平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

吉備真備

2008年05月10日 | 奈良・飛鳥時代

吉備真備

 吉備真備は19年間遣唐使として漢籍の将来を担うことにあった。 735年の帰国後の2年間で異常出世を果たし朝廷に食い込み、聖武天皇に寵愛された。737年に藤原四兄弟が亡くなっているから幸運な次期に帰国し出世したと言える。広嗣の乱以降は東宮の教育係として手腕を発揮し、阿部内親王(後の孝謙天皇)は吉備真備を師と仰いだ。が、749年藤原仲麻呂の台頭で九州に左遷となり仲麻呂時代は埋没していたが764年都から呼ばれ、造東大寺長官に任命され恵美勝押討伐軍に参加し活躍した。乱後は称徳天皇のもとで右大臣にまで登りつめた。 称徳天皇崩御後、皇位争いで藤原一族が推す白壁王(光仁天皇)に皇位をさらわれて失脚した。彼の人生は反藤原氏として貫かれたのである。

吉備真備公園にある吉備寺

 

 

吉備真備公御廟

 

 

吉備大臣宮

 

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備中国分寺

2008年05月05日 | 奈良・飛鳥時代

備中国分寺

 こうもり塚古墳を下りてくると、西側に備中国分寺が広がります。 国分寺・国分尼寺は、奈良時代に聖武天皇の勅願によって建立されたものである。 天平13年(741年)に仏教の力を借りて天災や飢饉から人々そして国を守ることを目的に建てられた官寺の一つで、 その当時の境内は、東西160m、南北178mと推定されますが、江戸時代に再興された現在の備中国分寺があるため、 南門・中門以外の建物の位置は明らかではありません。しかし、創建当時の礎石が多く残されており、 当時を偲ぶことができます。 その後、廃寺となり、江戸時代の中期に領主蒔田家の援助を得て、日照山国分寺として再興されている。 現存の五重塔は、江戸時代に再建されたもので、平成2年-6年に解体修理されている。

 

 備中国分寺跡は、山門を入ると、正面に茅葺の客殿、東に本殿、西に庫裏・表書院が配置されている。西の庭には、丹精な松がそびえ、後ろに五重塔が青空に向けて突き抜けている。国分寺の南側を旧山陽道が通っており、交通の要衝であったと思われる。

 

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下道朝臣真吉備

2008年04月26日 | 奈良・飛鳥時代

吉備朝臣真備(下道朝臣真吉備)

 今回は大和政権に匹敵する勢力を持っていた吉備地方を中心に廻ってみました。吉備といえば奈良時代の末期に右大臣にまで登りつめた吉備真備は見逃せません。

 生没年:693-775 奈良時代の官人・学者。吉備地方の豪族で中央の下級武官(右衛士少尉)であった下道朝臣圀勝の子で母は奈良の豪族楊貴(八木)氏の娘である。 日本書紀には「5世紀初め、応神天皇が吉備の国を5つに分け、ここに住む5人の兄弟や子供に分け与えた」とあり、吉備真備は、その中の一人が「下道氏」の名のもとで治めた下道郡出身の官人の子として誕生した。 吉備下道氏の本拠地は現在の真備町箭田地区あたりと推定されており、日本でも屈指の巨大な石室を持つと言われる「箭田大塚古墳」は、下道氏一族を葬った王墓かもしれない。

吉備真備公園のすぐ北側にある箭田大塚古墳(撮影:クロウ 2008/4/26)

 

 


 下道氏は、吉備地方に勢力を誇った地方豪族吉備氏の一族で、姓は臣から684年に朝臣姓を賜った。 吉備真備を生んだ下道氏の本拠地は、真備町で高梁川に注ぐ小田川流域一帯だったようである。 その小田川にそそぐ谷川に「子洗川」があり、江戸時代の学者はこの地に生まれた吉備真備ゆかりの川の名と推定した。その小川の上流にあった湧き清水が、いつの頃から真備の産湯の井戸と伝承され、現在では、二度も遣唐使として中国に渡った真備にちなんで整備され、その地は下道氏墓所として国の史跡に指定されています。 

小田川北沿いの313号線矢掛付近(小路を北へ200mほど)に下道氏の墓があります

 

 


                        尾張大海媛
             大物主神(蛇)            ┣ 八坂入彦命
第7代孝霊天皇
  ┣ -                    ┣ 渟名城入媛命(倭大国魂神を祭る)
  ┃┃┣ 倭迹迹日百襲姫命(台与か) 姥津媛命┃ 遠津年魚眼眼妙媛(紀伊)
  ┃┃┃ 欝色謎命(伊香色謎命の母)┣彦坐王┃  ┣ 豊鍬入彦命
  ┃┃┣ 吉備津彦      ┣ 9 開化天皇   ┃  ┣ 豊鍬入姫命(天照大神を祀る)
  ┃┃┣ 稚武彦命    ┃   ┣10崇神天皇(御間城入彦)   (みまきいり彦)
  ┃┃倭国香媛      ┃   伊香色謎命  ┃    ┣ 倭彦命  
 
┃┃              ┣倭迹迹姫命     ┃    ┃
 
  ┃┃          ┣大彦命      ┃    ┣ 彦五十狭茅命
 
  ┃┣━━━━━━  8孝元天皇御間城媛  ┃    ┣ 千千衝倭姫命

  ┃細媛命        ┃┃ ┗武渟川別  ┃    ┣ 五十日鶴彦命  
  ┣彦狭島命
      ┃┣彦太忍信命  ┃    ┣ 11垂仁天皇┓(いくめいり彦
)  
  ┃           ┃┃(武内宿禰の父)┃ 御間城媛 ┃  ┃ 
  ┃           ┃伊香色謎命     x (大彦命の娘)┣  ┃ 
   ┃              ┣ 武埴安彦命 ━━┛     ┏迦具夜比売┃ 
  ┃         埴安媛  ┣            大筒木垂根王    ┃
  ┃    河内青玉繋┛   吾田媛(隼人族)                   ┃
   ┣稚武彦命(吉備の祖)                                       ┃
 絙某弟(はえいろど)  ┃                                         ┃
          ┃                         ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛舒明天皇
┃                 ┣吉備武彦━御友別                            ┣賀陽皇子
┃                 ┃ ┣吉備弟媛┣仲彦(上道・香屋祖)━□□━香屋采女
┃                 ┃ ┣吉備兄媛┣稲速別(下道国造祖)━□━下道速津彦
                 ┃ ┗鴨別 ┃ ┗弟彦                   ┗・・・・・吉備真備
彦坐王      ┃   応神天皇
┃┣狭穂彦
肥長姫(蛇)┣宍戸武媛                        葛城高額姫
┃┗狭穂姫命┃     ┣伊那昆能若郎女                          ┣神功皇后
┃ ┣  誉津別   ┗播磨稲日太郎姫 -122        垂仁天皇 息長宿禰王┃ 
11代垂仁天皇-69-70  ┣ 櫛角別王(
くしつのわけのみこ
)  ┣両道入姫命    ┣15代応神天皇
  ┣ 五十瓊敷入彦  ┣ 大碓皇子(おおうすのみこ) 綺戸辺┣ 14代仲哀天皇 
  ┃ イニシキイリヒコ      ┣ 小碓尊  (おうすのみこと) 日本武尊    ┣坂王
  ┣ 12代景行天皇(大足彦忍代別天皇)  -13-130                    ┣忍熊皇子
  ┣ 倭姫命   ┣稚足彦尊(
13代成務天皇)                大中姫 
 ┏日葉酢媛命  ┣五百城入彦  ┃┣和珂奴気王┣神櫛皇子(母:五十河媛 讃岐国造祖)   
 ┣渟葉田瓊入媛┣忍之別皇子  ┃弟財郎女  ┣稲背入彦皇子(母:五十河媛 針間国造祖) 
 ┣真砥野媛   ┣稚倭根子皇子┃       ┣五百野皇女(母:水歯郎媛)伊勢斎宮   
 ┣薊瓊入媛  ┣大酢別皇子┗吉備郎女    ┣豊国別皇
子(母:御刀媛)日向国造の祖 
丹波道主王   ┣五百城入姫         ┣武国凝別皇子(母:高田媛)
10代崇神天皇  ┣五十狭城入彦        ┣日向襲津彦(母:日向髪長大田根)
 ┣ 八坂入彦命 ┣吉備兄彦          ┗豊戸別皇子(母:襲武媛)
尾尾張大海姫┣八坂入媛命やさかいりびめのみこと)
      ┗弟媛

