私の母は昭和20年3月の東京大空襲で壊滅した下町で育った。
当時、母は女学生。祖母(母の母)は母の弟妹とともに郷里へ疎開して、母は祖父(母の父)と暮らしていた。
長兄は徴兵されて房総半島で穴掘りの日々。もう武器もなく、それしかやる事がなかったとか。次兄は予科練だったが特攻には行かず、のちの敗戦前に中国上海から三重県へ移動していて引き上げの苦労はなかった。
女学生といっても既に授業はほとんど行われず“勤労奉仕”の毎日。あの“風船爆弾”も作っていたようだ。
米軍による小規模な攻撃から紙一重の差で助かったり、延焼防止のための強制疎開をうけ近場での転居もしたと聞く。
そんなある日。屋外での作業中に上空高く米軍のB29が飛んでいった。
たった一機で下から矢のように迎え撃つ小さな日本機(零戦?)。
体当たりだ!!
「あぁ!!!」と見ていると、なんと大きなB29がおもちゃのようにバラバラになって、ヒラヒラと散っていく。体当たりした機体は奇跡的に形をとどめたまま、こちらに向かって落ちてくる。
引率の教師が叫ぶ。
「伏せぇーーーーーーーーー!!!!」
「きゃぁーーーーーーーーー!!!!」
女学生たちの頭上をかすめた機体は東京湾の河口干潟に墜落した。動かぬパイロットを乗せたまま、爆発もせずにズブズブ沈んでしまったという。足場が悪いからか長く放置され、戦後10年もたってから引き上げられたニュースを聞いたそうだ。パイロットは長野県飯田市の人であった。
そんな情勢から祖父は決断した。「ここらへんはもう危ない。」
当時、港区芝の印刷会社に勤務していた祖父はさっさと会社の宿直室に娘(母)とともに引っ越した。印刷会社といっても既に物資統制で印刷する紙はなかったが、「まだ給料はもらってるからな。留守番くらいしてもいいだろう。」と。
昭和20年3月10日未明、いわゆる「東京大空襲」で米軍が焼夷弾の大量投下による無差別絨毯爆撃を行い、その時だけで10万人が死亡し東京の30%以上が壊滅したのは、その直後のことだった。
幸いにも被害を逃れた芝から下町へ様子を見に行った祖父は、遅く帰って来て娘(母)に言った。「お前は行くな。見に行っちゃだめだ。」
そして東京から完全に逃げ出すことを決めた。
その後、5月の空襲で芝も焼けた。
母には娘時代の友人がいない。
「あれっきり戻らずに疎開した。たぶんあの時に同級生はみんな死んだ。」という。
最近聞きなおした話だが、昔聞いたのと細部が少し違うような気もする。私の父は無口だったうえに早世したから戦時の話は聞きそこねた。徴兵されて中国へ行ったが「すぐ病気になって帰されて来た。」としか知らない。満州ハルピンに親戚もいたようだが・・・。だからそのぶんも、母の体験を私の記憶に移しておこうと思うのだが、母どころか私も記憶力が悪くなってきたし、なかなか実家に帰らないから機会も少ない。
伯父様・叔母様方、もし訂正があったら教えて下され。
当時、母は女学生。祖母(母の母)は母の弟妹とともに郷里へ疎開して、母は祖父(母の父)と暮らしていた。
長兄は徴兵されて房総半島で穴掘りの日々。もう武器もなく、それしかやる事がなかったとか。次兄は予科練だったが特攻には行かず、のちの敗戦前に中国上海から三重県へ移動していて引き上げの苦労はなかった。
女学生といっても既に授業はほとんど行われず“勤労奉仕”の毎日。あの“風船爆弾”も作っていたようだ。
米軍による小規模な攻撃から紙一重の差で助かったり、延焼防止のための強制疎開をうけ近場での転居もしたと聞く。
そんなある日。屋外での作業中に上空高く米軍のB29が飛んでいった。
たった一機で下から矢のように迎え撃つ小さな日本機(零戦?)。
体当たりだ!!
「あぁ!!!」と見ていると、なんと大きなB29がおもちゃのようにバラバラになって、ヒラヒラと散っていく。体当たりした機体は奇跡的に形をとどめたまま、こちらに向かって落ちてくる。
引率の教師が叫ぶ。
「伏せぇーーーーーーーーー!!!!」
「きゃぁーーーーーーーーー!!!!」
女学生たちの頭上をかすめた機体は東京湾の河口干潟に墜落した。動かぬパイロットを乗せたまま、爆発もせずにズブズブ沈んでしまったという。足場が悪いからか長く放置され、戦後10年もたってから引き上げられたニュースを聞いたそうだ。パイロットは長野県飯田市の人であった。
そんな情勢から祖父は決断した。「ここらへんはもう危ない。」
当時、港区芝の印刷会社に勤務していた祖父はさっさと会社の宿直室に娘(母)とともに引っ越した。印刷会社といっても既に物資統制で印刷する紙はなかったが、「まだ給料はもらってるからな。留守番くらいしてもいいだろう。」と。
昭和20年3月10日未明、いわゆる「東京大空襲」で米軍が焼夷弾の大量投下による無差別絨毯爆撃を行い、その時だけで10万人が死亡し東京の30%以上が壊滅したのは、その直後のことだった。
幸いにも被害を逃れた芝から下町へ様子を見に行った祖父は、遅く帰って来て娘(母)に言った。「お前は行くな。見に行っちゃだめだ。」
そして東京から完全に逃げ出すことを決めた。
その後、5月の空襲で芝も焼けた。
母には娘時代の友人がいない。
「あれっきり戻らずに疎開した。たぶんあの時に同級生はみんな死んだ。」という。
最近聞きなおした話だが、昔聞いたのと細部が少し違うような気もする。私の父は無口だったうえに早世したから戦時の話は聞きそこねた。徴兵されて中国へ行ったが「すぐ病気になって帰されて来た。」としか知らない。満州ハルピンに親戚もいたようだが・・・。だからそのぶんも、母の体験を私の記憶に移しておこうと思うのだが、母どころか私も記憶力が悪くなってきたし、なかなか実家に帰らないから機会も少ない。
伯父様・叔母様方、もし訂正があったら教えて下され。
これはまた、格別なるお褒めのお言葉、恐縮至極なりーー。
(百閒先生の著作、ほぼ全部持ってる)
ギャップもすごかったでしょうねぇ。
しみじみ・・・
きちんと聞くことがかないませんでした。
山梨県の忍野へ疎開する前は、
小石川に住んでいたそうなのですが…残念。
忍野では結核と十二指腸虫と皮膚炭疽に悩まされたとか、
蛇を捕って食べたとか、重く辛い話を覚えています。
13年生まれで小樽出身の父は全く苦労していなかったようです。
舅や姑の話を聞くと、また大きな違いがあり、
地域やお家事情で大きな差があったことも思い知らされました。
世界情勢の大勢も見えず退き時も分からぬ施政者を持つと、一般庶民はたまったもんじゃないと思います。
貴重なお話が聞けて、勉強になりました。
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