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物部連麻呂

2007年07月11日 | 奈良・飛鳥時代

物部連麻呂

 物部連麻呂とは物部石上系出身の武人であり、前半生は大友皇子に仕え、壬申の乱後は大海人皇子に仕え、蘇我連合軍に滅ぼされたにもかかわらず自らの努力により、物部氏族として出世し貴族となり、最後には左大臣にまで登りつめた御方である。しかしそこには左大臣としての達成感はほとんど無く、空しいものであった。

 麻呂の家は代々石上神宮を管理し石上本宗家といってよい。朝早く起きた麻呂は石上神宮に参拝した。布都御魂が主神である。 日向から大和に東征した神武は南方の熊野に迂回し、布都御魂という霊剣に守られて大和入りしている。 神武がその剣を持つと毒気に当たっていた兵士は皆元気になったという。 最初、石上神宮は王家により掌握されていたが、垂仁天皇の頃に物部十千根に移り、それ以来物部が管理するようになった。かつての物部は王家の重臣であった。垂仁の時代は王権が脆弱で丹波、出雲、吉備などと連合していた。王は丹波系の女人を何人か後宮にいれ、日葉酢媛命を正妃とした。長男がイニシキイリ彦王、次男がオオタラシ彦(景行天皇)である。イニシキイリ彦王は茅渟の宮にいて、千刀の刀を作り、石上神社に納めた。そこでイリヒコ王が神宮の神宝を管理することになったが、老いた王は妹の大中姫に管理権を譲ろうとした。が、結局物部十千根の手に渡り現在まで続いている。物部が巨大氏族になったのは雄略大王の時代である。その後、軍事力以外に様々な技術者集団を抱え、八十物部と言われるようになったが、物部本宗の守屋は蘇我馬子を長とする飛鳥朝廷軍に破られた。 そろそろ復興するときであろうと物部連麻呂、朴井連雄君は考えていたのである。

 

七枝刀(ななつさやのたち)は物部が奉斎する石上神社に祀られている

 壬申の乱の戦後処理が終わった676年、朴井連雄君が遣新羅大使に任ぜられた。時の新羅王は文武王である。ところが、朴井連雄君は脳卒中で倒れ、後任に物部連麻呂を指名した。 この頃、壬申の乱の功績者が続々と亡くなっている。朴井連雄君の死に際しては、天武は内大紫という26階級中5位という高位を与えている。 それに比べると物部連麻呂は19位の大乙上であり、朴井連雄君に代わって 遣新羅大使となるにはあまりにも位が低かったが、元大友派としては仕方がない。 しかし、物部連麻呂の遣新羅大使としての仕事ぶりは群を抜いており天武に好評を得たようである。 これにより物部連麻呂は貴族達に一目を置かれる存在になていくのである。 天武は能力主義を貫いている。 たとえ壬申の乱時に大友皇子側であったとしてもである。 中臣連大嶋は中臣連金の甥であったが、博学であったがゆえに神祇次官に任じて重用している。 物部連麻呂が大山中に昇進したのは679年、40歳の頃である。 大山中は26階級中14位で、貴族の最下位・小錦下のすぐ下にあたるから貴族になるのもすぐに迫っていた。 落ちぶれた物部の末裔が、壬申の乱に敗れた後に、ここまで上がるのは並大抵ではない。しかも物部連麻呂は娘を藤原朝臣不比等に入れている。

 679年、天武は吉野で盟会を行った。 異母兄弟である草壁、大津、高市、川島、忍壁、施基皇子を集め、天皇の命に従い助け合うように誓約させている。 長子は高市皇子であるが、母が筑紫の宗像氏で有力豪族でもなんでもない。 従って皇后が生んだ草壁皇子が皇太子となった。  しかしこの頃から皇子達の間にお互いに競争相手視する意識が強まったともいえるのである。というよりも草壁皇子を溺愛する皇后の他の皇子に対する牽制が目に余ったためか・・・。皇后が人望のある大津皇子を恨み、それが表面化したとも考えられる。 草壁皇子は病弱であり凡庸である。次の天皇になる器ではなかった。皇后が苛立つのも無理はないが、天武天皇が亡くなれば皇太子草壁が天皇になるであろうが、皇后が亡くなれば、天皇は草壁から皇太子の位を剥奪し、大津皇子に与えるであろう。反発するものもほとんどいないであろう。 天武と皇后の間には間違いなく亀裂がはいっていると物部連麻呂は感じていた。 亀裂は草壁皇子の問題だけではなく後宮の女人に次々と手をつける天武に対する皇后の気持ちを推し量れば容易に理解できる。 なにしろ壬申の乱の際に吉野を脱出して夫とともに桑名までいった皇后はまだ28歳であったからである。

