎射俑という。

BC210 始皇帝死亡

BC209 陳勝・呉広の乱  :農民反乱 敗北

    趙高政治→堕落している

BC206 ~202 漢楚の乱 :項羽@楚 劉邦@漢(今の四川省)登場

BC202 垓下の戦い 項羽@楚✖ VS 〇劉邦@漢 →人財力の勝利

始皇帝BC259-210     呂不韋 阿房宮 兵馬俑  
 ┣扶蘇BC?-210
 ┃         
 ┣胡亥BC230-207
 ┗子嬰BC239-206 

         
 ┣李斯宰相 BC?-208        
 ┣韓非思想家(韓非子の著者) 李斯の罠にはまり獄中死       
 ┣蒙恬BC?-210 :匈奴討伐  趙高たちの陰謀によって扶蘇と共に自害(胡亥(二世皇帝)からの自殺命令)         
 ┣蒙毅BC?-209        蒙恬の弟     趙高によって誅殺
 ┗趙高BC?-207 :宦官    扶蘇潰し 馬鹿:権力になびく者

  

【秦の始皇帝の事績】   今まで君主を王と呼んだが「皇帝」の称号をつくった。郡県制を敷き、金、測量単位、道幅など各種統一を図り、法を重視した。一方で財政悪化により税徴収を厳しくするが、法を重んじるばかり遅刻など違反すれば死刑という厳しさに陳勝・呉広の乱が発生。また宦官・梢高が権力を握っていたが、始皇帝の死後2代皇帝の処に鹿を連れて行って馬です!どうぞ!・・・というふざけたふるまいに対して2代皇帝が自身の権力の落ちぶれた様に気づく・・という馬鹿の故事がある。

【秦の始皇帝の顔を復元したらユダヤ系だった?】   
2010年頃、NHKスペシャル番組で秦の始皇帝の顔を復元していた。
 ・出来上がった顔は典型的なモンゴル系の顔だと誰もが思っていたが、
   ぜんぜん予想とは違ってギリシャ人のような堀の深いヨーロッパ系の顔であったから驚いた。
   番組はそこで終わっていたが、のちに始皇帝はユダヤ人の末裔ではないか?という情報に出くわした。
 ・ミケランジェロの彫刻にあるダビデBC1000-961。彼は古代イスラエルの国王であった。
   羊飼いの彼は、初代イスラエル王サウルに仕え、のちにユダで王位に就くと、
   エルサレムの地に都を置いて全イスラエルの王となり、40年間君臨したという。
   やがてダビデの子・ソロモンBC1011-931は古代イスラエルの最盛期を築いたとされる。
 ・【イスラエル分裂】
   ソロモン王の死後、BC930年にイスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂する。
   ユダ王国はユダ族とベニヤミン族から構成され、北のイスラエル王国はそれ以外の十部族からなる。
   やがて北イスラエルはBC721年にアッシリア捕囚となるが、アッシリア滅亡後は東へ移動した。
   黒海を経由して今のカザフスタンから現新疆ウイグル地区を通って耶馬図、
   弓月(弓月城壁がある地域で2世紀に東方キリスト教に改宗している)、那拉堤、開封へと移動している。
  【東方キリスト教】 
   ネストリウス派キリスト教徒の為にローマ帝国を追放された人は大秦と言っていた。
   これが弓月国を経由して渡来した人を秦氏と言った・・・別案
 ・【始皇帝の末裔の日本との交流】By秦氏の新撰姓氏録 
   第14代仲哀天皇の頃、弓月出身の秦の始皇帝の14代目の功満
王が渡来、養蚕技術を伝承したという。
 ・【秦氏の渡来】
   弓月国の秦氏末裔・融通王(弓月君)は開封を経由して朝鮮半島・百済に到着。日本に渡ろうとすると新羅の邪魔がはいった。
   そこで日本の第15代応神天皇の援護を受けて、数万人の秦氏が瀬戸内海を経由して大坂へ到着@6世紀
   当時の大坂のほとんどは遠浅の海。秦氏は鉄製農具で干拓を行った。
   その時の大量の泥、土砂を積み上げて当時の天皇の為に記念碑を建造した。それが現在も残る前方後円墳(最近の説)
   平安時代になると秦氏は自分の本拠地を桓武天皇に提供(平安京)   

ところでソロモン王には、シバの女王との逸話(旧約聖書)がある。
  シバの女王はソロモンの知恵の噂をきき、多くの贈り物と難問をもってソロモンを訪ねた。
   すべてを答えたソロモンに多くの香料、宝石を与えたというもの。
   シバの女王はエジプトとエチオピアを支配したという。
   シバの女王はメネリク1世を産むと、彼はBC10世紀頃のエチオピアを統治し、その後3000年もの間ソロモン王朝を存続させたという。
   ラリベラはエチオピアに於ける聖地の一つ。
   エルサレムがイスラムによって陥落したときに、新たなエルサレムを作る目的でつくられた。
   何世紀に渡り、現在も尚巡礼の地となっている。

【京都・太秦は秦氏の本拠地】    と言われているが、秦は始皇帝に由来しているらしく、秦氏は3-4世紀頃に2万人の規模で日本に渡来してきた。そして聖徳太子、蘇我馬子の時代には大和朝廷の重用された秦河勝などは、この秦氏であることは言うまでもない。 

 

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【中国-2-3】 3世紀 三国志(曹操の魏 - 孫権の呉 - 劉備の蜀)~隋(再統一)~唐(外戚は独孤)

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【宦官、外戚、豪族が台頭した不安定な時代から三国志時代へ】   三国志というのは後漢から晋までの三国時代の興亡歴史をいう。時代は180-280年の約100年。幼き第12代・霊帝156-189を外戚が支配するところからこの時代は始まる。宮中には宦官(十常侍:トップ10)が置かれ、民衆に重税を課し、権力欲がうずまくことで民心は完全に離反して次第に腐敗していく。

184  黄巾の乱 → 三国時代に     
     ┣医者・張角?    -184(太平道教祖--自然を操る)を指導者として組織的な農民反乱をおこす     
     ┣
漢軍の大将軍は何進?-189(妹を霊帝の妻にした外戚)     
     ┗
農民側は漢軍に鎮圧されたが、この動乱は全国に広がり三国時代へと移り変わる。     
   

       何進?-189(妹を霊帝の妻にした外戚)    ✖ ⇔ 〇  張譲135-189(宦官・十常侍の長) 
    官軍側 ┣曹操155-220(宦官)---魏の基礎を作った   @189   ✖
        ┣劉備161-223(王家の末裔だという人徳の男)        ↕ @189 霊帝の世継ぎ争いでもある      
        ┃   ┣関羽?-220 --桃園の誓             〇
        ┃   ┗張飛?-221 --桃園の誓            袁紹?-202(三公というエリート一家)
        ┣孫堅155-192(孫権の父)                ┗董卓139-192--張譲殺害@189 赤兎馬の持ち主     
        ┗後漢の丞相・魏王                                                                    ┣呂布?-199(馬鹿な無敵)主君殺し董卓に就    
                           関羽  〇 ⇔ ✖        ┣華雄?-191    
                                                                                    陽人の戦い@191  ┗王允137-192   
                                        ┗貂蝉:王允の養女 中国四大美人