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東大寺大仏

2008年03月31日 | 奈良・飛鳥時代

東大寺大仏

 聖武天皇が関東へ行幸したのは740年広嗣の乱直後である。吉野宮を出発した一向400名は伊賀・名張→伊勢・鈴鹿→桑名→野上(関ヶ原・不破)→近江→恭仁京(くにきょう)に着いた。 

安積親王が急死したという恭仁宮(くにのみやこ

  

 これは大海人皇子が大友皇子と戦い壬申の乱で勝利したときの軍行に非情に似ている。壬申の乱の後を辿り、自分の心の逃避を勝利宣言に塗り替えるための行動とも読み取れる。 僧・玄坊により母・宮子の幽閉が解け、37年ぶりに再会したときには、聖武天皇の藤原氏による呪縛も解けて、藤原氏に対する反発が、この流浪へと駆り立てたようにも思える。 恭仁京は平城京の真北すぐに位置し、橘諸兄とゆかりの深い地であったと同時に背後には天然の要塞があり、平城京という藤原一族への挑戦のようにも思える。 因みに藤原不比等の所有する5000戸を朝廷に返上したのは、聖武天皇一向が恭仁京に着いたすぐ後である。400名の軍行の先頭には藤原仲麻呂が任命され、漢氏・秦氏を指名した。藤原仲麻呂は背中に槍を付き立てられ、身動きができない状態で先導さされたのを考えると思いつきの流浪でもなさそうである。そう考えたとき、藤原氏の象徴である興福寺を圧倒するかのように建てられた東大寺の意味もわかるような気がするのである。  

 741年、諸国国分寺に与えられた藤原家の諸領は仏像造りに当てられた。聖武天皇は国分寺建立の詔を発し広嗣の乱の連座者を処刑にするとともに平城京にあった兵器・官位等の諸機能を恭仁京に移した。当時藤原の最高権威であった藤原豊成が平城京の留守役を命じられたのは屈辱であっただろう。742年に恭仁京内の大安殿にて踏歌の節会の宴が開かれ五節田舞(天武天皇の血統重視の舞)が行われ、翌月には皇后宮に行幸し、聖武天皇の絶頂の様子が記録されている。 藤原氏が敗北すると橘諸兄は左大臣となり、743年紫香楽宮に逗留したあと大仏発願の詔を発した。

 大養徳国金光明寺で大仏の基壇が造り始められたのは745年8月頃である。聖武天皇が崩御する756年にはほとんど出来上がり、翌757年に完成する。大仏は民衆の協力によって完成させることを理想とするものであり、それを託されたのは行基とその集団であった。紫香楽で詔が出された直後には行基は弟子を率いて大仏造立の知識勧誘に乗り出していた。行基とともに東大寺の経営を支えたのは後の東大寺初代別当の良弁である。 良弁は689年生まれで聖武天皇の基皇太子供養のために金鐘山房に住まわされた僧の一人とされ、金鷲菩薩ともいわれた。 大仏建立により金光明寺は東大寺へと発展し、造東大寺司という組織が誕生する。 この最初の長官は施基皇子の曾孫・市原王で佐伯今毛人が支えたとされる。大仏の設計・鋳造を担ったのは国中公麻呂で、761年には造東大寺司次官になっている。

 大仏は1180年南都焼き討ちによって灰燼に帰し、白河法皇の開眼供養により復活するが1567年に三好・松永の争いにより再び崩れ落ちた。1692年の再建後は1708年に大仏殿も再建され現在に至る。 

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聖武天皇芳野行幸

2008年03月08日 | 奈良・飛鳥時代

聖武天皇芳野行幸

 736年6月、聖武天皇は芳野行幸を行っている。 平城宮に戻ったのは翌月で、延べ16日間に渡り、過去2回に比べると異例の長期であった。  また、この行幸は11年ぶりのもので、この行幸の目的は前年流行した天然痘が依然とおさまらないために、鎮める目的があったことが木簡から窺える。 右の木簡には「南山之下有不流水其中有\一大蛇九頭一尾不食余物但\食唐鬼朝食三千暮食・八百」 との記載がある。 南山に住む九頭一尾の大蛇に唐鬼、つまり天然痘を食させて流行を食い止めようと願った呪符であると察せられる。 この時期に祈願のための行幸を行う必要があったということは、天然痘の猛威は衰えていなかったことを意味し、今までいったん下火になったと考えられていたが、実は736年も流行は収まるところを知らなかったのかもしれない。

(左)・芳野幸行貫簀・天平八年七月十五日

(右)南山之下有不流水其中有\一大蛇九頭一尾不食余物但\食唐鬼朝食三千暮食・八百○急々如律令

        

 この頃、光明皇后は多数の財物を法隆寺に施入しており、733年の母・県犬養橘宿禰美千代の死が関係していると思われる。 県犬養橘宿禰美千代は天武、持統、文武、元明の4代の天皇に内命婦として仕えた。 700年ごろに藤原不比等と結婚し、前夫の美努王との間に生まれた牟漏女王が不比等の次男・房前の夫人になっていることも縁の深さを感じさせる。 三千代は721年に元明天皇の病気平癒を願って出家しており、光明皇后の仏教信仰は三千代の影響がおおきい。

 一方、聖武天皇は藤原四兄弟の死で、恭仁京の造営を考え、740年平城京を旅立っている。741年恭仁京で元日朝賀の儀式を行っているが幕で周囲を囲む有様で大極殿もできていない。この恭仁京の造営で労働力として注目されるのが行基率いる在家の仏教信仰集団である。 743年に大極殿の移築が完了し準備は整ったが、恭仁京の大きさは平城京の三分の一程度というから、平城京と両者一体で機能していた。 741年には聖武天皇の命により国分寺(金光明四天王護国之寺)、国分尼寺(法華滅罪之寺)建立の詔が発せられた。 

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藤原麻呂家令木簡

2008年03月04日 | 奈良・飛鳥時代

藤原麻呂家令木簡

 717年巨勢麻呂、石上麻呂、719年粟田真人、720年藤原不比等と相次いで他界すると長屋王、安倍宿奈麻呂が大納言に命じられた。 721年には長屋王が右大臣となり長屋王政権が誕生し、 722年政権による政策として(1)陸奥出羽 按察使管内の調・庸を免除(2)百万町歩開墾計画(3)公出挙、私出挙の利息を三割に軽減(4)鎮所への兵糧運搬奨励 等々を出した。 724年首皇子が聖武天皇として即位すると長屋王は左大臣に昇進し、聖武天皇、藤原氏との関係は極めて良好である。 このようななか、727年に聖武天皇と光明子との間に皇子が誕生したのは安倍内親王以来9年目のことであった。 ところが皇子は翌年728年この世を去ってしまった。 729年、2月元興寺で行われた法会において長屋王と仏教信仰者との間で問題が発生した。 その2日後に六衛府の兵が長屋王邸を囲んだ。 兵を指揮したのは藤原四兄弟の三男宇合で、翌日舎人親王、新田部親王、大納言多治比池守、中納言藤原武智麻呂、少納言巨勢宿奈麻呂らが長屋王邸を訪ねたのである。 長屋王にかけられた罪状は国家転覆罪、つまり聖武天皇を呪詛したというものであった。 事の起こりは前日の密告で、その密告者は従七位下・漆部君足、漆部駒長と無位の中臣宮処東人であった。 長屋王への処断は過酷を極め、翌日長屋王は自宅にて毒をあおり、妻・吉備内親王や三人の息子とともに自殺した。

