大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

鍵屋辻の数馬茶屋

2011年02月24日 | 三重県
池波正太郎『食卓の情景』“柳生から上野へ”で,筆者は“金谷”でバター焼とすき焼を食べた。
そのあと“伊賀上野”の章で,「伊賀越の仇討ち」の現場「鍵屋ノ辻」へと出かけていた。
人間ドックでこの本を読みながら,私は無性に伊賀上野へ行きたくなった。
「鍵屋ノ辻」は車で何度も通っているが,ゆっくり停まって見学したことがない。
私はナビを「鍵屋ノ辻」に設定した。

「鍵屋ノ辻」の北西の角に「文政十三年庚寅年(1830年)仲秋再建」、「みぎいせみち(右伊勢道)」、「ひだりならえ(左奈良へ)」と彫られた道標が建っていた。
「鍵屋ノ辻」の南西奥には「数馬茶屋」が建っていた。
ここは昔、京都、奈良方面から伊勢へ向う道筋「伊賀街道」で、また、奈良から江戸へ向う道筋「江戸街道」でもあった。
1634年(寛永11年)11月7日旧備前岡山藩士河合又五郎が、武芸の達人河合甚左衛門や桜井半兵衛奈良ら一行10人に護衛され、奈良から笠置を越え、伊賀国島ヶ原を通り、江戸へ下る途中、ここへやって来るのを待ち伏せ、兄渡辺源太夫17才を4年前河合又五郎19才に殺害された渡辺数馬が、松平郡山藩剣術指南役で姉婿の荒木又衛門ら3人の助太刀を受け、隠れていた茶屋です。河合又五郎ら一行11人が人目をはばかるようにして差し掛ると、荒木又衛門ら主従4人は彼らの前に立ち塞がり、仇討ちの主意を伝えて切りかかり、遂に大願を成就したという。

なお、「数馬茶屋」では、荒木又衛門が、仇討ちの朝、茶屋の主人に蕎麦と目刺の鰯を注文したが、緊張している渡辺数馬に「今日の首尾を祈って、傍(そば)でゆわす(又衛門の出身地伊賀の方言で成就する)は目出度いことだ」と語り、今でも「数馬茶屋」の定食「祝膳」には、蕎麦と鰯が付いているという。
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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
は・は・は・・・何度か聞いたお話 (山口ももり)
2011-02-25 10:21:26
そうそう・・・相棒が何度か話してくれてました。覚えが悪くってねえ
返信する
Unknown (瓜亀仙人)
2011-02-25 17:28:22
ももりさんへ
この仇討ちは日本3仇討ちの1つと言われているそうですが,あとの2つは???
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Unknown (幽黙)
2011-02-25 23:54:50
曾我兄弟と赤穂浪士…ですよね
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Unknown (瓜亀仙人)
2011-02-26 16:08:13
幽黙さんへ
そうでした,そうでした。
曾我兄弟と赤穂浪士…
最近,すぐに出てこなくって・・・
返信する
数馬の里 (山桜)
2011-02-26 18:55:26
東京の奥にも数馬の里があります。
九頭竜神社が祭ってあるのですが、
南朝と何か関係があるのかしら…?
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Unknown (瓜亀仙人)
2011-02-27 18:21:50
山桜さんへ
んん~
東京にも数馬ですか???
南朝との関係???
それは,坂東三十三観音霊場巡りに行くまでの課題ということで・・・
退職後のことになりますが・・・
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