  
                          

189  霊帝崩御

190  袁紹は反董卓連合の盟主--孫堅--関羽  ⇔  華雄 董卓

191  華雄戦死--陽人の戦い---董卓は洛陽焼き払い長安に撤退

    孫堅は皇帝の玉璽を入手@燃えた洛陽   
           ┗孫堅の子孫策は玉璽を世話になっていた袁術に渡す(孫術の幹部と交換)

192  董卓は呂布に殺害される

199  官渡の戦い : 曹操〇 VS ✖袁術155-199

199  曹操〇 VS ✖呂布?-199

 

曹操は当時、袁紹?-202(三公というエリート一家)と袁術の勢力争いに於いては袁紹側についていた。かくして袁紹の勝利となると、大勢は曹操に傾く(強さこそ正義) そして董卓によって軟禁されていた皇帝・献帝を匿う。当時宦官や外戚の横暴によって腐敗していたため、漢の皇帝の権威は落ちていた。その皇帝を曹操は利用すべく近づき、自分の領土に迎え入れた。そして袁紹(40万軍)と曹操(5万軍)が対立、曹操の奇襲攻撃によって袁紹は敗北、曹操は大陸の北半分を統治。

この時大陸の南を統治していたのが劉備。劉備は元々袁術に付いていたが、形勢が危なくなると曹操側に就いたり袁紹に付いたりとふらふらしていた。こんなとき劉備(40才)が目をつけたのが諸葛亮(20才)。劉備に対して天下三分の計を提案したのは諸葛亮。北は曹操、南西は劉備、南東は孫権(兄の孫策が領土を獲得し弟の孫権が統治 長江で戦う水軍を組織)

220  魏 : ~265 曹丕・初代皇帝(曹操の息子)

221  蜀 : ~263 劉備               → 魏に敗退@263

222  呉 : ~280 孫権・皇帝即位@229 

265  晋 : ~420 曹家→司馬家(司馬炎) 首都:洛陽 → 宰相の司馬家が王の曹家を討った:下剋上 

280          晋は呉を滅ぼして三国時代の終焉:人口は5500万から800万人に激減

291  西晋: ~306 八王の乱(皇族同士の内乱:他民族利用(五胡 : 匈奴、鮮卑、羯・氐・羌))       
            皇族に統治(封建制)させたことによって裏切られる        
            自分は死にたくないので五胡を使って皇族を潰そうとする       
             汝南王司馬亮(?~291)  陳寿233-297(歴史家:正史三国志 魏が主人公) 
             楚王司馬瑋 (271~291)
             趙王司馬倫 (?~301)  
             斉王司馬冏 (?~302)
             長沙王司馬乂(277~304)
             成都王司馬穎(279~306)
             河間王司馬顒(?~306)
             東海王司馬越(?~311)

   ( 華北    / 華南 )
    首都・洛陽  / 首都・建康         

304  五胡十六国 / 東晋 :~403   首都:建康(今の南京:肥沃な土地) 
           晋に内戦を依頼された五胡が晋の国を乗っ取り、五胡十六国
           五胡十六国から南の晋側へ移動してくることで南北の人口が同じになる(南側が開発)
           南側は中国本来の国:六朝--中国風、貴族

351  前秦    / 東晋 :~394   五胡十六国が統一 → 前秦     

383  淝水の戦い       :東晋(数万人)〇 vs ✖前秦(百万人弱)    

386  北魏    / 宋  :~534   鮮卑族が華北を統一、道教、石窟寺院、均田制、三長制
     【移民族北魏・鮮卑族の功績】
      ・華北統一 
      ・道教 
      ・石窟寺院 :雲崗石窟@大同 竜門石窟@洛陽 莫高窟--千仏洞@敦煌
      ・均田制 
      ・三長制 

535  西魏+東魏 / 斉→梁  :~556   鮮卑族が華北で分裂       華南梁の重臣・陳霸先

556  北周+北斉 / 陳   :~577   鮮卑族が華北(宇文泰)      華南梁の重臣・陳霸先が建国

577  北周     / 陳   :~581   鮮卑族が華北を統一        陳道談--宣帝
     鮮卑族の北周で内乱・クーデターが起こって隋となる@581 
     鮮卑族北周の実力者--宇文泰

581  隋      / 陳   :~589   魏晋南北朝時代の混乱を鎮める  陳叔宝:暗愚
     鮮卑族の隋が陳を制圧@589 

 

【隋】 589-618 魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、中国をおよそ300年ぶりに再統一 By鮮卑族

      【以下の制度確立】             
      ・律(刑法)令(民法)制
      ・均田制(土地平等制)
      ・租庸調制
      ・徴兵制
      ・科挙
      ・運河建設:京杭大運河---元々は高句麗侵攻目的 by 煬帝 →南北流通

589 初代楊堅541-604

604 2代目は楊広569-618(小野妹子と対立) 租庸調、科挙、大運河建設で反感かって滅亡 北には突厥部族

   楊広は兄の皇太子を謀反の罪で追いやり、先帝・楊堅を殺害すると、煬帝として即位。都を長安から洛陽に移した。洛陽を拠点に、黄河、淮水、揚子江を結ぶ運河を建設605年。食料が豊かな揚子江周辺から、運河を利用して長安、洛陽に運ぶことによって益々都は栄えた。また、北は北京、南は杭州まで運河を延長、総距離は2500kmに及んだ(現在運河クルーズ可能)。また、607年には聖徳太子は小野妹子を長とする遣隋使を煬帝に派遣。煬帝は倭の国を調べ、高句麗(隋との国交を拒絶)をけん制するために返礼の使者を送っている。

かくして高句麗への遠征を3度繰り返したが家臣、国民の反乱もあって高句麗制圧に失敗。反乱軍の長はのちに唐王朝を開く李淵。李淵は大群で長安を占領。煬帝は618年に斬首となった。2013年揚州から煬帝の墓が見つかった。墓の建造者は唐の二代皇帝・太宗だという。   

 

【唐】 618-907 @長安:隋をそのまま引き継ぐ 

618 初代:李淵

626 2代:李世民

   玄武門の変

627 貞観の治 三省六部制、均田制、租庸調制、府兵制、律令格式、羈縻政策

 

 