 長屋王の変は明らかに、当時政権を担う長屋王の台頭を危ぶんだ藤原四兄弟の画策にようるものと考えられており、変後は藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂による藤原四子政権体勢が固まっていくのである。  729年聖武天皇の夫人光明子が皇后になった。臣下の女性が天皇の正妻として皇后になったのはこれが最初である。光明子皇后を布告した聖武天皇の勅は極めて歯切れの悪いもので、この立后に不審をいだく人々は多くいたと思われる。 皇后は内親王から選ばれなければならないという原則を長屋王が主張することを見越し、 聖武天皇と光明子の子孫が絶えた場合に長屋王が有力な皇位継承者であることを疎ましく思った者の狙いが、長屋王の変に現れている。

 光明皇后の住居・皇后宮については藤原不比等の邸宅の後身である法華寺であるといわれてきた。 光明子が太子と居住を構えたのは不比等の邸の一郭であったことから皇后宮もそこにあったとされていたが、1988年長屋王木簡の発見の頃、長屋王邸正面の二条大通りの遺構から光明皇后に関する木簡群が発見されたのである。 藤原麻呂の家政機関に関わる木簡の差出元は「中宮職」で、これは聖武天皇の実母・藤原宮子の庶務機関である。 あて先は「兵部省卿宅政所」 で、当時の兵部卿は藤原麻呂であるから、藤原麻呂の家政機関ということになる。 木簡には19人の名前 (池辺波利・太宿奈万呂・杖部廣国・秦金積・大鳥高国・川内馬飼夷万呂・日下部乙万呂・太東人・八多徳足・村国虫万呂・東代東人・山村大立・史戸廣山・大荒木事判・太屋主) が列挙され、これは宮子付の中宮舎人と見られる。 この木簡群は二条二坊の南面に集中しており、 これはここが藤原麻呂の家政機関であり藤原麻呂邸であったことを物語っているのである。

藤原麻呂の家政機関の中宮職移木簡

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長屋王家木簡

2008年03月02日 | 奈良・飛鳥時代

木簡からわかる長屋王

 平城宮の南東隣接部の一等地で1987年に木簡が発見され、「長屋皇宮」の文字が浮かび上がったのである。 翌1988年には掘削予定ではなかった住宅地の端で土に埋まった木簡が発見されたが、それは約3万5千点に達するものであった。 当時、紙は貴重なものであったから、荷札、メモ等々は木簡といわれる木の札に記載されたのであるが、発掘現場が長屋王の住居であったという決定的な証拠となったのは「雅楽寮移長屋王家令所」と書かれた木簡である。 これは宮廷の音楽を担当する雅楽寮から長屋王の家政機関の長官に宛てたものであるが、家政機関(家令)というのは親王及び職事のうち三位以上の諸王・諸臣に対して国から与えられた家政担当の組織である。 雅楽寮が発掘現場であるはずはないことから、現場が長屋王の邸宅ということになった。 長屋王の家令の名は赤染豊嶋、年齢60歳であった。 壬申の乱の時に高市皇子の従者として活躍した赤染徳足の息子が赤染豊嶋である可能性は高く、高市皇子没後に息子・豊嶋が長屋王に仕えることになったと考えられる。

長屋親王宮鮑大贄十編        雅楽寮移長屋王家令所

           

 祖母が九州の豪族・胸形氏の出身であったために天武の第一皇子であったが皇位に就くことはできなかったが、母は天智天皇の娘・御名部皇女で元明天皇の異母姉にあたる。 正妻は元明と草壁皇子の娘・吉備内親王で膳夫王、葛木王、鉤取王らの息子がいる。 吉備内親王との結婚は703年頃で、704年に初めて歴史に登場する。 そのときの叙位は正四位上であり29歳にしては異例に遅い。 これは皇位継承資格者としての長屋王の台頭を危険視したためと考えられる。 704年の叙位により長屋王は皇位継承候補者から外され、官人として歩むことになる。709年には従三位に叙せられ翌年、宮内卿から式部卿になり718年に大納言に任ぜられ天武の子世代の親王に匹敵する待遇を与えられた。 715年に吉備内親王所生の子を皇孫扱いするということは長屋王を親王扱いすることを意味する。 木簡に「長屋親王」と記されていたことは周知の事実であったのである。

 長屋王の邸宅三条二坊の四坪の敷地の内郭中央の居住空間には正殿と脇殿が建ち、天皇の居住空間に匹敵する格式を窺わせる。内郭の西宮には吉備内親王が住み、邸宅の北半分には家政機関や使用人の居住空間になっている。 また、木簡から邸宅に集まるさまざまな物資を見ることが出来る。 各地からの封戸は90にも及び摂津の塩漬け鯵、伊豆の荒鰹、武蔵野国の菱の実、美濃の塩漬け鮎、越前の栗、阿波の猪、紀伊・讃岐の鯛、など全国から珍味が送られてきている。 また、高市皇子の実家である母・尼子娘かたからのものもあり結びつきが長屋王の代になっても保たれていたことが窺える。

各地からの贈り物荷札の木簡

御取鰒(あわび)五十烈           伊雑郷近代鮨              賀吉鰒廿六貝

                

 これらの木簡から、石川夫人や安倍大刀自らの側室にも支給されていたのであるが、藤原不比等の娘・長蛾子夫人の名は全く見られないことから実家である不比等邸宅に暮らしていたものと思われる。 長屋王の多くの子供達の名も木簡に登場し、後に異例の昇進をする竹野女王(不比等の嫡男・武智麻呂の妻となる)が長屋王の妹とみられ長屋王の庇護の下にあったことがわかる。

長屋王妹・竹野女王へ贈られた米荷の木簡

竹野皇子二取米三升○余女   竹野王子進米一升大津/甥万呂/  竹野王子御所進粥米二升受老

                      

 

安宿王(長屋王と妾長蛾子との息子)への贈答札の木簡

北門○安宿戸○依網津○播磨○賀毛     北門○/安宿/額田∥○/紀伊/檜前

                 

 710年から717年にわたる長屋王一家の豪奢な生活ぶりはこの木簡で明らかになったが、このとき長屋王はまだ大納言にもなっていなかったが、親王としての格別の立場を物語っている。

1.4平方kmにも及ぶ平城宮跡は710-784までの間古代国家の中枢として機能した場所で、長屋王邸宅は二条大通に面した一等地にある。

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太朝臣安万侶

2007年11月21日 | 奈良・飛鳥時代

正五位上勲五等・太朝臣安萬呂:?~723

 太朝臣安萬呂の墓は奈良公園の東に10kmほどいったところにあります。この辺一帯は田原地区といい、近くには光仁天皇陵、春日宮天皇陵があり、閑静なところです。 「古事記」序文によれば、古来から伝わる「帝紀」や「本辞」の乱れや誤りを憂慮した天武天皇が、当時28歳の舎人稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じて「帝皇日継」「先代旧辞」等を誦習させ、新たに国史書を作ろうとしたが完成しなかった。 元明天皇の御世に、太安万侶に勅詔がくだり、稗田阿礼が誦した「勅語の旧辞」を安万侶が筆録し、完成したものを和銅5年(712)正月28日に上進した、となっている。 舎人親王らと「日本書紀」の編纂に関係したとも伝える。  一説に依れば、太安万侶は古事記の上巻を編纂しただけで、残りを実際に執筆したのは柿本人麻呂という説もあるが、定かでない。(撮影:クロウ)

 

 

 

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長屋王

2007年11月19日 | 奈良・飛鳥時代

長屋王

 第二阪奈道路の壱分インターを南下すること約5kmのところに長屋王墓はあります。近鉄生駒線平群駅のすぐ東で、古代歴史ファンなら是非いってみたいところです。

 長屋王684-729・奈良時代の左大臣は皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、藤原氏の陰謀により自害する。 父は高市皇子、母は天武皇女の御名部皇女(元明の同母姉)で、皇親として嫡流に非常に近い存在である。 長屋王の正妃は吉備内親王で、夫婦の間には膳夫王、葛木王、鉤取王らがいる。 また藤原不比等の娘・藤原長蛾子との間に安宿王、山背王、黄文王らをもうけた。

 1986年、二条大路南のデパート建設予定地で発掘調査が行われ、奈良時代の貴族邸宅址が大量の木簡とともに発見され、長屋王邸と判明した。長屋王邸は平城宮の東南角に隣接する高級住宅街に位置し、現在はイトーヨーカドーとして利用され、敷地の一角に記念碑が設けられている。 長屋王の邸宅跡から発掘された木簡には 「長屋親王宮鮑大贄十編」の文字があり、在世時には長屋親王と称され、本来親王は天皇の息子または孫に天皇から直接「親王宣下」されない限り名乗れなかったことから、元明天皇によって二世王の待遇を受けていたことがわかる。 (撮影:クロウ)