 

天智天皇の別荘地・吉野の宮滝

 この頃、物部連麻呂は石上神社の巫女であった振姫という女性を後宮にいれている。思ったとおり彼女は侍女となり皇后に仕えると、定期的に物部連麻呂に皇后の心境などを報告している。それによると朝廷が分裂ぎみであるというのである。 天皇の大津皇子への寵愛ぶりにより官人が迷い始めているという。 これに対して皇后は草壁皇子の補佐役として無位の大舎人・中臣連史をつけた。 大織冠・藤原鎌足の子で後の藤原朝臣不比等である。鎌足は先の天皇・天智の片腕として蘇我入鹿を倒し蘇我本宗家を滅ぼした。 この大化の改新という革命は彼がいなければなし得なかった。そして天智は鎌足に安見児と鏡女王の二人の女人を与えた。 当時安見児は天智の子を身篭っており、それが不比等であると考えられている。生まれた史は天智に似ており、壬申の乱の前に史は山科の田辺史大隈の家に移されたことも噂を広げた原因である。 物部連麻呂は振姫を通じて皇后が史の出生の秘密を知っているのを掴んだ。このとき物部連麻呂は天武と皇后のどちらにつくかが自分の将来を大きく左右されるのを知った。

 681年、物部連麻呂の努力が報われる。とうとう貴族である小錦下に任ぜられたのである。同時期に貴族になったのは柿本臣猿、粟田臣真人、中臣連大嶋、高向臣麻呂といった蒼々たる連中がいた。貴族になると邸宅の敷地はこれまでの10倍になり、10人以上の従者が国からの給料付で与えられる。 この頃、天武と皇后の亀裂はさらに広がりを見せた。 天武が大津皇子に政治の一端をまかせるようになったからである。天武は草壁皇子の位を浄広壱、大津皇子を浄大弐とし、一位の差をつけることにより皇后の気持ちを和らげようとしたが、天武の大津皇子に対する期待感溢れる様子に嫉妬は和らぐはずもなかった。 この年草壁皇子と后の阿閉皇女(後の元明天皇)は軽皇子(後の文武天皇)を産んでいる。 阿閉皇女は天智の娘で母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘で、その母も石川麻呂の娘・遠智姫である。

 天武と皇后の間に溝が深まるに連れて天武はやせ細り、太り始めた皇后は政治に対する発言も増し、本格的な都の地として藤原の地を押し始めた。 そして視察に史や物部連麻呂も従った。緊張感が高まる中で一人自由奔放に山中で狩を楽しみ、漢詩を詠むのは大津皇子である。大津皇子と行動を共にするのは天智の子・川島皇子、天武の子・御方皇子、八口朝臣音樫、巨勢朝臣多益須、中臣朝臣臣麻呂など数え切れない。 狩場は大和周辺であるが吉野に通じる竜門岳まで及んだ。 物部連麻呂は振姫を通じて調べたことを皇后に報告する。

 668年、天武の容態は悪化し、陰陽師に占わせた結果、草薙剣の祟りであるという。早速飛鳥浄御原宮の宮殿に祀っていた剣は熱田神宮に戻されたが効果は薄く、胃の痛みに喘ぐ天武の声が宮中に響き、侍女も官人も耳をそばだてる。 物部連麻呂は久しぶりに天武を見たがあまりのやつれように叩頭で視線を逸らせた。大津皇子の妃は天智の娘・山辺皇女で20歳になったばかりであるが、ある噂が流れた。 草壁皇子が惚れている若い女人に大津皇子が言い寄っているという。 草壁が大名児と呼ぶその女人・石川郎女は美貌と歌才で有名で、草壁が後宮に入れた蘇我系の女人である。大津皇子は、微妙な立場にあるにもかかわらず大胆な行動にでたことに物部連麻呂は呆れた。 しかも酒宴の席で堂々と詠んだのである。 「大船の津守の占に告らむとはまさしに知りてわが二人宿し」 そしてこの直後大津皇子は一人伊勢神宮の斎宮に行き、姉の大伯皇女に会っている。皇后がなみなみならぬ決意を感じ取った頃、天武は正殿で亡くなり、宮の南に殯宮が建てられた。 物部連麻呂は法官の長として誄に加わったが、これは物部連麻呂が皇后に認められたことを意味する。

