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つばさ

平和な日々が楽しい

予定通り実施か、それとも慎重に先送りか

2013年08月20日 | Weblog
夕歩道

2013年8月20日


 夏休みにもいろいろあるが、ドイツの偉大な作曲家ブラームスの場合、ハイデルベルクなどの郊外に涼んでいよいよ創作の意欲を燃やしたそうだ。さすがバッハ、ベートーベンと並ぶ3Bの一人。
 ある夏休みには、歌手に勧められ、保養地で知られるバルト海の島に出かけた。静かな田舎町を散歩すると、カエルの鳴き声。その中に、よく和する音程を聞き分けて、以来、彼の交響曲の中に。
 さて安倍首相の夏休み。ゴルフをずいぶん楽しんだそうだが、その胸中は来春の消費税増税の思案か。予定通り実施か、それとも慎重に先送りか。国民の声を聞き分ければ、慎重論が多いのだが。

家族との時間も仕事に集中する時間も自分で上手につくり出す。

2013年08月20日 | Weblog
春秋
8/20付

 労働時間を短くする動きは少なくとも半世紀前からある。1959年ごろにキヤノンが「ゴー・ホーム・クイックリー」、つまりできるだけ早く仕事を終えて家に帰ろうという社内運動を始めた。ただ当時の社長で発案者だった御手洗毅氏は、世間の反応が不満だった。

▼マイホーム主義と混同されていたからだ。真意は、メリハリをつけよということ。「責任を果たすためには時として夜を徹するもよし」。そして懸命に努力する姿に「家族も尊敬と信頼をこめて帰宅を迎えることであろう」。そう官庁の広報誌に書いている。時間を自己管理できなければダメだと言いたかったに違いない。

▼家族との時間も仕事に集中する時間も自分で上手につくり出す。企業の競争が激しくなり仕事量が増えている今、時間の使い方を工夫することは昔以上に大事だ。働く時間を測らず、労働時間規制の対象外とする「ホワイトカラー・エグゼンプション」など、本人の裁量による働き方の議論も始まろうとしているのだから。

▼実業界に転じる前に医者だった御手洗氏は、社員の健康管理に気を配った。40歳以上は全員心臓と血管を検査し、結果が少しでも思わしくなければ治療や休養を命じた。社員の顔色もよく見て、体調は大丈夫かと声をかけたという。「夜を徹するもよし」との言葉には、そう言えるだけの配慮があったことも付け加えたい。

狂気の上にも重ねた狂気。でも帰って来たんだ生きたかったんだよね。

2013年08月19日 | Weblog
夕歩道

2013年8月19日


 ひと群れの赤トンボが、送り火に羽を振るように、ひょろひょろと頼りなく、夕焼け空に消え入った。いつの間にか、ヒグラシが鳴いている。心なしか乾いた風が吹き、積乱雲が小さくなった。
 赤とんぼ。九三式中間練習機。オレンジ色に塗られていたため、そう呼んだ。複葉機。ちょっとやさしい体つき。戦前戦中五千機以上造られた。海軍の飛行士なら、誰でも一度は乗ったという。
 終戦の直前には、特攻機に転用された。まるで空飛ぶ竹やりだった。狂気の上にも重ねた狂気。でも帰って来たんだね。もっともっと、飛びたかったね。もっともっと、生きたかったんだよね。

たった一人の自然な死にも、残った者を成長させる貴い力があるのに、なぜ人間は愚かな殺し合いを

2013年08月19日 | Weblog
春秋
8/19付

 身近な人が亡くなると、まわりの空気の色がひとり分だけ変わる。それまで控えめだった若者が急にたくましい顔つきになったり、権力者だった年長者が物静かになったり。別れの寂しさはやがて時が埋め、人の死を越えて残った者の関係が新しい均衡点に移っていく。

▼お盆に子や孫の元を訪れていた精霊たちは、天界に帰っていったことだろう。自分がいなくなった後の家族の面々と向き合い、一人ひとりの変化に気づいたに違いない。時は移ろい、人は成長する。週が明けて8月も終盤に入った。帰省先や休暇から都会に人々が戻って来る。今年の夏の終わりは、もうそこまで来ている。

▼一人の死で変わるのが、家族や仲間の内の空気だとすれば、大勢が一度に亡くなったとき変わるのは、社会の風景そのものである。戦争がそうだった。日本では広島と長崎で都市が丸ごと消えた。東京は焦土となった。個人の心の調整で何とか対応できるような出来事ではない。忘れられない、忘れてはならない夏である。