690 高宗の妃・則天武后が高宗亡き後に人材登用制を敷く。

   周建国

   武韋の禍---武則天亡き後同じようにしたいと願った中宗の妃・韋は皇后中宗の死を待てずに中宗を殺す。

        結果うまくいかずに終わる。

712 6代玄宗の開元の治で評判を高めた

   後半は楊貴妃に溺れていく。

世界ではフランク王国、ビザンツ帝国、ウマイヤ朝、ヴァルダナ朝の時代である。751年の対アッバース朝とのタラス河畔の戦いで蔡倫の製紙法がヨーロッパへ流入。

755 安史の乱

   均田制などの政策がうまくいかない中で、軍人によるクーデター

   安禄山(玄宗、楊貴妃に取り入る:白居易の長恨歌は二人の話)と史思明が起こした反乱。

   以降安禄山も史思明も息子に殺されてウイグルに鎮圧され、華北・長安は荒廃していく。

   これを歌ったのが杜甫の春望「国破れて山河有り・・・」。

780 両税法 By徳宗

875 黄巣の乱 : 塩の密売商人による反乱 首謀は黄巣(科挙落第)          

          生活必需品を国が専売する

          失敗原因は黄巣の部下朱温の唐への寝返り

          唐に忠誠を誓うという意味で朱全忠の名を賜ったが、、、唐を滅ぼす@907

907 唐滅亡~960迄 : 五代十国時代 950年までの間に軍人による支配が繰り返される    

   

宇文泰505-556(北周:鮮卑族の実力者)       
 ┣2代明帝@557(北周)
 ┃   ┣  
 ┃  ┏長女:独孤皇后 
 ┃  ┃ 
   
 ┃ 独孤信(西魏に仕える匈奴軍人)
 ┃  ┃   
 ┃  ┣四女:元貞独孤皇后
 ┃  ┃ 
李淵(唐の初代皇帝@618 太宗が幽閉
 ┃  ┃ ┃ ┣李建成(太宗が殺害:玄武門の変)
 ┃  ┃ ┃ ┃
 ┃  ┃ ┃ ┣李世民  太宗(唐の2代皇帝@626)
 ┃  ┃ ┃ ┃ ┃ 李世民 貞観政要は勝てば官軍の本也                     
 ┃  ┃ ┃ ┃ ┃ 玄武門の変                    
 ┃  ┃ ┃ ┃ ┃  父を幽閉
 ┃  ┃ ┃ ┃ ┃  兄を殺害
 ┃  ┃ ┃ ┃ ┃  弟をを殺害
 ┃  ┃ ┃ ┃ ┃  歴史家・呉競兄を殺害                    
 ┃  ┃ ┃ ┃ ┃ 
 ┃  ┃ ┃ ┃ ┃ 貞観の治
 ┃  ┃ ┃ ┃ ┃  評判良いのは書物の影響 貞観政要(著者:太宗の部下 呉兢670-749歴史家)
 ┃  ┃ ┃ ┃ ┃  →従って全てを鵜呑みにはできない
 ┃  ┃ ┃ ┃ ┃ 
 ┃  ┃ ┃ ┃ ┗ 高宗(唐の3代皇帝@650 最大領土:貞観の治)
 ┃  ┃ ┃ ┃    ┃
 ┃  ┃ ┃ ┃    ┃ 
 ┃  ┃ ┃ ┃    ┣中宗(唐の4代皇帝@684 7代皇帝@705 韋皇后が毒殺)
 ┃  ┃ ┃ ┃    ┃ ┣永泰公主685-701 : 墓の壁画が「高松塚古墳の壁画と酷似」
 ┃  ┃ ┃ ┃    ┃ ┃                 (7世紀末→時代も同じ)
 ┃  ┃ ┃ ┃    ┃韋皇后(夫に毒 玄宗に討たれる)
 ┃  ┃ ┃ ┃    ┃
 ┃  ┃ ┃ ┃    ┣睿宗(唐の5代皇帝@684 8代皇帝@710)
 ┃  ┃ ┃ ┃    ┃ ┣玄宗(唐の9代皇帝@712-756 韋皇后を討つ  唐安定時代:開元の治
 ┃  ┃ ┃ ┃    ┃竇徳妃         ┃┣
 ┃  ┃ ┃ ┃    ┃            ┃武恵妃690-738
 ┃  ┃ ┃ ┃    ┃            楊貴妃 719-756 @29歳(元々は玄宗の息子の恋人)
 ┃  ┃ ┃ ┃    ┃            (白居易772-846が詩を作る)
 ┃  ┃ ┃ ┃   則天武后(唐の6代皇帝@690)
 ┃  ┃ ┃ ┃     低い身分を重用 他宗教も採用
 ┃  ┃ ┃ ┃     反対派による伝聞→悪女印象
 ┃  ┃ ┃ ┃
 ┃  ┃ ┃ ┣李元吉(太宗が殺害) 
 ┃  ┃ ┃太穆竇皇后?-?
 ┃  ┃ ┃
 ┃  ┃
李昞_(北周)
 ┃
  ┗七女:独孤伽羅
 ┃    ┃
 ┃    ┣ 
楊勇?-604:廃太子(煬帝が殺害)
 ┃    ┃
 ┃    ┣ 煬帝
隋2代皇帝@604 第2回遣隋使(607年) 京杭大運河建設
 ┃    ┃  ┃ 兄、親を殺害? : 風評悪い →捏造?
 ┃    ┃  ┃           評判は唐時代のものだから悪いのは当然
 ┃    ┃  ┃ 
 ┃    ┃  ┃ 
 ┃    ┃  ┗
楊昭:584-606
 ┃    ┃    ┗恭帝:隋3代皇帝@617 →李淵へ(唐の初代皇帝@618
 ┃    ┃

 ┃    ┣ 楊麗華
 ┃   楊堅 ┃→北周の大将軍・楊忠の子(煬帝が殺害)  
 ┃(隋初代皇帝)┣✖
 ┃  @581  
 ┃            
 ┗3代武帝@560  
   ┃(北周)           
   ┗4代 宣帝@578(北周)  
         ┣5代静帝@580(北周)(楊堅が殺害 →北周滅亡して隋誕生)   
       朱満月547-586

 

       羅貫中?-?(明時代の小説家:三国志演義 蜀の劉備(漢民族)が主人公物語)

蜀(成都)の初代皇帝となるのは劉備161-223、前漢の景皇帝の第9子。黄巾の乱では鎮圧功績をあげ、各地を転戦。三国志演義では中心人物として登場する。次は呉(建業)の初代皇帝となる孫権182-252。黄巾の乱では、父の孫堅が反乱鎮圧を行い、孫権は母、兄とともに疎開している。

まず魏(洛陽)が後漢を滅ぼし、魏の曹操155-220が呉の孫権182-252と蜀の劉備161-223との間で赤壁の戦い208で曹操は敗れてそれぞれが三国を建てる。劉備は豪族の中でも出身が貧しく、国を制覇するために諸葛孔明(当時強い豪族)に目を付けて三顧の礼を以って味方につけたというもの。