 そして川島皇子から大津皇子が謀反を企てているとの密告に対して、物部連麻呂は物部氏を率いて大津の屋形を取り囲む。壬申の乱で大将であった高市皇子も皇后側についている。大津皇子の謀反事件はあっというまに終わった。 大津は逮捕されると翌日には死を賜った。 それを知った妃・山辺皇女は大津の死体にすがって殉死したという。大津の狩に従った多くの者も逮捕され、物部連麻呂は彼等の名を皇后に報告している。事件を知らなかった草壁皇子は大津の刑死に衝撃を受けて鬱々とした日々を過ごすのである。気の強い女帝は草壁の回復を信じたが、鬱は続き、天武の長い殯の儀式が終わり遺体が大内陵に葬られた直後に草壁は病床の身となり、半年後に亡くなったのである。

檜隈大内陵と岡宮天皇真弓丘陵

    

   大津皇子は葛城山の北端にある雄岳、雌岳が並ぶ二上山に、女帝の意思により埋葬された。二上山は西方浄土の入り口のようなところで、無実の大津を罠にはめた女帝が祟りに怯えて鎮魂の目的で決めたと考えられる。689年、史が名を不比等とした頃、皇后は亡くなった草壁を偲び嶋宮を度々訪れ、692年には壬申の乱を偲ぶ伊勢への行幸を強行している。 農民を苦しめることになると三輪朝臣高市麻呂は反対したが、物部連麻呂が警護の将軍として行幸の供をしたのである。女帝と物部連麻呂の結びつきが定説以上であることの証ともいえる。 万葉集には、この時の物部連麻呂の歌 「吾妹子をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも」 などは、とうとうここまで登りつめたかという満足感がこもった歌である。 696年には直広壱に昇進し従者50人を賜る身分となった。 このとき20歳ほど年下ではあるが藤原不比等が直広弐であるから、いかばかりか窺える。 女帝の孫の軽皇子は14歳になり皇太子までまじかである。 この頃天武の長子で太政大臣の高市皇子が亡くなった。 不比等の娘の宮子は皇子の夫人になる約束ができており、もはや天皇家の家族といってもよい不比等は物部連麻呂にとって強力な味方であるし、物部連麻呂の情報収集力には不比等は一目を置いている。

 この二人が協力したのは皇太子の候補についてである。もちろん二人の思いは草壁の子・軽皇子である。 しかし反対派としてやっかいな長皇子と弓削皇子がいた。天武と大江皇女との間に生まれたふたりに対抗できるのは、天智の娘・新田部皇女を母とする 舎人皇子である。新田部皇女の母は阿倍倉梯麻呂の娘であるから格は申し分がない。 一方新田部皇子は母が鎌足の娘・五百重娘で、後に不比等が妻にし、麻呂をもうけており、血統はいいが若すぎる。 十市皇女を母とする葛野王は大友皇子の子になるが、天智の孫にあたり、天武系の皇子だけではなく天智系の皇子も加えて、軽皇子を推挙させることを物部連麻呂は不比等と密談したようである。 早速物部連麻呂は天香具山近くの葛野王邸を訪れ、見方に加えた。 こうして長皇子・弓削皇子の反対のなか軽皇子が立太子し、後に文武天皇となっている。 

 701年には不比等の娘・宮子は文武の子・首皇子(後の聖武天皇)を産み、後宮で勢力を持つ県犬養美千代が不比等の子・安宿媛(後の光明皇后)を生んだ。このとき物部連麻呂は62歳で正三位大納言。 当時の右大臣は従二位阿倍朝臣御主人である。 翌702年についに律令は施行され、文武天皇は藤原京の北の平城の地に遷都の勅をだした。 唐から帰国した粟田朝臣真人は律令編纂に全力を傾けた官人で藤原京は貧弱すぎるというのである。 物部連麻呂は農民の苦役を想像し、反対の意見を持っているが、不比等はどうしても遷都したいと考えている。 女帝はこの年亡くなり、殯を嫌って火葬を行ったが、それ以来不比等の政治への関与は深まっていく。 病弱な文武は政治を執れる状態ではなくなり、文武の母・阿閉皇女が中継ぎの天皇になる可能性が高まった。 不比等は自分の孫である首皇子を天皇にしたいから、阿閉を積極的に中継ぎ天皇に推すためである。

 

   

 707年、文武が25歳で亡くなると母・阿閉が元明天皇として即位した。このとき物部連麻呂は元明天皇から左大臣の命を受けたがもちろん不比等の推挙であり、遷都に対して賛成するようにとの裏工作の現れである。物部連麻呂は左大臣を承諾はしたが、新しい都へ居を移すのではなく、かつて持統天皇がいた旧藤原京の宮殿を守りながら老後を過ごす意思を不比等に伝えた。 物部連麻呂が脳卒中で倒れたのは717年、78歳の長寿を全うし、元正天皇より従一位を賜り、不比等はその3年後に62歳で亡くなった。

 

畝傍山、耳成山、香具山に囲まれた藤原京の跡地。ここに朱雀門があった。

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