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天武に殺害された天智天皇

2007年11月13日 | 奈良・飛鳥時代

天武に殺害された天智天皇

墓の所在が不明な天智天皇

 日本書紀から約400年後の平安末期に僧・皇円(天台宗の阿闍梨で法然の師)が書いた「扶桑略記」によると、天智天皇が亡くなり大友皇子が25歳で即位したときのこと、「天皇は山科の郷に遠乗りに出かけたまま帰ってこなかった。山中奥深くはいってしまい、どこで死んだかわからない。仕方が無いのでその沓の落ちていたところを陵とした。」 この内容は日本書紀がいう内容とは違うが、天武と新田部皇女の子・舎人親王の編纂による日本書紀が真実を言っているとは思えないという説を正しいとすると、天智天皇の死が暗殺ということになる。 これと関係があるのか、実は天智天皇の墓所は書紀には一切記されていない。 れっきとした天皇でありながら墓の所在が正史に書かれていないのは天智唯一である。

没年齢不明な天武天皇

 壬申の乱の主人公である大海人皇子の没年は686年であるが没年齢は実はわかっていない。これは国史大辞典にも空白でしめしている。いわば日本書紀の編纂側である大海人皇子の最も重要なデータが無いというのは大きな謎である。 鎌倉時代の「一代要記」では没年齢が65歳と記載されていることから、生まれは622年となるが、兄・中大兄皇子の生まれが626年であるから、弟ではなくなってしまう。実は壬申の乱といういわば大反乱の理由には、中大兄皇子と大海人皇子が実は同母兄弟ではなかったのではないかとの説もあるのである。

天智暗殺に関わった栗隈王

 67111月、壬申の乱の前年に唐からの使者・郭務宗(かくむそう)が日本へ来る。そして翌月に天智天皇は死亡している。 当時唐と日本が軍事同盟を組もうとしており、新羅は同盟締結阻止のために反新羅派政権である天智が弱体化するように常に工作を行っていた。 法師動行による草薙剣を盗もうとしたこともそのひとつである。 天武は出家と称して吉野へ逃れたが、天智の近江朝廷には天武側のスパイがいた。 それは筑紫大宰の栗隈王である。 この男は壬申の乱の際に大友皇子率いる近江朝廷を裏切って天武に味方する。 大宰府長官である栗隈王は政府の最高機密である外交方針をいち早く知ることが出来る。郭務宗が来日の目的を告げてきた(書紀には記載がない)とき、大宰府長官の栗隈王は天智よりもはやくそれを知り、天武派にもそれを告げた。 扶桑日記からすると、天武の計画は次である。 狩の好きな天智を待ち伏せして暗殺し死体を隠そうというものである。 実は栗隈というのは天智が行方不明になった山城国の宇治周辺の地名であり、天智暗殺現場の地理に詳しい栗隈王が一役買っているのは確実である。 後に栗隈王は従二位を贈られており、通常では考えられない出世である。 実は奈良時代に出た著名な政治家・橘諸兄は彼の孫にあたる。 

天智暗殺の地 小倉・天王

 天智天皇は山科で暗殺され、遺体は巨椋池のほとりの地・小倉に埋められたとされ、小倉・天王に石碑が建てられた。 木幡にほど近いこの地は最大の協力者・栗隈王の領地でもあり、現在石碑はこのちの地蔵院に保存されているという。 因みに京都府宇治市史には、石碑保存に関する伝承が紹介されている。 小字天王から宇治に通じる旧道には榎の大木があり、昭和54年には伐採されたが、小字天王21番地には若宮と呼ばれた小祠と天智天皇と刻まれた墓石があり、ここに葬られていたという。