【魏を発展させた曹操の墓発見】    2009年、曹操(魏を強国とし他国を圧倒した英雄)の墓が発見されたと中国は公表。曹操の副葬品が数多く発見されたのは洛陽(魏の都)から北側へ300km離れた河南省・安陽。西高穴村である。墓室は副葬品が納められた前室の左右に側室、後室の左右に側室があり全部で6室。前室にあった石碑に魏武王と刻まれていることから曹操の墓であるという。そして曹操の頭蓋骨も見つかったが、後室の棺ではなく前室からであり、欠損していた。儒教を教えとする漢貴族の習慣では金で縫い付けた玉衣で遺体を飾るなど、見事な装飾品が残されてしかるべき(厚葬)であるが、そのような痕跡は全くない。正史三国志では英傑との記載があるが不思議である。金玉珍寶を以って収めることはしてはいけないと言い残していたのかもしれない(曹操は儒教に反発し、漢王朝からの脱皮をすべく、薄葬令をだしている)。

【弱小の蜀を発展させた諸葛孔明】    曹操は赤壁の戦いで諸葛孔明に敗れることで一端は後退する。諸葛孔明が活躍した蜀は最も国力の低い国であった。蜀の南、四川省の雷波には少数民族のイ族が4000年以上の昔から住み着いている。この民族に諸葛孔明の伝説が残っている。雷波にある馬湖には諸葛孔明に関係する孟獲の廟がある。孟獲は孔明と同じ時代に活躍したイ族の英雄である。この伝説の中に諸葛孔明の話があるという。225年ごろ、孟獲が納める蜀の南に反乱が起こり、これを鎮圧するために諸葛孔明は南征する。その圧倒的な軍力で孟獲を捉える。しかし生け捕りにした孟獲を釈放、再び反乱を起こした孟獲を再び釈放したという。こんなことを7回繰り返した末に孟獲は屈服したという伝説である。孟獲を許し以って服すということのようだ。これにより南方は印度迄の交易を行うようになり蜀は大いに栄えたという。諸葛孔明はこの軍を率いて何度も魏を攻めるが、魏は強大で打撃を与えることはできず、やがて諸葛孔明は戦場で倒れて病死した。狭西省の武侯墓に孔明は眠っている。やがて蜀は魏に滅ぼされ、魏の後を継いだ清によって三国は統一された。

【中国虐殺の歴史】   

黄巾の乱184から三国設立230迄 : 4400万人虐殺(90%死亡)

大躍進政策、文化大革命1966  : 4000万人餓死・虐殺 By毛沢東

太平天国の乱1851       : 2000万人虐殺

王朝が80回変わり       : その都度虐殺

騎馬民族である遊牧民の脅威(地政学的)、独裁国家により反乱分子は虐殺、他民族を侵略・虐殺、不満分子は皇帝を暗殺し次の皇帝争いで虐殺、天安門事件後の天皇訪中は世界から非難された、1978年鄧小平は松下幸之助に中国近代化を請うた、中国は経済成長して軍事大国になった、2010年に中国のGDPは日本を追い抜き、軍事費は日本の5.5倍、尖閣諸島を奪おうとしている、恩を仇で返す中国、2000年の歴史から一帯一路政策を推進、国家の繁栄方法の歴史を知る中国、

 

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【中国-2-2】 BC150年頃 武帝の時代に司馬遷が残した史記

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【司馬遷BC145-BC87が記した史記】    北京から西へ2000kmに漢の時代に築かれた長城がある。BC2世紀に漢王朝は中央アジアにまで勢力を伸ばしていた。この時の帝が第7代武帝。積極的な対外政策を行って漢を成長させていた。この時、武帝の行いを批判する人物が現れた。それは歴史家・司馬遷BC145-BC87である。BC99年異民族との戦いに敗れた将軍に、武帝は理不尽な厳罰をくだそうとしたのが原因である。かくして司馬遷は死刑の次に重い宮刑を言い渡された。そして屈辱の中で膨大な量の中国最古の歴史書・史記(本紀と列伝に分けた紀伝体)を書き上げたのである。近年中国では史記よりも古い文字資料は発見されているらしく、司馬遷はこれらの文書を引用しながら史記を書いたと思われる。

【司馬遷のふるさとは陝西省・韓城】    2000年前につくられた石作りの道沿いに司馬遷を祀る祠がのこされている。この祠は漢王朝を継いだ晋王朝の時代につくられた。司馬遷は歴史の父・史聖、中国最古の通史・史記は130巻、古代王朝の興亡が克明に、系統的に記録されている。20世紀にはいるとその評価は考古学によってさらに高くなった。司馬遷は中国最古の王朝は夏、次は殷(酒池肉林のエピソード)だったとし、その存在は疑わしいと考えられてきた。しかし1920年代、殷虚の発掘により殷の実在が証明されて世界を驚かしたのである。殷虚からは多くの青銅器が発掘され、なかでも多かったのが爵と呼ばれる酒器。当時は重要な役割を果たしていたと考えられている。さらに夏王朝に繋がる二里頭遺跡が発掘されたことで、司馬遷の記載が考古学によって次々と裏付けられていったのである。

【司馬遷が武帝から下された刑は去勢】    史記の特徴は人物を通しての通史、司馬遷が生きた時代も、項羽と劉邦(漢王朝の祖)を通して描いている。勝者劉邦の欠点、敗者項羽の特徴などを描くことでありのままの歴史を伝えようとした。陝西省・西安はかつて長安といわれた漢の都。紀元前2世紀、漢はかつてない繁栄の時代を迎えていた。第7代武帝は武をもって広大な領地を治めていたが、その前に立ちはだかったのが北方の遊牧民族・匈奴(モンゴルから黄河の北にまで及ぶ)である。事件が起きたのはBC99年、都を離れて聖域を目指す将軍・李陵BC150-BC74は武帝の命令で匈奴討伐に向かった。5000兵の李陵は3万の匈奴と対峙するが力尽き、李陵は匈奴の捕虜となった。これを知った武帝は怒り、側近たちも李陵を批判するなかで、ただ一人李陵を弁護した男が司馬遷である。司馬遷は武帝に仕える大史公(宮中の暦や儀式を取り仕切り、過去の出来事を記録する係)であった。李陵が負けたのは援軍が来なかったためである。この時の援軍は武帝が寵愛する側室の兄であることがわかっている。かくしてこれが武帝の逆鱗に触れ、司馬遷は宮刑という強制的に去勢の手術を受けさせられるというものであった。司馬遷は死刑と宮刑の二者選択に対して宮刑を選ぶことによって、史記の執筆に情熱を傾けることができた。因みに鬼平犯科帳などで人気の司馬遼太郎は「司馬遷には遥かに及ばない」ということで自分を命名した。

