吉備真備
吉備真備は19年間遣唐使として漢籍の将来を担うことにあった。 735年の帰国後の2年間で異常出世を果たし朝廷に食い込み、聖武天皇に寵愛された。737年に藤原四兄弟が亡くなっているから幸運な次期に帰国し出世したと言える。広嗣の乱以降は東宮の教育係として手腕を発揮し、阿部内親王(後の孝謙天皇)は吉備真備を師と仰いだ。が、749年藤原仲麻呂の台頭で九州に左遷となり仲麻呂時代は埋没していたが764年都から呼ばれ、造東大寺長官に任命され恵美勝押討伐軍に参加し活躍した。乱後は称徳天皇のもとで右大臣にまで登りつめた。 称徳天皇崩御後、皇位争いで藤原一族が推す白壁王(光仁天皇)に皇位をさらわれて失脚した。彼の人生は反藤原氏として貫かれたのである。
吉備真備公園にある吉備寺
吉備真備公御廟
吉備大臣宮