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わが友チェ・ゲバラ (BBC)

2005-05-09 21:49:05 | 中南米関連
エルネスト・”チェ”・ゲバラは大多数の人にとっては革命の象徴かもしれないが、キューバの生化学者アルベルト・グランドにとっては友人だ。彼がBBCのドキュメンタリーのために二人のとんでもない友情について語った。

1952年、アルゼンチンの2人の若者がバイクで南アメリカの冒険旅行に出発した。彼らの旅は彼らの長い人生の中でお互いの結びつきを強め、彼らのその後を変えるものとなった。
その旅は最近『モーターサイクル・ダイアリーズ』という映画になったが、 アルベルトは、チェの死後40年近く経とうとしているのに、チェにアドバイスを求めることがあるという。
「彼は決して私のことを忘れないし、私も彼のことは決して忘れない。彼の個性はとても強烈で、忘れようたって無理さ。特に私にとってはね」とキューバの生化学者はBBCに語った。

バイクに乗ったゴマノハエ

後に一緒に旅することになる二人は1942年に出会った。アルベルトが20歳、チェは14歳だった。
その時から、アルベルトにはチェが重要な人間になることは予見できた。
「チェのことで一番素晴らしいのは、その誠実さだ。それから、ネガティブなものをポジティブに変えてしまう力だ」と彼は言った。
彼らはねっからの仲間だったが、チェはそうそう扱いやすい友人とは言えなかった。
「彼には妥協が無かった。彼のヴィジョンを共有しそれを信じないことには付き合うのは簡単じゃなかった」とアルベルトは言っている。
行動的な若者たちは、1952年に彼らのバイク「ポデロサ」にまたがって旅に出たときから、長年の夢を現実に変えていったのだった。
彼らはアルゼンチンからチリへと大陸を横断したが、早くもチリで金が無くなり、後にチェが語ったところの「バイクに乗ったゴマノハエ」にならざるを得なかった。
二人組みは人から巻き上げたり、騙したりしながら、見知らぬ人々の善意や親切に支えられて南米大陸を横断した。
ポデロサは最終的には。チリのロス・アンヘレスで壊れ、二人はボート、馬、トラックを乗り継いで旅を続けた。
アルベルトにとって、その旅はとんでもない時でもあった。「誰か愛する人に別れを告げるようなものだった」と彼は述べている。

人々の医師

旅は、彼らの目を不平等へと向かせることにもなった。
「旅が、私たちに貧しさと豊かさについて気づかせてくれた。最も重要なことは、私たちが、間違っていて不公正なものについての当たり前の感覚を持っているということに気づくことだ」とアルベルトは述べている。
サンパウロのハンセン病患者ので過ごした週は、彼らの転換点になった。二人は何もかもハンセン病患者たちと分け合った。
「私はその時、チェが象牙の塔の医学意別れを告げ、人々のための医師になることを決めたという印象を持った」とアルベルトは、チェが出発の時に手を振る姿を思い浮かべながら述べた。
9か月間旅を続け、二人はベネズエラの首都カラカスで別れた。アルベルトはカラカスの留まりハンセン病の研究に従事した。一方チェは、医学部を卒業するためブエノスアイレスに戻った。
その後、チェはメキシコへ渡り、そこで後のキューバの指導者フェデル・カストロに会った。1956年、彼らは革命軍を率いてキューバに革命を起こした。
1959年の革命の成功の後、チェはアルベルトをキューバに招いた。アルベルトにとって、「彼がいつも夢いていた」国に家庭を築くことはたやすいことだった。
キューバは、いつも消費について考えるかわりに、科学的観点から芸術的観点から人々が自分自身で高めることができると彼が言っていた場所だった。

遺産

キューバ革命後、二人はそれぞれの道を歩むことになる。
「チェは解放運動の道を選んだ」とアルベルトは語った。
アルベルトは、チェの旅立ちがカストロやソ連からの要請であったという推論には否定的だ。
「彼はただラテン・アメリカに革命を起こしたかっただけなんだ」
ボリビアでチェ・ゲバラが処刑されて37年、いまだに彼の顔は数万枚のTシャツやポスターにプリントされ、伝説は本や映画となって生きている。
「彼の発言や考えや行動は、いつも価値のあるものだった。だからいまだに彼の肖像が使われているのさ」とアルベルトは言う。
アルベルトは彼の旧友の「賛美者」であり続ける。
「私たちの旅、キューバ革命、そしてチェが今の私を作った。何か迷いがあるときには、エルネストならどう言うだろうと私は自分に聞いてみるのさ」 (BBCのサイトから)

このドキュメンタリー、ぜひ見たい!

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