【司馬遷が史記に取り組んだ理由】    山東省・泰山でBC109年に、武帝は封善の儀(自らが皇帝であることを天地に告げる儀)を行った。その準備をしていたのが若き司馬遷と父・司馬談であった。ところが武帝はその準備を退け、司馬談の参加を許さず呪術的な儀式を行ったのである。失望した司馬談は病に倒れ、息子・司馬遷に志を受け継ぎ歴史の記録を託した。その志とは何だったのか。BC227年の事、秦始皇帝に対して、滅亡の危機に瀕した燕の国は始皇帝の暗殺を計画する。暗殺者に選ばれた荊軻は躊躇した。そこで依頼に来た男は荊軻に躊躇させまいと自ら命を絶つのである。かくして荊軻は役目を全うすべく旅だった。暗殺は失敗に終わり、荊軻は命を落とすが、権力者に挑んだ荊軻を司馬談は称えた。つまり志とは人の為に尽くすということか。司馬遷は宮刑という辱めの刑を受けたにもかかわらず、死を選ばなかったのは、後の世に歴史を残さずして死ぬことのほうが恥ずかしいと悟ったからである。そして司馬遷は国中の旧聞を集めては紐付けしてまとめることで、王朝が興亡する歴史の心理を極めることを目指したのである。史記130巻のうちの半分を占めるのが列伝と言われる人物の記録であるように、司馬遷は人物を通して歴史を語ろうとしたのである。

史記の第1巻は、古代殷王朝の時代の人物についてである。小築と言う国に兄弟の王子が居た。伯夷と叔斉の兄弟王子は周の武王に仕えていた。あるとき武王は挙兵、酒池肉林の狂乱に溺れる殷の紂王を討つためである。しかし周は殷の属国、伯夷は武王を諫めて「臣下でありながら主君を討つことは道に背くこと」と言ったが、武王は聞かずに出陣して殷を滅ぼした。しかし兄弟はこれを恥じて山にこもり、やがて餓死したという。司馬遷はこの兄弟のエピソードを紹介した後、天道是か非かと記した。司馬遷は、皇帝・武将・思想家などさまざまな人物を描くことで時代の大きな流れを解き明かそうと考えたのである。

【漢民族の宿敵・匈奴】    武帝は匈奴に対抗するために軍備を拡張、まずは軍馬を現在の甘粛省山丹軍馬場で繁殖させ、40万頭にも膨れ上がったという。伝説の名馬「汗血馬」は武帝が中央アジアから手に入れたと言われ、千里走れたという。BC200年、漢の祖・劉邦が匈奴のまえに大敗を喫して以降、匈奴に対して貢物をしていたのである。この屈辱の関係を絶とうとしたのが武帝である。BC129年から3度に渡って匈奴に戦争をしかけて勝利する。そしてとうとう匈奴を北方へ追いやることに成功した。当時の匈奴のことにも司馬遷は史記で触れている「匈奴列伝」。匈奴の法制度(簡易で実行し易く君臣の間は気軽)、風俗習慣まで遊牧民の自由な国家観を詳細に記している。ウランバートルの近くでBC1世紀頃の炉の跡遺跡が見つかり、炉の跡からは鉄鉱石の不純物の塊スラグが出てきた。今まで匈奴は製鉄技術は持たないと思われていたが、これを覆すものである。またその製鉄技術は漢のものとは大きく異なり、匈奴が遊牧民ではなく定住生活をしていたとも言えるのである。実は内モンゴル地区で匈奴の王・単于の墓が発掘され、かなり高度な象嵌技術を要する馬・羊・狼をあしらった金の王冠が出土している。

司馬遷は漢王朝の匈奴に対する姿勢を批判し、「匈奴のことを語る人はその場しのぎで皇帝にへつらってばかり」としている。つまり匈奴のほうが漢王朝よりも合理的に政治を行っていると記載しているのである。

【司馬遷の時代の武帝に対する記載】    史記のなかの「本紀」に武帝の記録がある。本来この章には武帝の詳しい事績が記載されなければいけないが、武帝が関わった儀式やまじないの記述ばかりである。これは後に差し替えられたのではないかというのが専門家の意見だそうだ。では本来ここには何が記されていたのか。別の章に代々の皇帝が行った治水工事についての記述があり、当時黄河の反乱に悩まされていた。そこで武帝は丘陵をつくって治水を行ったという。今でも堤防工事に使用された木材などが出土するという。しかし司馬遷は、武帝が治水工事を行わなかった(思うようにできなかった)期間のこともしるし、その間は実りが無かったということも書いている。つまり、司馬遷は武帝の功績を記載するところに、批判めいたことを記載したというわけである。そして本来史記に記載すべきところは、後に武帝が削除したようにも考えられるという。武帝は匈奴に勝利し中央アジアまでその勢力を広げていったために、財政は疲弊した。武帝の墓 茂陵は武帝が17歳の時に造営が始まり完成までの55年の歳月を費やしてるが、武帝の最期についてはよくわかっていない。

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【中国-2-1】 BC200年頃 項羽を自刃に追い込み、漢王朝の基盤を作った劉邦

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【秦の始皇帝死後の項羽と劉邦の戦い】    

以前   春秋戦国時代

BC210  秦の始皇帝死去 → 胡亥が兄扶蘇を誅殺して即位  :政権は兆候---堕落

     再び戦乱の時代が訪れたときに現れたのが項羽と劉邦

     陳勝・呉広の乱 : 始皇帝の圧制時代の反乱で、項羽と劉邦は戦い相まみえる

     項羽@楚は20代前半から数多くの戦いに於いて不敗の冷酷な英雄軍人

     一方部下想いの劉邦@漢は50才まじかで、項羽との戦いでは負け続けていた下級役人が、最後に勝利したのは劉邦

     項羽は長江の下流にある宿遷(古代には楚と呼ばれ、秦に滅ぼされた)にある武将の家に生まれた。そして秦の打倒を目指いして挙兵した。

BC208  秦に対する反乱が相次ぎ、楚、燕、魏、韓などが立ち上がった中でも最も勢いのあったのが楚の反乱軍、黄河の支流・沙河での戦いで項羽の名は中国に轟いた。戦国時代に楚は秦に負けていた。

BC207  鉅鹿の戦い。項羽は退路を断って生きては帰らないという意気込みを兵に与えて戦いに臨んだ。この大勝利に、次々と兵士が集まり項羽軍は大軍に膨れ上がったという。