天武天皇の正体

 壬申の乱は親新羅派の天武が反新羅派の天智を暗殺することによて日唐同盟を阻止し、その息子・大友天皇をも滅亡させて、天下を奪う乱であり、その乱を正当化するために日本書紀は天武天皇の皇子・舎人親王等によって捏造された(天武にとって都合のいいように編纂された)と考えたらどうなるであろう。天武は天智の弟ではないから一体何者なのかという問題が残る。佐々木克明氏によると新羅人の金多遂であるという。金多遂は後の太宗武烈王である金春秋と来日し、春秋は帰国したが多遂は帰国の記録がなく、日本に留まり着々と勢力を伸ばして天智・大友王朝を倒して天下を取ったというものである。 また、小林恵子氏によると天武は高句麗人淵蓋蘇文だったという。 淵蓋蘇文は高句麗の重臣で死後に息子たちは勢力を強めたが多くの内紛の末高句麗は668年に滅亡した。しかし淵蓋蘇文は実はなくなってはおらず、日本へやってきて天下をとって天武天皇になったという。いずれも朝鮮からいきなりやってきた人が日本の王になるというものである。 次は大和岩雄氏が発展させた天武は高向王の子・漢皇子であったというものである。高向王とは天智の母・斉明女帝が初めに結婚した相手である。 その子・漢王子のことは書紀に記載されているが、それ以降登場しないのである。もしも漢皇子が天武であれば、天武と天智は異父兄弟ということになる。 そうすると天武の生まれは622年で、血統が故に弟の天智が天皇となった理由もわかる。高向王の出身は明らかではないが皇族であることは間違いない。 すると書紀がいうようにあえて、天武(漢皇子)の父・高向王を隠す必要性はなくなる。 つまり天武の出自を隠す必要があったとすれば、天武の母は斉明でも父は皇族ではなく天武(漢皇子)が皇位に付くことを不可能にするような位置にあったと考えられる。 「斉明天皇紀」によると高向王は用明天皇の孫とあるので、厩戸皇子の兄弟が高向王の父ということになる。用明天皇には厩戸皇子のほかには来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子、当麻皇子の4皇子がいたが、この4人に高向王という子がいたという記載はない。つまり高向王の経歴は不明なのである。もしも書紀に経歴が明確に記載されていれば、漢皇子の出自に何ら問題はなく、高向王をあえて天武にする必要性もなくなる。 従って天武は天皇として即位する資格を失うような身分であったということになる。

天智系にこだわった持統女帝

 天武天皇の皇后である鸕野讃良皇后(後の持統天皇)はこれを意識していた。つまり夫・天武の系統は排除し、父・天智の血統を持つ自分が皇位継承を果たすべきであるとの考えのかに行動をとるのである。 天武は天智の娘を4人も妻としているから近江朝廷の大実力者であったことは間違いない。天武は鸕野讃良皇后以外にも多くの妻がいて多くの皇子を産んでいる。天武の後継者となったのは鸕野讃良皇后との間に生まれた草壁皇子である。大津皇子を危険視した鸕野讃良皇后は大津に無実の罪をきせて自殺させたにもかかわらず、草壁は天武の喪が明けないうちに皇子のままで死に、即位することはなかった。鸕野讃良皇后は天武の孫で草壁の子である軽皇子(後の文武)を将来皇位に着けさせるために、他の有力皇子をさしおいて自分が即位した。 高市皇子や舎人皇子が即位すれば軽皇子が皇位につく可能性はなくなってしまうからである。 ここまでして天智系の皇位継承にこだわったのは天武系を根絶やしにするのも目的であったのかもしれない。持統天皇の「持統」の諡号には我こそ正当な系統であるという意味である。 つまり天武とは本来皇位を継ぐべき人間ではないとの主張の裏付けである。 天武の母は斉明と考えていいであろうが父は皇族ではなく息子の天武が皇位を継ぐことを全く不可能にするような位置にあったと考えてよい。 持統は天武という正当な後継者ではない男と他の女性との間に産まれた子を皇位につけることを断固拒否した。時の太政大臣で天武系の有能な高市皇子が邪魔になるのは必然である。天武が残した優秀な皇子と張り合うには持統にとって限界があった。 そこで登場するのが藤原不比等で代表される藤原一族であり、これとの連立により持統王朝は成立する。持統王朝の目的は持統女帝の血を引く男系の子孫に皇位を継承させることにある。これに協力したのが藤原一族である。694年に持統は藤原京に遷都する。「藤原京」である。いかに藤原氏の力が大きかったかがわかる。しかしこの持統・藤原連立王朝も100年足らずで危機におちいる。

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