▼エジプトの騒乱で死者が増え続けている。画面に映るのは憎悪と悲嘆にゆがんだ顔ばかり。まるで戦争と変わりがない。たった一人の自然な死にも、残った者を成長させる貴い力があるのに、なぜ人間は愚かな殺し合いを繰り返すのか。この国に新たな均衡が見つかることを祈りつつ、わが先祖に、いま一度手を合わせる。

戦った相手は「韓国」、終戦の年は1038年と珍回答が相次いだ。

2013年08月18日 | Weblog
春秋
8/18付

 「ももいろクローバーZ」、通称ももクロ。NHK紅白歌合戦にも出場した人気アイドルグループだ。同時に、5人のメンバーは今の日本を生きる17歳から20歳の少女でもある。現役高校生を含む彼女らは、先の戦争をどう理解しているか。若手社会学者が試験をした。

▼戦った相手は「韓国」、終戦の年は1038年と珍回答が相次いだ。しかし試験後の座談会(古市憲寿「誰も戦争を教えてくれなかった」所収)を読むと、学校に問題が多いと分かる。縄文弥生は詳しく、中世から急ぎ始め、現代史はプリントを配り終了。そんな授業を小中高と3回繰り返す。彼女らも古代史には詳しい。

▼試験前に年号を覚え、終われば忘れる。戦争も条約も、名前に覚えはあっても順番はあいまいになる。「歴史(の授業)で習うと日本のことじゃないような気がして」。正直、なかなか的確な感想だと思う。いま私たちが生きるこの社会と、歴史上の出来事は、どう関係しているのか。先生はきちんと教えているだろうか。

▼座談会でメンバーの1人が、「子供のころ戦争があった」という祖父の言葉を思い出し、今との距離をつかむ。そうした体験を語る人も、時と共に減る。今の日本の原点となる記憶をどう伝えるか。工夫を怠れば、全く無関心か、アクション映画やゲームを見て勇ましさだけで戦争をとらえるか、そんな向きが増えていく。

夜空を彩る花火も安全があってこそ。

2013年08月17日 | Weblog
夕歩道

2013年8月17日


 夏の風物詩の花火。中国で発明され、のろしとして使われた黒色火薬が、その起源とされる。観賞用の花火は十四世紀にイタリアで広まり、王の権力誇示のため、イベントなどで打ち上げられた。
 火薬は種子島に伝わり、イギリス国王の使者が徳川家康に花火を見せたという記録も。発祥の中国では、花火は「煙火」。花火工場の事故が後をたたず、強制的に働かされる子どもたちも犠牲に。
 日本でも昔は工場の事故が相次いだ。明石の花火では、群衆が歩道橋でなだれをおこす惨事も。京都の見物客も屋台が爆発するとは夢にも思わなかったろう。夜空を彩る花火も安全があってこそ。

いささかアブノーマルな連中と思われがちです

2013年08月17日 | Weblog
春秋
8/17付

 半世紀前、東京・西新宿の台湾料理店で日本SF作家クラブの設立発起人会が開かれた。集まったのは11人の男たち。星新一、光瀬龍、小松左京、半村良……。今から振り返ると実に豪華な顔触れだが、当時は中堅・若手といったところ。長老格の星で30代半ばだった。

▼「SFをやっている者は、世間からは、変わったものをやっている、いささかアブノーマルな連中と思われがちです」。作家クラブ設立の仕掛け人だった福島正実は席上、こう語ったという。SFに対する無理解や偏見は随分強かったらしい。そんな逆風に立ち向かい、いわば未踏の地を切り開いたパイオニアたちだった。

▼彼らは多感な年ごろで敗戦を迎えた世代でもあった。だからだろう、日本に対する複雑なまなざしを感じさせる作品が少なくない。たとえばクラブの初代事務局長をつとめた半村の長編「産霊山(むすびのやま)秘録」。日本史を読み替える伝奇SFだが、東京大空襲の惨禍と戦後社会の混乱を描いた章は読み進むにつれて苦い思いが募る。

▼最後は物語を断ち切るように現実にあったことを「記録」して幕を閉じる。東京大空襲を指揮した米国の軍人、カーチス・ルメイが戦後、航空自衛隊に協力したとして日本政府から勲章をおくられた記録と、大空襲の被害の記録と。半世紀の間に、SFは日本に根を広げた。パイオニアたちのまなざしは今、どうだろうか。