BC206 秦王朝滅亡 

      漢楚の戦い BD202迄 

【劉邦と項羽の戦略の違い】   一方劉邦は、項羽と同じ楚の生まれで江蘇省・金劉村、4人兄弟に生まれ、下級役人を務めた。司馬遷が記した史記では、酒好き女好きでいつも酔いつぶれていたとある。そんな劉邦は農民たちと共に秦への反乱を企てて、項羽軍に加わったのである。劉邦の軍は経験が乏しく戦闘を避けながら秦の都・咸陽を目指していた。南陽の戦いをきっかけに劉邦軍は力を上げて行った。劉邦が南陽を包囲していた時、項羽が鉅鹿の戦いで勝利したと知り、母国の滅亡が近いと悟った秦の兵士を劉邦は自らの軍に迎え入れた。これによって秦の兵士が次々と投降したことで、劉邦の軍は10万人もの大軍勢に膨れ上がった。かくして劉邦は戦わずして秦の都・咸陽にはいり、その後項羽も入城した。咸陽は今の西安、咸陽に入った後の劉邦と項羽の行動は異なっていた。秦の始皇帝の墓である兵馬俑が完成して間もないころに二人は入城。兵馬俑の一部の兵士に不自然な赤い色。これは項羽に命じられて秦の王宮が焼かれた際に、兵馬俑が火に晒されて焼けた痕跡である。かつて祖国・楚を滅ぼした秦への深い恨みが伺える。一方劉邦は対象である項羽に告げずに独自で動いていた。つまり劉邦は王宮から秦の戸籍などを持ち出して、項羽に悟られないように独り占めすることで、支配の基盤となる情報を掌握しようとした。

【劉邦の惨敗】   

BC205  項羽と劉邦は彭城の戦いで激突したが、圧倒的な武勇の項羽に挑んだ劉邦軍は惨敗して河南省の黄土高原に敗走

     劉邦は敗走したのだから負けであるが、持久戦に持ち込んだというから死ぬまでは負けないというのが中国流

     咸陽博物館には劉邦が率いていた3000もの兵馬俑がある。

     劉邦とともに戦い後に漢王朝の将軍となった周勃の墓から出土した。

【劉邦の体制立て直し】    この中に中国中心部の兵士とは異なった姿の兵馬俑がある。頭の後ろに髪を束ねる習慣を持つのは中国西南部に住む少数民族・ミャオ族独特のもの。彼らは勇猛さで名高い戦士であり、現在の甘粛省周辺に居た遊牧民族であるという。彼ら騎馬兵の存在は劉邦の戦力を格段に向上させた。また四角い顔の兵士は滅亡した秦の兵士、このように複数の民族を束ねた軍を劉邦は作り上げ、項羽との戦いに備えていたのである。

【BC202年の垓下の戦いから生まれた四面楚歌】    

BC202  垓下の戦い 安徽省に広がる平原に垓下古戦場は、項羽✖ VS 〇劉邦がここ垓下の地で戦うこととなった。

     劉邦は騎馬部隊を含む大軍勢、これは項羽の軍勢の6倍にも及んだ。項羽軍は、劉邦軍に取り囲まれたその時、すでに滅んだと思っていた楚の国の歌が周りから聞こえてきた。楚の兵士は劉邦軍に加わり戦っていたことを知った項羽は、戦意を失ったという。これが四面楚歌のエピソードである。かくして項羽は長江の畔で自刃。

【漢王朝の初代皇帝は劉邦】  --- 共和制ローマの時代   

BC202 劉邦BC247-195は皇帝に即位して、西安(かつての長安)を都とする漢王朝を開いたのである。
     ┃ 封建制(近隣)+郡県制(遠方)=郡国制
     ┃
     ┗5代文帝BC203-157
      ┃
      ┗6代景帝BC188-141 呉楚七国の乱(@BC154 劉氏の内乱)を鎮圧
        ┃ 郡県制
        ┃
        ┗7代武帝BC156-87 
          ┃ 郡県制復活=中央集権 + 儒家 =長続きする
          ┃
          ┗14代平帝 

     漢王朝はその後400年に渡って続き、支配体制はその後の中国王朝の基盤となった。

【漢王朝の政策 特に武帝の時代に司馬遷が現れる】   

     郡県制から郡国制(遠くは郡県制+近くは封建制)という地方分権体制を整える

BC154  6代景帝BC188-BC141のときに呉楚七国の乱を平定して、一部が郡県制(始皇帝と同じ)になる 

BC141  7代武帝BC156-BC87(景帝の子)のときには郡県制を復活させて中央集権に戻した。また北側の騎馬民族・匈奴に圧迫されていた大月氏と組んで匈奴を追いやろうとして大月氏に外交官・張騫?-BC114を派遣するが、張騫は匈奴に捕えられる。やがて数年後に抜け出して大月氏にたどり着いた時には匈奴を攻める気力は無くなっていたという逸話がある。武帝も領土拡大のために戦費がかさみ、塩・鉄・酒の専売により利益をだして財政再建を行った。また郷挙里選により地方豪族が政界に進出するようになる。儒教の国教化も行う。

 

【漢王朝末期の混乱】    

    かくして前漢末期には宦官(去勢した宮廷男性)と外戚(皇帝の妃の家族・親戚)と豪族が台頭する。

BC45  外戚の王莽(BC45-BC23儒学者)が皇帝になる(周復古、占い政治 → 反感をかう)

18   赤眉の乱 :農民反乱 、緑林の乱がおきて後漢になる。

 

【1世紀-2世紀 後漢の初代は劉秀】 --- 帝政ローマ時代   

25   禍乱を平定して光武帝BC5-AD57(景帝の末裔)即位 「柔よく剛を制す」 金印
           ┃
           ┗2代明帝28-75 仏教伝来
              ┃
              ┗4代和帝79-106 シルクロード完成
                 ┃
                 ┗14代献帝181-234 曹操の息子・曹丕が献帝を排して漢王朝は終わる

79   和帝即位 シルクロード完成 By3兄弟

      班固 :歴史家--漢書編纂

      班超 ;シルクロード完成

          東西の要、敦煌あたりを統治:西域経営

          「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と言って兄・班固を説得

      班昭 :歴史家--漢書完成

166   党錮の禁 :宦官が宦官に批判的な清流派弾圧

184   黄巾の乱 :張角が指導した農民反乱 → 三国志の始まり

後漢の4代目和帝79-106のとき班超32-102が西域経営を行う。この頃に匈奴との対立は終了した。このとき西側に逃げた匈奴がフン族と言われたのかもしれないが、フン族がゲルマン民族の大移動を起こさせた。 班超の部下・甘英?-?はローマ方面に行ったようでカスピ海か地中海を見ているようである。後漢の蔡倫50-121?という宦官(去勢した宮廷人)は紙を実用化して、タラス河畔の戦いのときにイスラム世界にわかりルネサンスのヨーロッパ迄伝わった。

【三国時代の幕開け】    後漢の末期は押さない皇帝が続いたために外戚や宦官が力を持つ。それを批判した官僚は党錮の禁(166,169)で弾圧され豪族までもが好き放題の政治を行い不安定な世の中になる。これによって太平道などの宗教(戦って死ねば極楽行)が台頭し黄巾の乱184(太平道の信者が教祖・張角を指導者として起こした組織的な農民反乱で、黄色い頭巾を目印とした)を起こすことになる。豪族たち曹操、劉備、孫権がそれぞれ後に魏、蜀、呉を建てて三国時代に突入する。