 

 

 710年、元明天皇は都を平城京に移し、奈良時代が始まる。 715年、元正天皇の後首皇子が即位し、716年、聖武天皇は藤原不比等の娘・宮子の皇子であり光明子を妻とし、藤原氏の基盤となる。 717年、左大臣石上麻呂が死去し、右大臣・不比等は次男房前を参議とする。  720年、不比等が死去すると、その意思は藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)に受け継がれ、721年、天皇家最高血統の長屋王が右大臣になる。  長屋王は高市皇子と元明天皇の姉・御名部皇女の子である。722年、元明前女帝が亡くなると参議・房前は元正女帝から内臣(天皇側近職)を任じられると、 723年、政府高官による天皇非難により、藤原四兄弟と長屋王はより対立することになる。 724年、元正女帝は退位し、首皇子に皇位を譲る。 これは藤原氏が持統天皇の頃からの望みであった。 

 しかし朝廷には長屋王を推す勢力が存在していた。 首皇子が聖武天皇の位につくと藤原四兄弟はますます、地盤固めを行う。 即位の当日、聖武天皇の母宮子夫人を「大夫人」とする詔をだした。 天皇の母になったからである。 これは大宝律令の定めた後宮職令に基づくものとの主張であったが、漢詩文に長けた長屋王は、勅を奉じることにより、皇の字が失われることを主張する。 受け入れざるを得なくなった聖武天皇は勅を撤回し、入知恵をした内臣・房前の面目はつぶれた。 727年、藤原氏の念願が叶う。 聖武天皇と光明子に基皇子が生まれたからである。 ところが翌年夏、基皇子が病死したのである。 藤原一族は希望の星を失うと、聖武天皇のもう一人の夫人・県犬養広刀自が同年、安積皇子を産む。 藤原氏は焦った。 光明子に子が生まれなければ安積皇子が皇位につくからである。 藤原一族は権勢を維持するために、光明子夫人を皇后につけることが必要であった。 聖武天皇に万一のことがあれば、皇后を天皇に立てることができるのである。 しかし皇后になるには皇女でなければならないという律令の定めがあったが、強引に臣下の娘を皇后にたてたのである。

 長屋王は、宮子大夫人尊称事件の経緯、朝廷内での信望が厚いということもあり、藤原氏にとっては、是が非でも失脚させる必要があった。 729年、事件は起こった。 下級役人の密告があった。 「左大臣・長屋王は天皇の命を縮めるべく、呪いをかけている。 基皇子の死もそのためだ」 というのである。 朝廷は勅命により、宇合指揮のもと長屋王亭を包囲し、罪を問いただした。 長屋王には罪はなかったが、もはや何を言っても通用しないと悟り、翌日 妻・吉備内親王、皇子とともに自殺したのである。  首謀者はもちろん藤原四兄弟であるが、他の貴族を押し黙らせる権勢を誇っていたため、このようなことがまかりとおったのである。

 

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天武に殺害された天智天皇

2007年11月13日 | 奈良・飛鳥時代

天武に殺害された天智天皇

墓の所在が不明な天智天皇

 日本書紀から約400年後の平安末期に僧・皇円(天台宗の阿闍梨で法然の師)が書いた「扶桑略記」によると、天智天皇が亡くなり大友皇子が25歳で即位したときのこと、「天皇は山科の郷に遠乗りに出かけたまま帰ってこなかった。山中奥深くはいってしまい、どこで死んだかわからない。仕方が無いのでその沓の落ちていたところを陵とした。」 この内容は日本書紀がいう内容とは違うが、天武と新田部皇女の子・舎人親王の編纂による日本書紀が真実を言っているとは思えないという説を正しいとすると、天智天皇の死が暗殺ということになる。 これと関係があるのか、実は天智天皇の墓所は書紀には一切記されていない。 れっきとした天皇でありながら墓の所在が正史に書かれていないのは天智唯一である。

没年齢不明な天武天皇

 壬申の乱の主人公である大海人皇子の没年は686年であるが没年齢は実はわかっていない。これは国史大辞典にも空白でしめしている。いわば日本書紀の編纂側である大海人皇子の最も重要なデータが無いというのは大きな謎である。 鎌倉時代の「一代要記」では没年齢が65歳と記載されていることから、生まれは622年となるが、兄・中大兄皇子の生まれが626年であるから、弟ではなくなってしまう。実は壬申の乱といういわば大反乱の理由には、中大兄皇子と大海人皇子が実は同母兄弟ではなかったのではないかとの説もあるのである。

天智暗殺に関わった栗隈王

 67111月、壬申の乱の前年に唐からの使者・郭務宗(かくむそう)が日本へ来る。そして翌月に天智天皇は死亡している。 当時唐と日本が軍事同盟を組もうとしており、新羅は同盟締結阻止のために反新羅派政権である天智が弱体化するように常に工作を行っていた。 法師動行による草薙剣を盗もうとしたこともそのひとつである。 天武は出家と称して吉野へ逃れたが、天智の近江朝廷には天武側のスパイがいた。 それは筑紫大宰の栗隈王である。 この男は壬申の乱の際に大友皇子率いる近江朝廷を裏切って天武に味方する。 大宰府長官である栗隈王は政府の最高機密である外交方針をいち早く知ることが出来る。郭務宗が来日の目的を告げてきた(書紀には記載がない)とき、大宰府長官の栗隈王は天智よりもはやくそれを知り、天武派にもそれを告げた。 扶桑日記からすると、天武の計画は次である。 狩の好きな天智を待ち伏せして暗殺し死体を隠そうというものである。 実は栗隈というのは天智が行方不明になった山城国の宇治周辺の地名であり、天智暗殺現場の地理に詳しい栗隈王が一役買っているのは確実である。 後に栗隈王は従二位を贈られており、通常では考えられない出世である。 実は奈良時代に出た著名な政治家・橘諸兄は彼の孫にあたる。 

天智暗殺の地 小倉・天王

 天智天皇は山科で暗殺され、遺体は巨椋池のほとりの地・小倉に埋められたとされ、小倉・天王に石碑が建てられた。 木幡にほど近いこの地は最大の協力者・栗隈王の領地でもあり、現在石碑はこのちの地蔵院に保存されているという。 因みに京都府宇治市史には、石碑保存に関する伝承が紹介されている。 小字天王から宇治に通じる旧道には榎の大木があり、昭和54年には伐採されたが、小字天王21番地には若宮と呼ばれた小祠と天智天皇と刻まれた墓石があり、ここに葬られていたという。

天武天皇の正体

 壬申の乱は親新羅派の天武が反新羅派の天智を暗殺することによて日唐同盟を阻止し、その息子・大友天皇をも滅亡させて、天下を奪う乱であり、その乱を正当化するために日本書紀は天武天皇の皇子・舎人親王等によって捏造された(天武にとって都合のいいように編纂された)と考えたらどうなるであろう。天武は天智の弟ではないから一体何者なのかという問題が残る。佐々木克明氏によると新羅人の金多遂であるという。金多遂は後の太宗武烈王である金春秋と来日し、春秋は帰国したが多遂は帰国の記録がなく、日本に留まり着々と勢力を伸ばして天智・大友王朝を倒して天下を取ったというものである。 また、小林恵子氏によると天武は高句麗人淵蓋蘇文だったという。 淵蓋蘇文は高句麗の重臣で死後に息子たちは勢力を強めたが多くの内紛の末高句麗は668年に滅亡した。しかし淵蓋蘇文は実はなくなってはおらず、日本へやってきて天下をとって天武天皇になったという。いずれも朝鮮からいきなりやってきた人が日本の王になるというものである。 次は大和岩雄氏が発展させた天武は高向王の子・漢皇子であったというものである。高向王とは天智の母・斉明女帝が初めに結婚した相手である。 その子・漢王子のことは書紀に記載されているが、それ以降登場しないのである。もしも漢皇子が天武であれば、天武と天智は異父兄弟ということになる。 そうすると天武の生まれは622年で、血統が故に弟の天智が天皇となった理由もわかる。高向王の出身は明らかではないが皇族であることは間違いない。 すると書紀がいうようにあえて、天武(漢皇子)の父・高向王を隠す必要性はなくなる。 つまり天武の出自を隠す必要があったとすれば、天武の母は斉明でも父は皇族ではなく天武(漢皇子)が皇位に付くことを不可能にするような位置にあったと考えられる。 「斉明天皇紀」によると高向王は用明天皇の孫とあるので、厩戸皇子の兄弟が高向王の父ということになる。用明天皇には厩戸皇子のほかには来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子、当麻皇子の4皇子がいたが、この4人に高向王という子がいたという記載はない。つまり高向王の経歴は不明なのである。もしも書紀に経歴が明確に記載されていれば、漢皇子の出自に何ら問題はなく、高向王をあえて天武にする必要性もなくなる。 従って天武は天皇として即位する資格を失うような身分であったということになる。

