プラムフィールズ27番地。

本・映画・美術・仙台89ers・フィギュアスケートについての四方山話。

◇ オルハン・パムク「雪」

2021年06月24日 | ◇読んだ本の感想。
しまった……。

以前「わたしの名は『紅』」を読んだ時、翻訳の巧拙が気になったので、
今度は別な翻訳で読もうと思っていたんだった。
そんなことをすっかり忘れて、同じ人の訳で読んでしまった。

「紅」も読むのに時間かかったが、これもかかったー。
10時間から12時間くらいかかったのではないか。
読んでも読んでも終わらない感じ。
数日、間も空いているので、物語の前半は順次忘れていくっていうね……


4分3くらいまでは根本的な疑問にこだわらずに素直に読み進められた。
根本的な疑問とは、

   この話はKaという主人公の軌跡を詳細に追っているのだが、
   追っている語り手がKaの親友である小説家(オルハン・パムク本人――あるいは
   架空のオルハン・パムク)なのに、
   Kaの心情まで事細かに語っていること。

他人が「その時にKaが何を思ったか」までわかるはずない。
イペッキに対する思いとか、わかるはずがないもの。

でも、まあ4分の3まではそこは気にならなかったんだよ。
語り手は単なるナレーターに徹しており、別に個人的なキャラクターではなかった。
最初にちょろっと「友人」と名乗るが、
あとはほとんど無個性で、単なる三人称の小説として読めた。

が、4分の3を過ぎたあたりから、語り手のキャラが立ってくるんだよなあ……。
だんだん「Kaの親友である自分」が語る形式になっていく。
そうなると前半の構造が疑問になっていく。
なので、最後はだいぶ疑問を持ちつつ読んでいた。疑問を持ちつつ読んで、
作品世界に没頭できるはずもなく。

さらに疑問といえば疑問なのが、これはネタバレだが、




















イペッキが紺青と過去に恋仲だったという設定ね。
なんかすっきりしなかった。わたしは。
イペッキが単に不実な女だよなー。夫がいる身で紺青と関係を持ち。
その後、夫とは別れたとはいえ、Kaと関係を持ち。
散々一緒にフランクフルトに行くと言いつつ、しかし心はまだ紺青にある。

まあ実生活でもあり得る状況とはいえ、前半部でKaがあまりにもイペッキを
賛美しているから、堕ちた偶像と感じてしまって、がっかりする。
政治パートと恋愛パートは分けて欲しかった。


Kaは死んだんだろうけど……その死の事情が語られてないよね?
うっすらと一行二行で言及されていた気がしたけど、そんなうっすらでいいのか。
もやもやしたまま終わった。
わたしは納得できないなあ。


※※※※※※※※※※※※


とはいえ、全然知らないトルコの現代史――1990年代初頭――の、
トルコの辺境の状況を読めて良かった。

1990年かあ。今から30年前。うーん、30年といえばだいぶ昔ではあるが、
読んでると1960年代くらいのイメージだなあ。

舞台は首都アンカラから……というよりイスタンブールから遠く離れた、
トルコの東はずれの地方都市、カルス。
その小さな町でイスラム主義と欧化主義(と、呼ぶのが最適かどうかは知らない)の
対立が、小さい規模で、しかし根強く続いている。
最初に、宗教的な理由で髪を隠したい少女の自殺事件。
そして暗殺事件が起きる。次に大量虐殺事件が起きる。


イスラム教では女性は髪を隠さなければならないと規定する。
そして政教分離を掲げる国家では、学校で髪を覆うことを禁止される。
フランスでも問題になりましたよね。わたしはこれを聞くと辛くてなあ。

宗教心が篤い人にとって、人前で髪を出すことは相当恥ずかしいことだと思う。
それなのに、髪を覆うことを禁止されてしまう。
髪を出さないと学校に入ることも許されない。
教育の機会を奪われる。これは本当に辛いと思う。

日本でいえば……日本でいえば……宗教的にちゃらんぽらんな日本では、
例えられるレベルのタブーがないんですよね。
かなり考えて無理くり思いついたのは、家内土足禁止厳禁。
欧化政策で「家の中で靴を脱ぐ生活スタイル禁止!」と言われるくらい理不尽なこと。
このレベルだと思うんですよね。

髪を覆いたい人は覆う、出したい人は出す、どちらでも選択可能にならないか。
それでこそ信教の自由だと思うんですが。

だが宗教感覚は本当に個人によって千差万別なもので……
どこで折り合いをつけるかという問題にはなる。
髪を出す、覆うという点で折り合いをつけられればいいけれども、
段階が(どんな段階があるかはわたしは具体的には知らないが)進んでいくと、
それはそれで困ることがある気がする。
難しい。


それから欧化政策について。

明治期に開国した日本でさえ、欧米の風には吹きさらされた。
当時は国語をフランス語にしようと真面目に主張した一派もいたそうだし。

距離があって、島国で、ある程度影響も抑えられた日本にしてそうなんだから、
陸続きで古来から交流があって、宗教戦争を何度も戦ってきた、
愛憎ははるかに深いと思われるトルコにおける欧米への思いは、
日本人よりも重い。

国境を接して宗教も利害も考え方が違う人たちが、
しかも世界の中心に座ってしまった獰猛な欧米人が
そんなに穏やかな隣人になるはずないんだもの。

アラビア世界の人々は、ある時期には世界の最高の文化を生み出していたという
自負もあっただろう。ヨーロッパとの間では昔から商業が盛んで繋がりも強い。
が、ふと気づけば近代化という道のりで置いて行かれてしまった。
その焦りと、憧れと、怖れと、自恃と。
憧れるにせよ怖れるにせよ、日本でよりもさらに深刻な、身近にある脅威。

この点を日本と比較しながら読んでいた。
尊王攘夷で騒いでいた頃の日本と似通うところがあるのかな……
欧化政策と近代化と宗教感情と自意識の四つ巴。
それが混然一体に絡み合っていて明快に区別できないところが大変なところなんだ。


オルハン・パムクは現実世界にコミットしないタイプの小説家。だろう。多分。
その人が書いた「最初で最後の政治小説」ということだ。
その後なのかな?彼の発言が政治的な物議をかもして、炎上したらしい。
本人にそこまで政治的な意図があった発言の様子ではないが。

まあどんな発言でも、その一つだけを取り上げればどこかの誰かの逆鱗に触れるしね。
特に近々は自分が気に入らないことには何事によらず食いついていいという
風潮になっているし。視聴者参加型と炎上は表裏一体。


「イスタンブール、思い出とこの町」というエッセイを読んで終わりにしようと
思ったが、それだけでは他の翻訳が読めないのでもう1冊読む。
「白い城」かな。

あ、白といえば、この作品は「雪」というタイトルで、ほんとに雪が
大切なモチーフになっている。これほど相応しいタイトルはないほど重要。
そして、トルコ語では雪は「kar」というそうなんですよ。

――主人公が(半ば偏執的に)自分の呼び名を「ka」にすることにこだわるのに
何も意味がないはずはないし、「ka」と「kar」が無意識のレベルにせよ
なんらかの関連性がないわけはないと思うのだが、
「韻を踏む以上の意味は特にないようだ」と言ってしまう翻訳家に
信頼できないものを感じる。
物語の冒頭で雪はKarであるということを教えておいて欲しかった。表紙に載せるとか。
ちなみにカルスもKars。韻を踏むという遊び心とだけ言ってしまっていいのか。
疑問を感じる。



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