この頃匈奴は西側へ移動し、鮮卑という騎馬民族がでてきた。インド北西のイスラム世界はクシャーナ朝、インドはサータヴァーハナ朝、地中海周辺はパルティア、ローマ帝国が支配していた。

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【中国-1-2】 東周・春秋時代は諸侯(五覇---楚、晋、斉、呉、越)の権威大

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【殷   / 周  / 春秋 戦国 / 秦(始皇帝) / 漢(項羽・劉邦 武帝・司馬遷)】

            五覇 七雄 → 七雄統一    
       
西周    東周              前漢     新     後漢    
       
犬戎    
BC16C  BC11C    BC770    BC221 BC210  BC202

            封建制度    斉滅亡 始皇帝死亡          

------------------------------------------------------------------------------------------------------

東周 BC770-256   : 諸侯(五覇七雄)の権威大                       
     ┣
 春秋時代の五覇 孔子の歴史書(孔子の出身国「魯」の年代記)より 覇者:楚、晋、斉、呉、越  
     ┃       

     ┣
 戦国時代の七雄 戦い残ったのが「秦」 :楚、魏、斉、韓、燕
     ┃ 
        
     ┣鄭 BC806-BC375 子産?-522(鄭の家臣)---中国初の成文法:文字で明記された法⇔慣習法  
     ┃        
     ┣呉 BC585-BC473 武王(BC1043没)の大叔父が始祖勾践?
     ┃                           ┗僚王?-515
     ┃             ┗闔閭王

     ┃               ┗夫差王:    
     ┃                ┃・夫差が王位継承@BC496---臥薪して越打倒を誓う
     ┃                ┃・呉越戦争で勝利
     ┃                ┃・呉は越を下僕扱いの条件で許す---越王勾践は熊の胆嚢を嘗めて忍耐
     ┃                ┃・夫差は四大美女・越の西施にハニートラップ
     ┃                ┃・夫差は伍子胥を遠ざけ殺す、内紛状態の斉に勝利するが・・・
     ┃                ┃・黄地の会盟の留守中に越の攻撃受けて廃墟---牛耳る
     ┃                ┃・夫差は自決
     ┃                ┃
     ┃                ┗孫武王(BC535-?は呉の将軍) / 伍子胥(孫氏の兵法(孫武著)を推奨)       
     ┃                 ・呉越同舟   
     ┃   
     ┣楚 BC11世紀-BC223
 南の長江文明の国(楚呉越) ⇔ 北の黄河文明(秦晋周斉)
     ┃                            ┗湿潤気候--米の民              ┗乾燥気候--粟、きびの民
     ┃  ・北とは違う文化              
     ┃  ・三皇五帝の黄帝BC2500頃の孫が祖先(伝説)          
     ┃  ・BC11世紀周王朝(姫一族)から子爵称号をもらった熊一族              
     ┃  ・BC8世紀熊徹が昇格要求するも周は拒否→勝手に武王を名乗る
     ┃                                        ┗◇◇成器王:宋に勝利--晋文公に敗退
     ┃                                           ┗息子穆王(?-BC614暴君)の反乱で自殺@BC626               
     ┃  ・晋の文公の次代衰退以降楚は勃興              
     ┃  ・第6代熊侶が即位--荘王@BC614---放蕩三昧 
     ┃                            ┗家臣・伍挙、蘇従---諫言→鳴かず飛ばず
     ┃                                ┗政治の中枢---人事刷新 →仮痴不癲の戦術(ボケたふりして勝機を待つ)         
     ┃  ・周囲の庸、陳、鄭、宋を併合攻撃して周の洛邑まで行軍              
     ┃  ・夏、殷、周に伝わる天子の象徴・鼎という礼器 ---楚に帰還 :鼎の軽重を問う               
     ┃  ・属国となった陳、鄭は晋に援護要請→泌の戦い@BC597 楚の圧勝 26か国併合              
     ┃  ・荘王死去@BC591             
     ┃                
     ┃  BC516 楚の平王死去               
     ┃  BC506 柏挙の戦い ---呉の勝利 楚は壊滅 死体の平王に復讐---死者に鞭打つ               
     ┃             ・秦の援軍が楚にくることで呉敗北    
     ┃             ・闔閭の弟・夫概は呉で勝手に王を名乗る →闔閭が成敗  
     ┃                
     ┃          伍子胥?-BC484の亡命@鄭経由呉(僚王--闔閭)---楚(平王、費無忌)への復讐    
     ┃            ┗・僚王の部下闔閭@?-BC496につく---騎馬戦を教える僚王               
     ┃             ・僚王を暗殺@515、闔閭が国王につく               
     ┃             ・伍子胥は王に孫氏の兵法(孫武著)を推奨                
     ┃             ・孫武BC535-?は呉の将軍となる
     ┃          
     ┣越 BC600-BC306 (允常王?-BC496) ---呉の遠征留守中に呉を攻撃                 
     ┃  BC496 允常王死去 :呉王・伍子胥出陣@越 
     ┃        ┗勾践王?-BC473が即位 
     ┃          ┗将軍・范蠡 / 文種(政治家)    
     ┃             ・呉(闔閭王負傷--悪化--死去@)⇔ 越(将軍・范蠡?-?の奇襲攻撃)
     ┃             ・夫差が王位継承@BC496---臥薪して越打倒を誓う 
     ┃             ・呉越戦争で越は惨敗---撤退@紹興
     ┃             ・越の文種を使わして和平---呉の伍子胥は反対 
     ┃             ・呉は越を下僕扱いの条件で許す---越王勾践は熊の胆嚢を嘗めて忍耐     
     ┃             ・臥薪嘗胆---苦労を重ねること :日清戦争の恨みを日露戦争で晴らす  
     ┃             ・四大美女・越の西施(軍人范蠡の愛人、スパイ)を夫差に送り込む   
     ┃             ・留守中侵攻し、呉に勝利:夫差王は伍子胥を遠ざけ         
     ┃             ・呉の夫差の遺体を越の勾践は葬り、呉を吸収        
     ┃             ・徐州の会盟@BC472 ---覇者となる               
     ┃             ・将軍・范蠡は行方不明 / 政治家・文種は自決       
     ┃
     ┃          
     ┣斉 BC1043-BC386 (始祖 大公呂尚BC1021?-BC1000?) 
     ┃  春秋戦国時代最初の覇者 
     ┃   ┗春秋時代
     ┃    ・孔子の歴史書(孔子の出身国「魯」の年代記)より
     ┃    ・周王朝の権威が下がって、諸侯(200余り)が覇者を目指した時代 
     ┃    ・覇者---カリスマ諸侯→斉:14代暴君・襄公→弟姜糾、姜小白は亡命→王位争い 
     ┃    ・姜小白
     ┃    ・ ┗は桓公として即位@BC685