天智系にこだわった持統女帝

 天武天皇の皇后である鸕野讃良皇后(後の持統天皇)はこれを意識していた。つまり夫・天武の系統は排除し、父・天智の血統を持つ自分が皇位継承を果たすべきであるとの考えのかに行動をとるのである。 天武は天智の娘を4人も妻としているから近江朝廷の大実力者であったことは間違いない。天武は鸕野讃良皇后以外にも多くの妻がいて多くの皇子を産んでいる。天武の後継者となったのは鸕野讃良皇后との間に生まれた草壁皇子である。大津皇子を危険視した鸕野讃良皇后は大津に無実の罪をきせて自殺させたにもかかわらず、草壁は天武の喪が明けないうちに皇子のままで死に、即位することはなかった。鸕野讃良皇后は天武の孫で草壁の子である軽皇子(後の文武)を将来皇位に着けさせるために、他の有力皇子をさしおいて自分が即位した。 高市皇子や舎人皇子が即位すれば軽皇子が皇位につく可能性はなくなってしまうからである。 ここまでして天智系の皇位継承にこだわったのは天武系を根絶やしにするのも目的であったのかもしれない。持統天皇の「持統」の諡号には我こそ正当な系統であるという意味である。 つまり天武とは本来皇位を継ぐべき人間ではないとの主張の裏付けである。 天武の母は斉明と考えていいであろうが父は皇族ではなく息子の天武が皇位を継ぐことを全く不可能にするような位置にあったと考えてよい。 持統は天武という正当な後継者ではない男と他の女性との間に産まれた子を皇位につけることを断固拒否した。時の太政大臣で天武系の有能な高市皇子が邪魔になるのは必然である。天武が残した優秀な皇子と張り合うには持統にとって限界があった。 そこで登場するのが藤原不比等で代表される藤原一族であり、これとの連立により持統王朝は成立する。持統王朝の目的は持統女帝の血を引く男系の子孫に皇位を継承させることにある。これに協力したのが藤原一族である。694年に持統は藤原京に遷都する。「藤原京」である。いかに藤原氏の力が大きかったかがわかる。しかしこの持統・藤原連立王朝も100年足らずで危機におちいる。

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播磨・鶴林寺

2007年11月05日 | 奈良・飛鳥時代

播磨の法隆寺・鶴林寺

 高句麗の僧、恵便法師は、物部氏ら排仏派の迫害を逃れて、播磨に身をかくします。 聖徳太子は恵便法師を慕い、その教えをうけるため、この地に来られたと云います。 565年(鶴林寺のHPでは565年となっているが、聖徳太子が生まれたのは573年頃であるので恵便が加古川に来たのが565年か・・)、高麗より来朝した僧・恵便が加古川で身をかくしている際、厩戸皇子が大和からはるばるこの地へ足を運ばれ「木の丸殿」をつくり恵便の教をうけられたという。 のちに、秦造河勝(厩戸皇子の舎人)に命じて三間四面の精舎を建立し、刀田山四天王寺聖霊院と名付けられたのが鶴林寺のはじまりであると伝えられている。

 

国宝・本堂と県指定文化財三重塔(撮影:クロウ)

 

新薬師堂

 

 鶴林寺の伽藍配置は、本堂、太子堂、常行堂、三重塔、鐘楼、仁王門など広い境内の中に美しい配置が見られます。(上空写真は、「はりまの名刹 刀田山鶴林寺」兵庫県立歴史博物館編集より)

 その後、養老2年(718年)、武蔵の大目「身人部春則」(むとべはるのり)が太子の遺徳を顕彰するため、七堂伽藍を建立し、さらに9世紀の初め慈覚大師円仁が入唐の際に立ち寄られ、薬師如来を刻して国家の安泰を祈願された。 天永3年(1112年)に鳥羽天皇から勅額をいただき、以来「鶴林寺」と寺号を改め、勅願所に定めらた。 鎌倉時代、室町時代と太子信仰の高まりとともに、鶴林寺は全盛時代をむかえ、寺坊30数カ坊、寺領25.000石、楽人数十名が常に舞楽を奏していたといれれたが、戦国時代にいたって、信長、秀吉らの弾圧、さらには江戸幕府の厳しい宗教政策のため、衰徴の一途をたどらざるを得なかった。(8カ坊、117石に激減し、明治維新の排仏棄釈など、時代の荒波を潜り抜け、今日、宝生院、浄心院、真光院の3カ寺、15,000坪の鶴林寺となった。) 聖徳太子はあつく仏教を信仰され、三つの経典の解説書を書かれたが、鶴林寺はそのうちのひとつ『法華経』講讃の寺として知られている。天台宗の開祖である伝教大師最澄上人も深く聖徳太子を讃仰され『法華経』をよりどころの経典とされた。 天台宗鶴林寺は、加古川市街・尾上街道と鶴林新道に囲まれた一角にある。「刀田の太子さん」と親しまれている。『刀田』は山号、「太子さん」とは鶴林寺を創建した聖徳太子のこと。「播磨の法隆寺」とも言われている。 仁王門から正面が国宝本堂。前庭に菩提樹と沙羅の木。釈迦涅槃(入滅)のときに、沙羅の木が、まるで鶴の羽のように真っ白に枯れたという伝説がある。鳥羽天皇が「鶴林寺」の勅額を下賜し、寺名となった。「鶴林」とは釈迦 涅槃の「沙羅双樹の林」を意味する。 

  広がった法隆寺文化

 再び遡って考えてみるが、恵便を太子がどのように扱ったかもよく分からない。ただ、蘇我・物部氏の争いが終わり、聖徳太子はさらに仏教を深めるために朝鮮半島から高僧を招く。そして、恵便は播磨に帰り、実践僧として各地に寺を建てたのではないだろうか。 続日本書紀に「印南野臣」だった牟射志(むさし)が太子の馬司となったために「馬養造」に変わったというくだりがあり、この地域が太子と近い関係だったことが分かる。また、西条山手の国指定史跡の行者塚古墳から日本で最古級の鉄製の馬のくつわや帯金具が出てきたことから、大陸文化がいち早く入った先進地であり、中央に強い発言権を持つ豪族がいたことも分かる。

 行者塚古墳は90m級の前方後円墳で。3世紀の中国製金銅帯金具が頂上部から出土しているらしく、行者塚古墳は豪族の長の墓かもしれません。 3世紀といえば邪馬台国が北九州から東遷し、大和に向けて移動しようとする前ですから、この中国製金銅帯金具は卑弥呼の使者が魏から持ち帰ったものなのかも・・・・。 聖徳太子は、法華経、勝鬘経(しょうまんきょう)、維摩経の三経義疏を残し、うち法華経は中国の経典の解釈を越えるものと評価されている。また太子が天皇に講義をしたところ、いたく感激され、天皇が播磨の水田百町を授けたと日本書紀にある。 加古川市内には、法隆寺と同じ伽藍配置を持つ寺院があった。七世紀末から九世紀にかけての西条廃寺、八世紀前半から九世紀の石守廃寺、七世紀末から九世紀にかけての中西廃寺などで、法隆寺文化の広がりがうかがえる。しかしそれらはすべて九世紀で一度終わっている。それは868年の播磨大地震ですべて倒壊したからと考えられる。