「国境を知らぬ草の実こぼれ合ひ」

2013年08月16日 | Weblog
春秋
8/16付

 シェークスピアの原典とはわずかに違うのだが、戯曲「トロイラスとクレシダ」の一節を白鳥敏夫元駐伊大使は英文のまま墨書した。「世界中の人間はみんな同じ性質で結ばれているんですな」(三神勲訳)といった意味である。ほかにも20人以上の名前が並んでいる。

▼東京裁判の最中、1946年秋にA級戦犯が墨でしたためた寄せ書きがアメリカでみつかった。日系の米兵看守に贈られたものだという。写真に見えるかぎり、署名の前に中国の古典や仏教典から引いた一言を書き添えた例が多い。「ひがし西大平洋につながれてくさびとならむ人ぞ尊き」は重光葵(まもる)元外相の自作だろうか。

▼座右の銘か、書き慣れたお得意か。あるいは日本語がわかったという米兵へのサービスだったのか。万邦協和、諸悪莫作(しょあくまくさ)、鳶飛魚躍(えんびぎょやく)……。寄せ書きにはもうほとんど目にしない熟語がある。そこにこもる心情をいま推し量るのは難しい。他方、一言を添えず名だけ記した何人かがいる。胸には異なる心情が宿ったのだろう。

▼ただはっきりしているのは、名を連ねた人たちが戦時の日本を指導する立場にいたことである。寄せ書きの写真を眺め、のこった教訓めいた言葉を時に辞書で調べながら、思い出した川柳がある。「国境を知らぬ草の実こぼれ合ひ」(井上信子)。70歳を過ぎた一女性が40年に発表した句の方がどれだけのびやかなことか。

「中韓の反発に屈するな」との意見が出るのは歴史に目を閉ざすからか。

2013年08月15日 | Weblog
夕歩道

2013年8月15日


 終戦記念日に、思い出す。七年前の自民総裁候補の討論会。谷垣禎一氏が、日中国交正常化の際、中国が日本の戦争指導者と国民を分ける「二分論」で、賠償請求を放棄したとの歴史に言及した。
 安倍晋三氏は「文書は残っていない。中国の理解かもしれぬが、日本側は皆が理解していることではない」と反論。中国指導者が二分論で、自国民を納得させようとした歴史の重みを切り捨てた。
 首相の靖国参拝はなかった。だが、いつも「中韓の反発に屈するな」との意見が出るのは歴史に目を閉ざすからか。侵略に「痛切な反省」を示した村山談話。政権が代われども重みは変わらない。

「新しき世をし創らむと若きらがひたぶるなりしその貌(かお)を見よ」

2013年08月15日 | Weblog
春秋
8/15付

 「熱涙滂沱(ぼうだ)として止まず」。きのうの小欄で触れた昭和20年8月15日の内田百間の言葉は、当時の多くの日本人が玉音放送に接したときの偽りない姿だったろう。「どう云う涙かと云う事を自分で考えることが出来ない」と百間はしたためている。人々はただ、泣いた。

▼それは無念の涙だった。悔恨の、憤怒の涙だった。幻滅の、虚脱の涙だった。たとえば「昭和萬葉集」の第7巻は終戦を詠んだ歌を集めているが、そこにも涙があふれている。「父母(ちちはは)の泣けば幼き子等までがラヂオの前に声あげて泣く」高見楢吉。この巻の題は「山河慟哭(どうこく)」という。8.15体験は、かくも激しかったのだ。

▼慟哭は、戦争で死んだたくさんの人々の痛苦と響き合っていたに違いない。死者およそ310万人。当時の人口でみると、じつに25人に1人が戦場で、あるいは戦禍にたおれて亡くなった。国民のこれだけの命を奪い去り、死を日常の風景とまでした昭和の戦争の過ちは、やはりどれほど省みても過ぎるということはない。

▼68年たった。8.15のたくさんの涙を超え、日本人が大切に重ねてきた歳月である。戦後という時代を思うとき、その出発点の涙を忘れてはなるまい。さまざまな矛盾をかかえつつ「戦後」はずしりと重いのだ。「昭和萬葉集」からもう1首引く。「新しき世をし創らむと若きらがひたぶるなりしその貌(かお)を見よ」羽場喜弥。