     ┃    ・   --管鮑の交わり(菅仲+鮑叔)
     ┃    ・   --衣食足りて礼節を知る
     ┃    ・   --商業発展-経済豊:塩業 →富国強兵 
     ┃    ・   --諸葛孔明も管仲を尊敬
     ┃    ・   --周の内乱鎮圧
     ┃    ・   --燕の応援:対異民族  →尊王攘夷
     ┃    ・   --葵丘の会盟@BC651:トップ会談 →桓公が名実ともに覇者By三種の神器
     ┃    ・   --桓公が帝を名乗り始める 管仲死去@BC645→3悪人に牛耳られ桓公死去@BC643
     ┃    ・   
     ┃    ・西周幽王BC795-771の王妃・褒姒(ほうじ)---狼煙に援軍来ずに滅亡
     ┃    ・約550年間 
     ┃   ┗戦国時代                
     ┃    ・劉向の歴史書「戦国策」より---七雄の策略・逸話集                
     ┃    ・晋が分裂(三家分晋)して趙・魏・韓となり七雄揃うことで戦国時代突入                
     ┃    ・斉の家臣・田和は斉乗っ取り:姜斉→田斉 
     ┃          ┗◇◇◇威王BC356-BC320 
     ┃              ┣宣王BC319-BC301 
     ┃              ┃ ┗湣王BC300-BC284 
     ┃              ┗田嬰---父兄の宰相 
     ┃                ┗田文(孟嘗君?-279)嘗の地を治める高貴な孟さん:死後
     ┃                 戦国の四君:平原君、信陵君、春申君
     ┃                 食客3000人      
     ┃                 垂沙の戦いで勝利@BC301 秦斉魏韓連合VS楚 
     ┃                              ┗昭襄王(恵文王の息子、始皇帝の曾祖父)
     ┃                               在位55年
     ┃                               孟嘗君を幽閉→解放→逃避→鶏鳴狗盗
     ┃                 食客が鶏の鳴きまねをして関所を通ることができた  
     ┃                 夜をこめて 鳥の空音は 謀るとも よに逢坂の 関はゆるさじBy清少納言      
     ┃                 斉に帰国後宰相就任@湣王 領土拡大@函谷関の戦い   
     ┃                 湣王に疎まれて魏に亡命、宰相、斉に復讐         
     ┃                 食客に
     ┃                          
     ┃          
     ┣晋 BC11世紀-BC376 (始祖 大公呂尚BC1021?-BC1000?) 
     ┃    ・周の武王@BC1046即位 の弟・周公旦が征伐
     ┃    ・武王の息子が治める(姫一族)
     ┃    ・献公?-BC651の時代@BC672に異民族の驪戎(いじゅう)を討伐---娘の驪姫を妾とする
     ┃    ・ ┃ ┗奚斉BC665-BC651を立太子:驪姫の乱@BC657
     ┃    ・ ┃驪姫?-BC651---母子暗殺される
     ┃    ・ ┣申生?-BC655元太子→排除By驪姫(謀反の罪で自殺)
     ┃    ・ ┣重耳BC697-BC628→亡命@母の故郷--
     ┃    ・ ┗夷吾    ?-BC637→亡命@母の故郷--梁
     ┃    ・斉姜(桓公の娘)
     ┃    ・晋・献公死亡@BC651
     ┃    ・王太子・奚斉暗殺により亡命していた重耳に君主即位打診されるが拒否
     ┃    ・夷吾が即位して恵公@BC650(恵の字は暗君に多い)
     ┃    ・ ┗重耳暗殺計画→重耳単身亡命(妻季隗はいつまでも待つ)
     ┃    ・          ┗斉(桓公)@BC645→衛(文公)→曹(共公)→宗(襄公)→楚(成王)
     ┃    ・晋凶作@BC647→秦援助
     ┃    ・秦凶作@BC646→晋援助せず侵攻→逆に秦は晋・恵公を捕虜→穆公の妻が恵公の姉なので許す
     ┃    ・          ┗恵公の息子を人質→脱走
     ┃    ・晋・恵公死亡@BC637→息子が即位(秦の穆公には不評:約束無視)
     ┃    ・重耳は秦の穆公と共に晋に侵攻--凱旋帰国→重耳は文公として即位@BC636
     ┗    ・文公は妻・季隗を晋に呼び寄せる
     
     

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【中国-1-1】 太公望・呂尚とは中国最初の軍師にして斉の初代公爵 @周王朝

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【殷   / 周  / 春秋 戦国 / 秦(始皇帝) / 漢(項羽・劉邦 武帝・司馬遷)】

            五覇 七雄 → 七雄統一    
       
西周    東周              前漢     新     後漢    
       
犬戎    
BC16C  BC11C    BC770    BC221 BC210  BC202

            封建制度    斉滅亡 始皇帝死亡          

------------------------------------------------------------------------------------------------------

西周:王の権威大       
    太公望BC1021-1000?    
     ┣呂に住む尚
     ┣中国最初の軍師     
     ┣斉の初代公爵
     ┣100才以上生きた?                      
     ┣実在の人物ではない?                     
     ┣兵法書(六韜、三略)の伝説著者?                   
     ┃  ┗後に張良が劉邦を勝利に導く→漢帝国
     ┣姫昌@殷王朝末期、狩りをしていると呂尚が釣りをしていた          
     ┃ ┗文王:祖父大公が望んだ聖人が---呂尚=太公望          
     ┃   ┗殷王朝三公の一人、他の二人は殺害By紂王(殷王朝最後の王?-1046)           
     ┃     ┗文王-BC1051の息子は殺害され、文王も逃避  
     ┣殷王朝の中に小国周        
     ┣太公望は殷の紂王による恐怖政治から逃避           
     ┃ ┗逃避した文王?を救援           
     ┃   ┗美女と財宝を紂王に献上→文王救出    
     ┣文王と太公望による周政治           
     ┃ ┗異民族・犬戎撃退                   
     ┃   ┗文王死去---姫発(武王?-BC1043)---紂王討伐:易姓革命
     ┃          ┗太公望出仕      ┗牧野の戦い
     ┃                        ┗殷軍寝返り---紂王を見限る
     ┃                     
     ┣紂王の敗走@牧野の戦い
     ┃ ┗妲己(紂王の妃)の宮殿・鹿台で焼死 
     ┃   ┗斬首By武王 
     ┃        ┗酒池肉林を民に与える、怯える堅臣を開放    
     ┣武王による親孝行
     ┃ ┗父・姫昌に文王を贈る
     ┃  ┗儒教
     ┃     ┗貢献人太公望呂尚は斉を建国
     ┃               ┗七雄・斉の源流    
     ┗離婚した妻が、出世した太公望に再婚願い
          ┗覆水盆に返らず

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