 人塚古墳のすぐ隣に「西条廃寺跡」 という寺院の遺跡があります。 法隆寺式伽藍配置の巨大な寺院跡で、7世紀後半の遺跡と推定されているらしく、発見当時は3年かけて学術調査がされたことも考えると、寺院を建てた豪族の勢力が飛鳥から、この播磨まで及んでいたのかと思ってしまいます。 当時、聖徳太子が冠位十二階を制定した頃、諸豪族は自らの権力を誇示するために寺院の建設を行いました。 これには、新羅・高句麗の寺院建設技術が必要だったのですが、法隆寺式伽藍配置が、この技術を意味しているのであれば播磨の豪族は一体誰なのでしょう。 寺院の建設の長として活躍した飛鳥の阿倍倉梯麻呂の寺でさえ、ここほど立派ではありません。

 

 

平安時代に再興

 ところで、鶴林寺がその地震までどこにあったのだろうか。別の場所にあったのか、ここにあったのかを特定することはできない。しかし、本堂の重要文化財・薬師如来と両脇侍像や、厨子の下の土壇、十一面観音立像などは平安前期のものであり、太子堂や常行堂で最近の赤外線調査、多くの聖徳太子伝などの史料を照らし合わせると、平安前期に今の場所に平安本堂があったと思われる。  また聖徳太子が、天台大師・智の師匠の南岳慧思禅師の転生だとされたために法華経を深めたことなどが、鑑真の弟子の思託が著した「上宮皇太子菩薩伝」にあり、最澄も太子が開いた四天王寺を非常に大切にした。このような太子信仰と天台宗が強く結びついて、鶴林寺は、再建されたのではないかと考えられる。

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天皇陵の制定

2007年09月09日 | 奈良・飛鳥時代

天皇陵の制定

 神日本磐余彦尊、つまり神武天皇は我が国の始祖王である。 かならずしも実在しないのが特徴であるが、大海人皇子はその墓に詣でることによって天皇系譜の正当性を主張した。 つまりこうである。 「軍勢が金網井に結集したとき、高市郡大領の高市県主許梅は突然口が塞がってものを言う事ができなくなった。 三日後神がかりの状態になって、私は高市社における事代主の神である。また身狭社における生霊神である。 神日本磐余彦尊の山陵に馬とさまざまな武器を奉じるがよい。私は大海人皇子の前後に立って不破の関までお送りして帰ってきました。いまもまた官軍の中に立ってそれを守護している。 西の道から軍勢がやってくる。用心せよ。 といい終わって神がかりの状態からさめた。 そこで早速許梅を御陵の参拝させて、馬と武器を奉じ、敬い祭った」 

 さらに遡ること600年頃のこと、約20年間にわたって聖徳太子の師となり、高句麗に帰国した僧・慧慈なども、日本に始祖王の墓の必要性を説いている。 継体天皇が応神五世の孫と称して登場したとき、皇位継承の正当性の根拠を王統とのつながりに求め、磐余の地に宮を置いたことから、神武天皇はこのときに創出されたのかもしれない。

 ところで、古代に陵墓として治定されていたのはどこであったかというと、聖武天皇が730年に山陵六箇所と母・光明子の父親である藤原不比等墓に奏拝した、とある。 山陵六所は天智天皇陵、天武・持統天皇合葬陵、文武天皇陵、元明陵、元正陵、真弓陵である。 孝謙天皇の勅によると、草壁皇子については天武が崩御し持統天皇が即位するまでの実質的な天皇であり、天下は天皇と称しなかったが尊号を追祟するのは古今の恒典であり今より後岡宮天皇と称し奉る、としている。 奈良時代の天皇陵祭祀は神武天皇陵以外については天智天皇系列が重要視され、大王時代の巨大な前方後円墳はあまり注目されることはなかった。

 そして平安時代になると、「十陵四墓制」詔が清和天皇の時代(858年)に出されている。 十陵を列挙すると次となる。天智天皇山階山陵、春日宮御宇天皇(基施皇子)田原山陵、天宗高紹天皇(光仁天皇)後田原山陵、贈太皇太后高野氏(新笠)大枝山陵、桓武天皇柏原山陵、贈太皇太后藤原氏(乙牟漏)長岡山陵、崇道天皇(早良親王)八島山陵、先太上天皇(平城天皇)楊梅山陵、仁明天皇深草山陵、文徳天皇田邑山陵。 また、四墓は贈太政大臣藤原朝臣鎌足の多武峯墓、後贈太政大臣藤原朝臣冬嗣宇治墓、尚侍贈正一位藤原朝臣美都子宇治墓、贈正一位源朝臣潔姫愛宕墓である。 当時の陵前祭祀は平安京遷都を行った桓武天皇を始祖として実施され、十陵の中には神日本磐余彦尊陵は含まれていない。 さらに淳和天皇が即位すると(823年)山陵の奏告する事例が行われるようになったが、これらは血統の近い天皇陵に対してのみである。 そしてこの制度は、光孝天皇時代には十陵五墓、宇多天皇時代には十陵八墓、村上天皇時代には十陵九墓となっている。 日本書紀に見える全ての天皇陵を調査して記録に残したのは、10世紀初めに編纂された「延喜式」で、ここには神代三陵を含めて73陵が列記され、このときには全ての天皇陵が祭祀の対象となっている。 

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物部連麻呂

2007年07月11日 | 奈良・飛鳥時代

物部連麻呂

 物部連麻呂とは物部石上系出身の武人であり、前半生は大友皇子に仕え、壬申の乱後は大海人皇子に仕え、蘇我連合軍に滅ぼされたにもかかわらず自らの努力により、物部氏族として出世し貴族となり、最後には左大臣にまで登りつめた御方である。しかしそこには左大臣としての達成感はほとんど無く、空しいものであった。

 麻呂の家は代々石上神宮を管理し石上本宗家といってよい。朝早く起きた麻呂は石上神宮に参拝した。布都御魂が主神である。 日向から大和に東征した神武は南方の熊野に迂回し、布都御魂という霊剣に守られて大和入りしている。 神武がその剣を持つと毒気に当たっていた兵士は皆元気になったという。 最初、石上神宮は王家により掌握されていたが、垂仁天皇の頃に物部十千根に移り、それ以来物部が管理するようになった。かつての物部は王家の重臣であった。垂仁の時代は王権が脆弱で丹波、出雲、吉備などと連合していた。王は丹波系の女人を何人か後宮にいれ、日葉酢媛命を正妃とした。長男がイニシキイリ彦王、次男がオオタラシ彦(景行天皇)である。イニシキイリ彦王は茅渟の宮にいて、千刀の刀を作り、石上神社に納めた。そこでイリヒコ王が神宮の神宝を管理することになったが、老いた王は妹の大中姫に管理権を譲ろうとした。が、結局物部十千根の手に渡り現在まで続いている。物部が巨大氏族になったのは雄略大王の時代である。その後、軍事力以外に様々な技術者集団を抱え、八十物部と言われるようになったが、物部本宗の守屋は蘇我馬子を長とする飛鳥朝廷軍に破られた。 そろそろ復興するときであろうと物部連麻呂、朴井連雄君は考えていたのである。

 

七枝刀(ななつさやのたち)は物部が奉斎する石上神社に祀られている

 壬申の乱の戦後処理が終わった676年、朴井連雄君が遣新羅大使に任ぜられた。時の新羅王は文武王である。ところが、朴井連雄君は脳卒中で倒れ、後任に物部連麻呂を指名した。 この頃、壬申の乱の功績者が続々と亡くなっている。朴井連雄君の死に際しては、天武は内大紫という26階級中5位という高位を与えている。 それに比べると物部連麻呂は19位の大乙上であり、朴井連雄君に代わって 遣新羅大使となるにはあまりにも位が低かったが、元大友派としては仕方がない。 しかし、物部連麻呂の遣新羅大使としての仕事ぶりは群を抜いており天武に好評を得たようである。 これにより物部連麻呂は貴族達に一目を置かれる存在になていくのである。 天武は能力主義を貫いている。 たとえ壬申の乱時に大友皇子側であったとしてもである。 中臣連大嶋は中臣連金の甥であったが、博学であったがゆえに神祇次官に任じて重用している。 物部連麻呂が大山中に昇進したのは679年、40歳の頃である。 大山中は26階級中14位で、貴族の最下位・小錦下のすぐ下にあたるから貴族になるのもすぐに迫っていた。 落ちぶれた物部の末裔が、壬申の乱に敗れた後に、ここまで上がるのは並大抵ではない。しかも物部連麻呂は娘を藤原朝臣不比等に入れている。

