土の上にも三年

農への道

目標と目的(主観と社会正義)

2013-09-24 20:49:45 | どうでも日記(雑記系)
目標も目的も、目指すという意味においては主観に依存する。主観と社会正義の2つの概念には重なる部分も多い。しかし社会正義というものは、客観性を暗示させる要素を持つような気がする。主観と社会正義は、主観という部分で重なるものの、社会正義は主観だけで語られない。客観と主観の重なりを大きく拡大したものが社会正義なのかもしれない。

客観が主観の重なりであるとすると、客観は普遍であるとも言えるだろう。多様な価値観の集まりとは、多様の無限性から解釈するにあたって、常どこかに一定の領域を持つと解釈できる。

しかし客観が普遍であるとする考え方に落とし穴は無いかと考えると、以下のようになる。わかりやすく咀嚼してみると、客観は主観の重なりではなく主観同士の妥協だという立場を書こうとしている。社会正義とは主観の妥協であるべきだ。(←ここちょっと訂正。主観の妥協を内包するべきだ、が妥当のような気がする。)


無限の主観の重なり、というと、無限の多様性に重なりが無い(重なる部分と重ならない部分が必ず存在する)ことから、無限にある主観の中心点をイメージできる。つまり重ならない部分を折衷する案に客観性の本質が伺える。重なることを強くイメージし過ぎると、無限の多様性の前には逆説的に重ならない部分を排除しようとする考え方をせざるを得ない。

重なり得ないという感覚こそが主観で、それを踏まえてこそ客観というものも重なり得ないことを想像できうる。


目標というものは目指すもので、目的も目指すものだ。ただし、標と的は意味が違う。標にはゴール的な意味合いが薄く、的には明確な存在への要求的な意味合いが濃い。道はどこまでも続くとイメージするか、道がどこかでゴールするとイメージするかの違いだと思われる。

常どこかにある一定の領域が客観であることは間違いのない考え方ではないかと思えるものの、その一定の領域をどのようにイメージするかに大きな分かれ道があると捉える。

主観の重なりを客観と捉えるのか、主観の折衷ポイントを客観と捉えるのか。ここに多様性に対する思考の深さが表れるだろう。どちらが多様性を深く思考しているのかは、それぞれの考え方に依存したものだ。どちらが深く思考している、とは断言できないだろう。

ここで終わりなんだけど何という歯切れのなさ(笑)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