 679年、天武は吉野で盟会を行った。 異母兄弟である草壁、大津、高市、川島、忍壁、施基皇子を集め、天皇の命に従い助け合うように誓約させている。 長子は高市皇子であるが、母が筑紫の宗像氏で有力豪族でもなんでもない。 従って皇后が生んだ草壁皇子が皇太子となった。  しかしこの頃から皇子達の間にお互いに競争相手視する意識が強まったともいえるのである。というよりも草壁皇子を溺愛する皇后の他の皇子に対する牽制が目に余ったためか・・・。皇后が人望のある大津皇子を恨み、それが表面化したとも考えられる。 草壁皇子は病弱であり凡庸である。次の天皇になる器ではなかった。皇后が苛立つのも無理はないが、天武天皇が亡くなれば皇太子草壁が天皇になるであろうが、皇后が亡くなれば、天皇は草壁から皇太子の位を剥奪し、大津皇子に与えるであろう。反発するものもほとんどいないであろう。 天武と皇后の間には間違いなく亀裂がはいっていると物部連麻呂は感じていた。 亀裂は草壁皇子の問題だけではなく後宮の女人に次々と手をつける天武に対する皇后の気持ちを推し量れば容易に理解できる。 なにしろ壬申の乱の際に吉野を脱出して夫とともに桑名までいった皇后はまだ28歳であったからである。

 

天智天皇の別荘地・吉野の宮滝

 この頃、物部連麻呂は石上神社の巫女であった振姫という女性を後宮にいれている。思ったとおり彼女は侍女となり皇后に仕えると、定期的に物部連麻呂に皇后の心境などを報告している。それによると朝廷が分裂ぎみであるというのである。 天皇の大津皇子への寵愛ぶりにより官人が迷い始めているという。 これに対して皇后は草壁皇子の補佐役として無位の大舎人・中臣連史をつけた。 大織冠・藤原鎌足の子で後の藤原朝臣不比等である。鎌足は先の天皇・天智の片腕として蘇我入鹿を倒し蘇我本宗家を滅ぼした。 この大化の改新という革命は彼がいなければなし得なかった。そして天智は鎌足に安見児と鏡女王の二人の女人を与えた。 当時安見児は天智の子を身篭っており、それが不比等であると考えられている。生まれた史は天智に似ており、壬申の乱の前に史は山科の田辺史大隈の家に移されたことも噂を広げた原因である。 物部連麻呂は振姫を通じて皇后が史の出生の秘密を知っているのを掴んだ。このとき物部連麻呂は天武と皇后のどちらにつくかが自分の将来を大きく左右されるのを知った。

 681年、物部連麻呂の努力が報われる。とうとう貴族である小錦下に任ぜられたのである。同時期に貴族になったのは柿本臣猿、粟田臣真人、中臣連大嶋、高向臣麻呂といった蒼々たる連中がいた。貴族になると邸宅の敷地はこれまでの10倍になり、10人以上の従者が国からの給料付で与えられる。 この頃、天武と皇后の亀裂はさらに広がりを見せた。 天武が大津皇子に政治の一端をまかせるようになったからである。天武は草壁皇子の位を浄広壱、大津皇子を浄大弐とし、一位の差をつけることにより皇后の気持ちを和らげようとしたが、天武の大津皇子に対する期待感溢れる様子に嫉妬は和らぐはずもなかった。 この年草壁皇子と后の阿閉皇女(後の元明天皇)は軽皇子(後の文武天皇)を産んでいる。 阿閉皇女は天智の娘で母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘で、その母も石川麻呂の娘・遠智姫である。

 天武と皇后の間に溝が深まるに連れて天武はやせ細り、太り始めた皇后は政治に対する発言も増し、本格的な都の地として藤原の地を押し始めた。 そして視察に史や物部連麻呂も従った。緊張感が高まる中で一人自由奔放に山中で狩を楽しみ、漢詩を詠むのは大津皇子である。大津皇子と行動を共にするのは天智の子・川島皇子、天武の子・御方皇子、八口朝臣音樫、巨勢朝臣多益須、中臣朝臣臣麻呂など数え切れない。 狩場は大和周辺であるが吉野に通じる竜門岳まで及んだ。 物部連麻呂は振姫を通じて調べたことを皇后に報告する。

 668年、天武の容態は悪化し、陰陽師に占わせた結果、草薙剣の祟りであるという。早速飛鳥浄御原宮の宮殿に祀っていた剣は熱田神宮に戻されたが効果は薄く、胃の痛みに喘ぐ天武の声が宮中に響き、侍女も官人も耳をそばだてる。 物部連麻呂は久しぶりに天武を見たがあまりのやつれように叩頭で視線を逸らせた。大津皇子の妃は天智の娘・山辺皇女で20歳になったばかりであるが、ある噂が流れた。 草壁皇子が惚れている若い女人に大津皇子が言い寄っているという。 草壁が大名児と呼ぶその女人・石川郎女は美貌と歌才で有名で、草壁が後宮に入れた蘇我系の女人である。大津皇子は、微妙な立場にあるにもかかわらず大胆な行動にでたことに物部連麻呂は呆れた。 しかも酒宴の席で堂々と詠んだのである。 「大船の津守の占に告らむとはまさしに知りてわが二人宿し」 そしてこの直後大津皇子は一人伊勢神宮の斎宮に行き、姉の大伯皇女に会っている。皇后がなみなみならぬ決意を感じ取った頃、天武は正殿で亡くなり、宮の南に殯宮が建てられた。 物部連麻呂は法官の長として誄に加わったが、これは物部連麻呂が皇后に認められたことを意味する。

 そして川島皇子から大津皇子が謀反を企てているとの密告に対して、物部連麻呂は物部氏を率いて大津の屋形を取り囲む。壬申の乱で大将であった高市皇子も皇后側についている。大津皇子の謀反事件はあっというまに終わった。 大津は逮捕されると翌日には死を賜った。 それを知った妃・山辺皇女は大津の死体にすがって殉死したという。大津の狩に従った多くの者も逮捕され、物部連麻呂は彼等の名を皇后に報告している。事件を知らなかった草壁皇子は大津の刑死に衝撃を受けて鬱々とした日々を過ごすのである。気の強い女帝は草壁の回復を信じたが、鬱は続き、天武の長い殯の儀式が終わり遺体が大内陵に葬られた直後に草壁は病床の身となり、半年後に亡くなったのである。

檜隈大内陵と岡宮天皇真弓丘陵

    

   大津皇子は葛城山の北端にある雄岳、雌岳が並ぶ二上山に、女帝の意思により埋葬された。二上山は西方浄土の入り口のようなところで、無実の大津を罠にはめた女帝が祟りに怯えて鎮魂の目的で決めたと考えられる。689年、史が名を不比等とした頃、皇后は亡くなった草壁を偲び嶋宮を度々訪れ、692年には壬申の乱を偲ぶ伊勢への行幸を強行している。 農民を苦しめることになると三輪朝臣高市麻呂は反対したが、物部連麻呂が警護の将軍として行幸の供をしたのである。女帝と物部連麻呂の結びつきが定説以上であることの証ともいえる。 万葉集には、この時の物部連麻呂の歌 「吾妹子をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも」 などは、とうとうここまで登りつめたかという満足感がこもった歌である。 696年には直広壱に昇進し従者50人を賜る身分となった。 このとき20歳ほど年下ではあるが藤原不比等が直広弐であるから、いかばかりか窺える。 女帝の孫の軽皇子は14歳になり皇太子までまじかである。 この頃天武の長子で太政大臣の高市皇子が亡くなった。 不比等の娘の宮子は皇子の夫人になる約束ができており、もはや天皇家の家族といってもよい不比等は物部連麻呂にとって強力な味方であるし、物部連麻呂の情報収集力には不比等は一目を置いている。

 この二人が協力したのは皇太子の候補についてである。もちろん二人の思いは草壁の子・軽皇子である。 しかし反対派としてやっかいな長皇子と弓削皇子がいた。天武と大江皇女との間に生まれたふたりに対抗できるのは、天智の娘・新田部皇女を母とする 舎人皇子である。新田部皇女の母は阿倍倉梯麻呂の娘であるから格は申し分がない。 一方新田部皇子は母が鎌足の娘・五百重娘で、後に不比等が妻にし、麻呂をもうけており、血統はいいが若すぎる。 十市皇女を母とする葛野王は大友皇子の子になるが、天智の孫にあたり、天武系の皇子だけではなく天智系の皇子も加えて、軽皇子を推挙させることを物部連麻呂は不比等と密談したようである。 早速物部連麻呂は天香具山近くの葛野王邸を訪れ、見方に加えた。 こうして長皇子・弓削皇子の反対のなか軽皇子が立太子し、後に文武天皇となっている。 

 701年には不比等の娘・宮子は文武の子・首皇子(後の聖武天皇)を産み、後宮で勢力を持つ県犬養美千代が不比等の子・安宿媛(後の光明皇后)を生んだ。このとき物部連麻呂は62歳で正三位大納言。 当時の右大臣は従二位阿倍朝臣御主人である。 翌702年についに律令は施行され、文武天皇は藤原京の北の平城の地に遷都の勅をだした。 唐から帰国した粟田朝臣真人は律令編纂に全力を傾けた官人で藤原京は貧弱すぎるというのである。 物部連麻呂は農民の苦役を想像し、反対の意見を持っているが、不比等はどうしても遷都したいと考えている。 女帝はこの年亡くなり、殯を嫌って火葬を行ったが、それ以来不比等の政治への関与は深まっていく。 病弱な文武は政治を執れる状態ではなくなり、文武の母・阿閉皇女が中継ぎの天皇になる可能性が高まった。 不比等は自分の孫である首皇子を天皇にしたいから、阿閉を積極的に中継ぎ天皇に推すためである。

 

   

 707年、文武が25歳で亡くなると母・阿閉が元明天皇として即位した。このとき物部連麻呂は元明天皇から左大臣の命を受けたがもちろん不比等の推挙であり、遷都に対して賛成するようにとの裏工作の現れである。物部連麻呂は左大臣を承諾はしたが、新しい都へ居を移すのではなく、かつて持統天皇がいた旧藤原京の宮殿を守りながら老後を過ごす意思を不比等に伝えた。 物部連麻呂が脳卒中で倒れたのは717年、78歳の長寿を全うし、元正天皇より従一位を賜り、不比等はその3年後に62歳で亡くなった。

 

畝傍山、耳成山、香具山に囲まれた藤原京の跡地。ここに朱雀門があった。

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持統天皇の命により建立された常信寺

2007年07月02日 | 奈良・飛鳥時代
常信寺 
 
 常信寺は持統4年(690)持統天皇の命により法相宗の神宮寺として建立されたお寺で、道後温泉本館から北へ1kmほど行った祝谷東町にあり、松平定行、定政の霊廟があるということで行ってみました。 まさに貸切状態で、閑静な雰囲気をひとりじめです。 
 松山藩主三代目の松平隠岐守定長公は、1662年江戸城で弓の競射を命じられます。 定長公はかねてから弓の名手として誉れが高く、射損じては面目丸つぶれとあって、湯月八幡宮に「石清水八幡宮と同じ建物をお建て致しますので金的を射させてください。」と祈願します。 ある夜、夢枕に八幡様がお立ちになって「私の指図通りにしなさい。必ず射止めるであろう。」とお告げになり、 当日になって、諸大名居並ぶ中、定長公は弓に矢をつがえ、きりりと引き絞って八幡様を祈念しますと金の鳩が目の前を飛び、これこそ八幡様のお指図と弓を放つと見事金的に命中します。  定長公は面目をほどこし、祈願された通り飛騨の工匠を招いて八幡造りの社殿を建立します。 実は、その前の1635年に 松平氏の道後温泉経営始まり、定行ら代々の松平松山藩主により大きく整備されたのです。
 
 松平定行(1587~1668)は、松山藩松平家初代の藩主で、寛永12(1635)年、伊勢国桑名から松山15万石の城主に移封せられた。正保元(1644)年、幕府から長崎警備を命ぜられ、異国船取扱の任に当たった。また久万地域に茶、楮を植えさせ、製茶、製紙等を奨励したのをはじめ殖産興業に努め、創業期における松山藩政の基礎を確立した。万治2(1659)年、家督を定頼に譲り、東野に別荘(県指定史跡「東野お茶屋跡」)を営み、「勝山」と号して自適の生活に入り、寛文8(1668)年10月、82歳で没した。  霊廟は、本瓦葺の入母屋造、妻入りの建物で、桁行3間、梁間3間、出組三手先で唐破風をもつ、一部禅宗様をとり入れた江戸時代初期の霊廟建築を代表するものである。
 
 松平定政は、慶長15(1610)年、久松定勝の第6男として伏見城内で生まれ、資性極めて高まいの士で、将軍家光に仕えて能登守に任ぜられ、慶安2(1649)年、三河国刈谷2万石の藩主となります。 4代将軍家綱のはじめに、幕政改革の建白書を提出して時勢を論ずるとともに、領地返上を申し出て上野寛永寺に隠棲した。 幕府はこの所行を狂気のなせるわざとして城地を没収し、実兄松山藩主松平定行に預けて謹慎を命じた。定政は、吟松庵(畑寺町)に隠居して後「不白(伯)」と号し、和歌、華道に親しみ、この道の向上につくし、延宝元(1673)年12月に63歳で逝去した。
 
                                          奥が初代藩主松平定行の霊廟
 
 
 
 
 
常信寺庭園上から望む松平定行、定政の霊廟
 
 
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日本三古湯・道後温泉

2007年07月01日 | 奈良・飛鳥時代

道後温泉

 瀬戸内しまなみ海道にある大島・大三島を巡ったあと、辿りついたのはもちろん松山の道後温泉です。 前々から一度訪れてみたい思いつつ、なかなか来ることができなかった温泉のひとつです。 道後温泉は愛媛松山は伊予の国に湧出する日本三古湯の一といわれる温泉で、その存在は古代から知られ、「にきたつ」(煮える湯の津の意)といい、万葉集などにも数多く登場します。 道後温泉街はその中央にある道後温泉本館を中心として、L字型に道後商店街があり、 各所で足湯なども楽しめます。 足湯は湯釜を取り囲む形で3,4人用のベンチが作られ、腰を下ろして足を温泉に浸け、歩き疲れを取るものです。 

道後温泉本館とからくり時計 

 

 周辺には、坊っちゃん記念碑、道後公園、湯築城跡、松山城等々の見所が多数あります。 596年に厩戸皇子が療養のため道後温泉に滞在したことが伊予国風土記逸文に記されています。 高麗の僧・慧思と葛城臣なる人物を伴って赴き、このとき皇子は伊佐爾波の岡に登り、風景と湯を絶賛し、記念に碑文を遺したとされるが、今日までその現物は発見されておらず、道後温泉最大の謎とされているそうです。 碑の現物は亡失し、文面のみ『釈日本紀』巻14所引の『伊予風土記』逸文に残っています。『釈日本紀』や『万葉集註釈』が引用した「伊予風土記逸文」には、推古4年(596年)聖徳太子(厩戸皇子)と思われる人物が伊予(現在の愛媛県)の道後温泉に高麗の僧・慧思と葛城臣なる人物を伴って赴き、その時湯岡の側にこの旅を記念して「碑」を建て、その碑文が記されていたされています。
 
 
また、日本書紀や伊佐爾波神社の社伝によると、景行天皇、仲哀天皇、神功皇后、舒明天皇。斉明天皇等々多くの皇族方が行幸したとされています。 写真は大和旅館の足湯に掲載されていた道後にまつわる多くの物語。(撮影:クロウ)
 
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